第7話

文字数 4,899文字

 紺野は静かに息をつき、頭を切り替えた。成美の来訪には驚いたがちょうどいい。直接話が聞ける。
「成美さん。何度も聞かれたと思いますが、一ついいですか」
 一転して刑事の声色になった紺野を、成美と朝辻が見やる。
「三宅がトラブルを抱えていたという話を聞いたことはありませんか。ここ最近でなくても構いません。昔、例えば以前の職場に勤めていた時とか、学生時代とか」
 成美は涙を拭い、困った顔で首を横に振った。
「あたしたち、本当に何も知らないの。あいつ、昔から気が弱かったから、誰かと揉めたとかそういう話は一度も聞いたことがなくて。母も何も聞いてないって言ってたわ」
 成美が言うには、三宅と連絡を取っていたのは母親だけだったらしい。
 十七年前、病院で顔を合わせたあとのことだ。紺野の両親に帰ってくれと言われ、三宅の両親は三宅を連れて病院を去った。そのあと、成美同様、父親は三宅と縁を切ると宣言し、しかし母親だけは時折連絡を取っていたという。三宅は当時勤めていた会社を辞め、転居した。数年後、母親の元に入ったのは再婚の連絡だった。それを聞いた成美も父親も激怒したが、相手の女性に何ら非はない。彼女は子供の頃に両親を亡くし祖父母に育てられたが、その祖父母も他界しており、天涯孤独の身だったらしい。同情心もあって、成美も父親もそれ以上は何も言わなかったが、一度も会ったことがないそうだ。
「あたし、紺野のおうちの人たちが大好きだった。いつも明るくて、おおらかで、笑いが絶えなくて、羨ましかった。うちは、ああ見えて父が亭主関白なの。外面だけはいいものだから、周りからの評判はいいのよ。でも、養ってやってるんだから自分の言うことが絶対だって考えの人。時代錯誤もいいとこ。窮屈で仕方なかった。でも、昴くんが生まれて、ちょっと変わったの。携帯なんて興味なかったのに、写真の撮り方とか待ち受けの変え方とか、色々聞いてくるようになってね。初孫だったから余計に嬉しかったんでしょうね。少しずつ、家の中の雰囲気が良くなっていった。これも昴くんのおかげね、なんて母とよく言ってたわ。それなのに、あいつが全部壊した」
 何の躊躇いもなく告げられた言葉は、それでも十七年分の悔しさや三宅への嫌悪が込められているようで、重々しく耳に響いた。
「トラウマなんて人それぞれよ。分かってるわ。もしかしたら克服しようとしたのかもしれない。けど結局、あいつは逃げたの。肝心な時に逃げて、自分が楽になる方を選んだ。あいつは」
 成美は唇をきつく結び、
「昴くんを傷付けて、朱音ちゃんを――殺したも同然だわ」
 喉の奥から絞り出すように、そう吐き出した。
「あたしは、今でもあいつが嫌い。連絡先も知らないの。でも……、それでもやっぱり、殺されたって聞いていい気はしないし、どこの誰が犯人なのか気になるわ。それに、あたしにも夫と子供がいるから、奥さんや子供のことを考えると可哀相だと思うし。……けど、どうしても会おうとは思えないの」
 三宅と妻子を受け入れることは、朱音と昴への裏切りだと思っているのかもしれない。成美は、朱音と昴への罪悪感と妻子への同情に、板挟みにされている。昴に会えば、彼女の心が少しは軽くなるだろうか。
「ごめんなさい。何の役にも立てなくて」
「いえ、俺の方こそこんなことを聞いてすみません。でもお会いできて良かったです」
 成美が一瞬驚いたように目を丸くして、困ったように笑った。
「ごめんね。ほら、あたしの記憶、高校生の時の誠一くんで止まってるから。改めて、大人になったんだなって思って。さっき朝辻さんから聞いたわ。警察官を目指してることは朱音ちゃんから聞いて知ってたけど、すっかり立派な刑事さんね」
 言われてみれば、最後に会ったのは病院で三宅をぶっ飛ばした時だ。紺野はバツが悪そうに頭を掻いた。
「俺、もう三十五ですよ」
「そっか。あたしと六つ違いだったわよね。結婚は……」
 語尾を濁しながら紺野の手元に目を落とす成美につられて、朝辻も視線を向けた。
「残念ながら」
