第4話

文字数 5,296文字

 あとで起こして二、三発殴ろうと決め、冬馬は頭を切り替えた。
 この音声は、おそらく龍之介を脅すため、あるいは金が支払われなかった時の保険として録音したのだろう。龍之介の言い回しからすると、志季の言う通り計画を立てたのは別の人物。そして椿と志季が悪鬼に気付かなかったのは、封印されていたから。しかし、襲われた時の状況と異なる。それに、彼女たちは龍之介を置き去りにしたにも関わらず、男たちを追った冬馬の行く手を塞いだ。
 どうなっている。
「志季、さっさと連れて行け。空気が淀む」
「言われるまでもねぇ! 覚悟しろよクソ龍が!」
 力いっぱい悪態をつきながら、志季が憤然とした顔で冬馬の手からボイスレコーダーを奪い取り、袂に放り込んで龍之介の元に歩み寄った。不意に、ううーん、と龍之介が寝ぼけ声を上げ、冬馬が弾かれたように踵を返した。
「あ、こいつ気が付きやがっ」
「志季」
 志季の言葉を遮り、冬馬は龍之介の側で足を止める。志季は冬馬の険しい横顔を見て瞬きをし、その場を譲るように下がった。また左近も口を挟む様子はない。うっすらと目を開いた龍之介が、夢から覚めたような目でぼんやりと冬馬を見上げた。
「気が付いたか?」
 蔑みの目で見下ろし冷ややかな声で問うと、龍之介がじわじわと大きく見開いた。あっと声を上げ、すぐにいたたたと頬を押さえて体を丸める。全身砂埃だらけで、鼻と口から流れた血は固まり、力任せに殴りつけた頬も見事に腫れ上がっておたふく風邪のようになっている。
 冬馬はおもむろに膝をつき、胸倉を掴んで上半身を起こした。ひっ、と龍之介が喉を引き攣らせて悲鳴を上げ、咄嗟に交差させた両腕に頭をうずめた。じたばたと足をばたつかせて抵抗する。
「わわわ悪かった、もうしない、もうしないから許してくれぇ」
 情けない声でそう訴える龍之介に、冬馬は一ミリも表情を動かさずに問うた。
「信じると思うか?」
「ほ、ほ、本当に本当だ。これからは心を入れ替える、もう絶対しない約束する……っ」
 龍之介は足を縮ませて背中を丸め、全身をガタガタと震わせた。その様子をしばらく見つめて、冬馬は短く息をついた。胸倉からゆっくりと離された手を見て、志季と左近が残念そうな顔をする。
 少しして、龍之介が腕をじわりと下ろしてそろそろと顔を上げた。とたん、冬馬は飛びかかるように胸倉を掴み直した。ひっと引き攣った悲鳴を上げた龍之介の頬に、二度目の全力の拳が命中した。
 勢いよく地面に倒れ込んだ龍之介を冷ややかに見据えたまま、冬馬は腰を上げた。冷然と言い放つ。
「殺されなかっただけマシだと思え」
 龍之介は再び白目を剥いてぴくりとも動かない。冬馬は気が済んだとばかりに全身で深く息を吐き出した。
「よしよし、よくやったぞ冬馬。ここから先は俺らに任せろ」
「良い一撃だった」
 満足そうに笑みを湛えた神二人が、冬馬の両肩にそれぞれ手を乗せた。そして左近は縁側の沓脱ぎ石にあった革靴を手にし、志季は龍之介をよっこらせと俵担ぎした。
 ふと志季が冬馬を振り向き、じっと見つめて何か言いたげに口を開く。何だろう。冬馬が瞬きをして小首を傾げると、志季は諦めたように目を伏せて息をついた。
「左近、そいつのこと頼んだぞ」
「貴様に言われるまでもない。さっさと行け」
 左近は龍之介のスラックスの尻ポケットに靴を捻じ込んだ。それを見て、冬馬はしまったという顔をした。さっき、靴のまま縁側に上がってしまった。あとで謝らなければ。
「はいはい。じゃあな冬馬」
「ああ。志季、ありがとう。椿さんにも伝えてくれ」
「了解」
 改めて礼を言うと、志季は笑顔で背中を向けてひらりと手を振り、とんと大きく跳ねてあっという間に姿を消した。
 さっきの顔は何なのだろう。何か、言いあぐねたといった感じだったが。冬馬は左近を振り向いた。
「どこに連れて行ったんだ?」
「寮だ」
「寮?」
 問い返すと、左近は意外そうな顔を冬馬に向けた。
「聞いておらんのか」
「ああ……」
 寮といえば学生寮や社員寮などが思い浮かぶ。仲間がいるようだし、もしかして陰陽師専用の寮があったりするのだろうか。左近がじっと冬馬を見つめて答えた。
「陰陽師らが暮らす場だ」
 やっぱりだ。となると、樹も母親と一緒にそこにいるのだろうか。
 脳裏を掠めたのは、一度だけ見た小さく痩せ細った背中。弱々しくもあり、頑なに現実を拒絶しているようにも見えた。それでも樹があんなふうに笑えるようになったのなら、仲間の存在はもちろんだが、環境が変わって落ち着いたのかもしれない。
「そうか……」
 小さく呟いて視線を逸らした冬馬に、左近は眉間に皺を寄せた。
「冬馬といったな」
「え、ああ」
 ふいと視線を上げると、ものすごく不機嫌そうな紫暗色の瞳が見下ろしていた。
「何か聞きたいことがあるのなら聞け。気持ちが悪い」
 そんなに分かりやすく態度に出ていたのだろうか。冬馬はバツの悪い顔で視線を泳がせ、俯いて首筋に手を当てた。そのまましばらく沈黙し、やがてぽつりと呟く。
「……樹も、そこにいるのか」
「ああ」
 用意していたような早さで答えが返ってきた。
「じゃあ、母親も一緒なんだな」
 その質問に、返事はなかった。おかしなことではないはずだが。冬馬が顔を上げると、左近は首を横に振った。
「奴の母親は、亡くなっている」
「え……?」
「病だ」
 それだけ言って、左近は口をつぐんだ。
 いつ頃亡くなったにせよ、この三年の間であることは確かだ。あの出来事に加え、母親の死。心臓を鷲掴みにされたような息苦しさを覚えた。ただせめてもの救いは、亡くなった時、樹の側には仲間がいただろうと思えることだ。
「……そう、だったのか……」
 かろうじて声を絞り出して俯いた冬馬に、左近は密かに息をついた。
「時に冬馬」
 冬馬が我に返って顔を上げると、左近はふいと視線を遠くへ投げた。
「私はここを離れられん。もしもということがある、お前もしばらくいてもらうぞ」
 彼女たちがまだ近くにいるようだし、桜と母親の護衛のためだろう。志季は結界で隔離していると言っていたが、それでも襲撃を受ければ危険だ。
「分かった。話は志季から聞いてる。と、そうだ。今さらだけど、こんなに騒いで大丈夫だったか? 桜さん体が弱いんだよな」
 左近が横目で冬馬を見やった。
「問題ない。自室とは別の場所にいる。先程の揺れは感じただろうが、事情は説明してある」
 龍之介が慌てていたのは、計画が失敗したことだけでなく、桜が自室にいなかったせいもあるらしい。冬馬はほっと息をついた。騒ぎで体調が悪くなったら申し訳が立たない。
「それなら良かった。あ、それと、さっき靴のまま縁側に上がったんだ。掃除を……」
「構わん。元々奴を相手にする気はなかったのだ。むしろ手間が省けた。気にするな」
 志季は左近が油断したと言っていたが、あえて龍之介を見逃したらしい。桜と母親を結界で隔離しているのなら、龍之介がどうこうできない。それよりも、彼女たちを屋敷に入れない方に重点を置いたようだ。陰陽師らしい彼女たちを入れると、結界を破られてしまう。なるほど、と冬馬は納得した。
「でも、あとで謝っておいてもらえるか?」
 先程の砂埃もあるし時間があるなら掃除しようか、と考えながら頼むと、左近はじっと冬馬を見つめたまま言った。
(はる)と椿が、喜んでおったぞ」
「え? あ」
 お礼の品のことか。唐突に振られた話題に小首を傾げつつ、冬馬はどこか嬉しそうに微笑んだ。
「喜んでもらえたのなら良かった。ちょっと電話いいか?」
「ああ。縁側にでも腰掛けていろ」
「ありがとう」
 そう言って縁側へ足を向けた冬馬の背中をしばし見つめたあと、左近は再び遠くへ視線を投げた。
 尻ポケットから取り出した携帯の時計は、すっかり九時を回っている。圭介(けいすけ)からの着信が一回と、(のぼる)からの着信が連なっていた。今日は、圭介は時間通り、智也は遅れての出勤予定だった。連絡する余裕がなかったのは、仕方ない。縁側に腰を下ろしながらひとまず圭介に電話する。
 廊下の明かりに照らされながら、冬馬は携帯を耳に当てて左近の背中を見やった。白い月の光を浴びる立ち姿は神々しく、凛として気品がある。戦っている時の勇ましい姿からは想像できないほど、美しい。
 まさか鬼や神をこの目で見ることになるとは、人生は本当に何があるか分からない。
 密かに苦笑していると、コール四回で繋がった。
「もしもし冬馬さん? 大丈夫ですか?」
 急いたような心配声の圭介に、冬馬はああと頷いた。
「大丈夫だ。そっちは?」
「えーと、俺らは今警察です。一応聴取は終わってますけど、また後日改めてって来て欲しいって言われました。智也は病院に」
「病院?」
「はい。怪我を治さなかったんですよ」
「なんでだ」