 素早く手を後ろに隠しながらぷいとそっぽを向くと、成美と朝辻がくすくす笑った。
「誠一くん、今彼女はいないの?」
「豊さん……」
 余計なことを突っ込んだ朝辻に恨めしい目を向ける。三十も過ぎると、年の話から必ずと言っていいほど結婚の話へ繋がる。結婚願望がないわけではないが、こればかりは相手がいないとどうしようもないのだから放っておいて欲しい。
「誰がいい人いないの?」
「いません! もういいじゃないですか!」
 噛み付くように声を荒げると、成美が声を上げて笑った。先程までの泣き顔や曇った顔が嘘のような、屈託のない笑顔だ。そんな彼女を見て、朝辻が満足そうに微笑んだ。もしやこれが狙いだったか。紺野は、仕方ないと諦めの表情で嘆息した。
 成美はひとしきり笑うと、大きく息を吐いて居住まいを正し、朝辻を見上げた。
「今日は突然お邪魔してすみませんでした」
「いいえ。お話しできて良かったです。朱音ちゃんと昴のことをこんなにも気にしてくれていると知れて、嬉しかったですよ」
 安心した顔で微笑んで、成美は紺野へ視線を向けた。
「勇気を出して来て良かった。また、こうして話しができるとは思ってなかったから」
「昴が見つかった時は、必ず連絡します」
「ありがとう」
 すっかり緊張が解けた顔で笑う成美を見て、紺野と朝辻はほっと安堵の息をつく。
「じゃあ、あたしはそろそろ。本当にありがとうございました」
「大阪まで車ですよね。気を付けて帰ってくださいね」
「はい、ありがとうございます」
 朝辻の気遣いに礼を言い、成美は会釈をして背を向けた。授与所にいる比沙子にも深々と頭を下げ、背筋を伸ばして参道を進む。監視役も成美の顔を知っている。話を聞かれるだろうが、彼女のことだ。適当に交わすだろう。
 紺野はふと顔を曇らせた。犯人を早く捕まえて欲しいとか、両親によろしくとか、言わなかった。さすがに無関心というわけにはいかないようだが、成美の中で、三宅は犯罪者と同等という認識で、また紺野の両親に対しては後ろめたさがあるからだろう。
 複雑な心境の中に、成美はいるのだ。できるだけ早く昴と会わせてやりたいが。
「ところで、誠一くん。出歩いて大丈夫なの?」
 成美の背中が見えなくなってから、朝辻が心配そうな声で言った。
「ええ。監視は付いてますが、向こうも俺が大人しくしているとは思ってないですよ」
「問題児みたいだなぁ、それ」
「似たようなもんです」
 何せ一課長から二度も釘を刺されたのだ。開き直った顔の紺野に、朝辻が苦笑した。
「それより豊さん。例の文献のことですが」
「うん?」
「誰かに話したことはありませんか」
 朝辻はきょとんとした顔をして小首を傾げた。
「妻には話したけど、他の人には話してないよ。どうしてだい?」
「いえ、ちょっと気になって。あれから、警察には?」
 朝辻は顔を逸らし、小さく首を横に振った。
「どうしてですか?」
 静かに問いかけると、朝辻は顔を曇らせた。
「この前、誠一くんに言ったことは嘘じゃないよ。一年前、夏祭りの前に宝物庫の掃除をして、見落としたんだろうと思ってそのまま忘れていた。けど、きちんと確認をしたのは、それからしばらく経ってからだった。秋分祭の準備をしていて思い出したんだ。宝物庫には他にも色々貴重な物があるのに、一切手を付けた形跡がなくてね。だから……、一瞬、昴かもしれないと思ったんだ」
 あの時、無くなっていると言ったのは、夏祭りが近い最近に確認したからだと思っていた。
「それで警察に通報しなかったんですか」
 うん、と朝辻は頷いた。
「もし本当に昴だったとしたら、それで構わないと思った。歴史的価値なんてものは、僕にとってはどうでもいいんだ。あの子がどんな理由で出て行ったにせよ、あの力で悩んでいたのは間違いない。自分の力の正体が何なのか、あの書物を読んで分かったとしても、簡単には受け入れられないだろう。それでも、あの子があの子らしく生きていくために必要な物なら、そしていつか帰ってきてくれるのなら、それでいいと」
 朝辻は祈るように目を伏せた。
 昴が、昴らしく――今、自分と同じ力を持つ彼らと一緒にいる昴は、力を受け入れて「らしく」生きていると感じているだろうか。
「そうでしたか……」
 朝辻はゆっくりと瞼を持ち上げて、紺野を見やった。
「誠一くんは、うちの主祭神のことを知ってる?」
 脈絡のない質問に、紺野は慌てて頭を切り替える。
「えーと、確か猿田彦大神(さるたひこのおおかみ)、でしたか」
「どんな神様かは?」
「あー、いえそれは……」
 昔からちょくちょく通っているため、猿田彦大神が祀られていることは知っているが、どんな神様なのかは知らない。正直に言うと興味がなかった。
 視線を泳がせ、決まりが悪い顔でしどろもどろに答えた紺野にくすりと笑い、朝辻は足を進めた。
「猿田彦大神は、みちひらきの神様なんだよ」
「みちひらき?」
 授与所の角から出ると、そろそろ昼時だからか、参拝者の姿はなく監視二人の姿が灯篭の影に見えるだけだった。ゆったりとした足取りで拝殿へと向かう朝辻を追う。
「猿田彦大神は、邇邇芸命(ににぎのみこと)天降(あまくだ)りの際に道案内をして、高天原(たかまがはら)と黄泉の国の間にあるとされる国、葦原中国(あしはらのなかつくに)に無事お送り届けた神様なんだ。そこから、道の神や旅の神、物事を正しい道に導く神と言われるようになった」
「正しい道……」
 紺野は口の中でぽつりと呟いた。
 朝辻は拝殿の正面で足を止め、遠くを見るような眼差しを投げた。その横顔はとても穏やかで慈悲深く、しかしどこか物悲しげだ。
「山科区は古くから交通が盛んでね、東海道五十三次の街道町だったんだよ。江戸時代には、飛脚や参勤交代でたくさんの人が行き来していた。だから、多くの旅人の安全と無事を祈り、また感謝を捧げるために、猿田彦大神がお祀りされたんだ」
 ――祈りと、感謝。
 紺野は朝辻の視線を辿るように、拝殿へと視線を移した。
 旅といっても、今よりもはるかに時間も労力も必要だった時代。舗装された道もなく、獣やならず者も多かっただろう。そんな中を旅する者たちを思って人は祈り、感謝を捧げる場を人の力で作り上げた。かつての人々にとって、神がどれほど身近で重要な存在だったのかよく分かる。今ではすっかり、都合のいい時だけ願い事をする相手になってしまっているけれど。
 しかし、それをどうこう言う資格は自分にはない。身に覚えならいくらでもある。初詣に試合前や受験前。そして今。正直なところ、陰陽師たちや式神と関わっているからといっても、目に見えない神話の神の存在を信じられるかと聞かれれば、答えに困る。
 よく人生は旅に例えられるけれど、もし本当に正しい道に導いてくれる神がいるのだとしたら、昴も導いてくれるだろうか。それとも、もう導いてくれているのだろうか。傷付き、家を出た代わりに得たあの場所で、昴が自分らしく生きていると感じているのなら、これから先も彼らしく生きていけるのなら、一生猿田彦大神を崇拝する。
 ついでに事件を解決に導いて欲しい。そんな考えがちらりと脳裏をよぎり、紺野は自身に辟易した。刑事らしいと言えばそうなのかもしれないが、寝る時以外でもたまには事件のことを忘れたい。
 自嘲気味な息を吐き、視界の端に映った朝辻の姿を見やる。
 じっと微動だにせず、ただ静かに目を伏せている。また授与所の中でも、拝殿の方へ体を向けた比沙子が両手を合わせていた。
 昴がいなくなってから、何度こうして祈りを捧げたのだろう。我が子に、どうか神の加護と無事を、と。
 朝辻夫婦は気付いているのかもしれない。以前陰陽師のことを聞きに来たあの日から、昴が事件に関わっているかもしれないと。
 紺野は再び拝殿に真っ直ぐな眼差しを向けた。
「――必ず」
 不意に沈黙を破った紺野を、朝辻がゆっくりと振り向いた。
「必ず、もう一度昴に会わせます」
 そのためには、早く事件を解決しなければ。
「ありがとう」
 力強い眼差しで言い切った紺野を見つめ、朝辻は今にも泣きそうな顔で笑った。
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