 硬い声で尋ねると、左近がちらりと後ろを振り向いた。
「証拠がなくなるからって」
「……ああ、なるほど」
 血痕が残っているだろうから念のために行ったのかと思ったが、傷害罪を確実に追加するためだろう。今回の誘拐未遂に加え、男たちは余罪があるようだったし、実刑は免れない。
「怪我の具合は?」
「詳しくは聞いてないですけど、そんなに深く刺さってなかったみたいです。智也の家族には連絡が行ってるんで、あとでどこの病院か聞いて様子を見に行きます」
「そうか」
 冬馬は静かに息をついた。傷が浅かったとはいえ、痛まないわけがないだろうに。
「リンとナナは?」
「ナナは……見た感じは落ち着いてますけど、どうでしょう。リンは、取り乱してはないですけど、まだちょっと……」
 リンは自分のせいだと思っているようだし、目の前であんなことになって相当ショックを受けているだろう。だが、ナナが一緒だ。彼女もまったく平気ではないだろうが、圭介がいる。
「今、ナナの親が迎えに来てくれるの待ってるんです。リンがまだ実家には連絡入れないで欲しいって言うんで、今日はナナの家に泊まることになりました」
 確か、リンの実家は奈良だ。両親ともに単身赴任が多く、祖父母に育てられたと聞いている。祖母はリンが小学生の頃に亡くなり、京都の短大へ進学するまで実質祖父と二人暮らしだったそうだ。ずいぶんと仲が良いみたいだから、心配をかけたくないのだろう。
「それなら、その方がいいだろうな」
 さすがに一人にはできない。明日にはまた確認のために警察に行かなければならないし、二人一緒の方が安心できる。
「あの、それでですね」
 圭介が声を潜めた。
「椿のことなんですけど」
「ああ、人に見られたか」
「はい。ただ、目撃者はいたんですけど、混乱してたし見てない人もいたみたいなんで、ごまかしました」
「どうやって」
「見えたんですか? って」
 冬馬は目をしばたいた。それはつまり。
「幽霊ってことか?」
「はい。俺ら霊感があることにして、守護霊なんですって押し通しました。ついでに悪鬼のことも話したら、こいつらヤバいみたいな顔されました」
 それはそうだろう。
「防犯カメラにも映ってると思いますけど、見た感じ古そうだったんで、映像次第では何とかなると思います」
 なるのか、それ。
「あと、アパートの中から逃がしたんですけど、それも見える人がいたら騒ぎになるからって言いました」
 また突拍子もない言い訳を思い付いたものだ。しかもかなり苦しい。とはいえ、椿が見つかることは絶対にないから曖昧で終わる、かもしれない。それに、自分も聴取を受けることになる。冬馬は苦笑いで小さく噴き出して、肩を震わせた。
「分かった。もし聞かれたら話を合わせておく」
「すみません、お願いします。それと、冬馬さんのことを聞かれて、犯人を追いかけてるって正直に言っちゃったんですけど……」
 置きっ放しにした車の鍵は冬馬が持っている。借りたという言い訳は通らない。
「構わない。どのみちあいつらが捕まれば全部バレる。式神や悪鬼のことはともかく、正直に言った方がいい」
「あ、そうですよね。え、あの、あいつら……」
「悪い、逃げられた。ただ龍之介は捕まえたから、また詳しく説明する」
「そっか、龍之介は捕まえたんですね。良かったぁ……」
 圭介がほっと安堵の息をついた。
「圭介、実はすぐ戻れそうにないんだ。また連絡するから、頼めるか」
「はい、分かりました」
「それと、店に連絡は?」
「あ、昇さんに。どうせ分かるので、全部話しました」
 意外な答えだった。てっきりしていないと思っていたのに。昇のことだ、混乱したということはないだろうが、確認のために連絡を寄越したのだろう。今頃やきもきしているかもしれない。
「それでいい。俺の方にも着信があったから連絡しておく」
「分かりました」
「じゃあ、こっちから連絡するまで警察に俺のことは言うなよ」
「了解です」
 確か、車の鍵は開いているはずだ。警察が保険証券を調べれば連絡が来るが、その時は状況次第で無視するなり対応するなりすれば問題ない。
「圭介」
「はい?」
 冬馬は、口元に笑みを浮かべた。
「一人でよく対応した。引き続き頼む」
 そう言うと一瞬沈黙が流れ、
「はいっ」
 嬉しそうな答えが返ってきた。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み