第3話

文字数 5,380文字

「じゃあ、俺ら船の時間あるから帰るわ」
 そう言って皆を残しカラオケ屋を出たのは、ちょうど十九時頃だった。
 カラオケ屋の駐車場でヘルメットをかぶり、きちんとヘッドライトを点灯させた原付バイクでいつもの通学路を走る。
 七月も終盤に差し掛かると、この時間でもそこそこ明るい。逢魔ヶ刻と言っただろうか。魔物に遭遇する、災禍を被る時間。本来は十八時頃を指すらしいが、昼と夜の境目という意味を取るなら、今の時期はもう少し後だ。
 向島の漁港までは、片道四十分以上かかる。せっかく親を説得し、お年玉貯金を崩して普通二輪免許を取得したのに、買ってもらったのは中古の原付バイクだった。通学するなら原付で十分でしょ、と母親に一蹴されたからだ。原付バイクの法定速度は三十キロ以下。最速で飛ばしても片道三十分は、少々時間がかかりすぎる。
 走り慣れた道を、二十五キロ前後の速度でゆっくりと進む。先行は大河、後ろを省吾が追いかける。速度に対して文句を言う大河に、飛ばして人生台無しにするくらいなら遅刻した方がマシ、と冷静に言い放った省吾の発言を受け、いつの間にか定着した速度と順番だ。
 省吾みたいなタイプを合理主義者と言うのだろうか。
 島を出るか免許を取得するかの選択を迫られた時、決定打は省吾の一言だった。
『お前、勉強した上で家事全部自分でやれる自信ある?』
 すみませんありません、とその時の大河は一言も反論できずにうなだれた。
『そりゃあな、一人暮らしも興味あるよ。けど、俺まともに家事したことないからな。全部自分でやれる自信がない。それに、免許なら貯金で賄える。家を出たら、敷金礼金から家賃、光熱費、食費、あと家電とか、全部親に負担かかるし。不便だけど、今は別にいい。自分で稼げるようになったら自由にやればいいんだし』
 敷金礼金なんて言葉、テレビのCMで聞き流していた。あとで調べたら、賃貸物件を借りる時に初期費用としてかかるお金のことだった。中には敷金礼金無しの物件もあるが、家賃は二カ月前払いで、共益費、火災保険、仲介費、物件によって条件は変わるが、とにかくお金がかかる。
 島が好きで離れがたく思っていたが、省吾のおかげで揺れていた心は決まった。
 子供の時から何かを決めなければならない時、必ず省吾に相談していた。親でも他の友人でもなく、必ず、省吾だった。
 なんだかんだで世話になってるよなぁ、としみじみした気持ちでバックミラーに映る省吾の姿を確認した――瞬間。
 何でだ。
 ぞくりと背中に悪寒が走った。
 省吾の数メートル後ろ。ゆらゆらと揺れる、黒い煙のような物体が浮いている。大きい。しかも単体だ。今までは、本人がいる回り、もしくは背中に背負っているような状態でしか見たことがない。だがこの黒い煙は単体でふわふわと浮き、しかも、追いかけてくる。
「何だアレ、何で……っ」
 今までにない状況に、大河はハンドルを強く握った。落ち着け、と自分に何度も言い聞かせる。動揺して事故にでも遭ったら元も子もない。
 進行方向の信号が赤に変わり、大河はゆっくりと停車した。汗がにじんだ手をスラックスで拭くと後続車がいないことを確認し、省吾に横に来るように手で合図をした。それを見た省吾が隣に停車する。
「どうした?」
「ヤバい、付いて来てる」
「は?」
 食い気味に答えると、さすがの省吾もすぐに理解できなかったようだ。しかし逡巡し、
「ずっとか」
 理解を示した。
「多分」
「……とりあえず無視だ。様子を見よう」
「分かった」
 打ち合わせが終わると、タイミング良く信号が変わった。大河が先行し、省吾が後ろを走る。できるだけ気にしないように、前を向いてバイクを走らせる。
 影正が言うには、あれは人の負の感情だ。だとすれば、あれを生み出した者が必ずいるはずなのだ。しかし今は、二人はバイクに乗って道路を走り、しかも後続車がいない。だとすると、あれを生み出した本人はここにいないということになる。
 暴走、という言葉が脳裏に浮かんだ。
 もし、負の感情が巨大過ぎて、本人に抱えきれず暴走したのだとしたら、どうだろう。自分の力をコントロールしきれずに暴走なんて、漫画でよく見る鉄板のストーリーではないか。
 いや漫画じゃねぇし! と自分に突っ込みながらも、一定の速度で走行を続ける。
 本土と向島をつなぐ橋の手前にある信号をタイミング良く走り抜け、島に入る。ここから先に、信号は一つもない。ひたすら漁港目指して進むのみだ。
 橋の正面にある駐在所の前を右手に曲がり、沿岸の道路をひた走る。バックミラーには、省吾の背後に黒い煙が変わらず映っている――いや、違う。距離が縮まっている。
 少しずつ、徐々に、まるで獲物を狙う野生動物が、隙を狙ってじわじわと距離を詰めるように慎重に近付いて来ている。
 ヤバい! と感じた瞬間、考えるより先に口が動いていた。
「省吾飛ばせ!!」
 そう大河が叫んだと同時に、黒い煙が風呂敷のように大きく広がり省吾の頭上を覆った。省吾はスロットルを全開に回し、エンジンを低く唸らせながらスピードを上げた。タイミングが少しずれ、黒い煙はヘルメットに食らいついた。
「省吾!!」
「く……っ」
 突然、頭に何かが乗ったように重くなり、後方へと引っ張られる感覚が襲った。このままでは力ずくで引き摺り下ろされる。
 省吾は体を前に倒し、バイクにへばりつくようにして堪える。スピードを少しだけ落とし、片手で車体のバランスを取りながら顎のベルトを外して再度スロットルを回した。
 大河を追い越しながら、吹っ飛ぶようにヘルメットが脱げた。黒い煙はヘルメットを飲み込み、食虫植物のように口を閉じた。
 省吾が横を通り抜けた後すぐ、大河もスピードを上げて追いつく。並走しながら、省吾が叫んだ。
「やっぱ俺が狙いか!?」
「分かんねぇ! 省吾が後ろだったからたまたまだったのかも! 風呂敷みたいに広がって、多分取り込むつもりだ!」
「まだ来てるか!?」
「来てる!」
「くっそ、しつこいな! とりあえずこのまま漁港まで突っ走るぞ!」
「了解!!」
 漁港まで後半分ほどの道のりだ。このスピードで行けば五分もかからない。しかし、原付バイクをフルスロットルで運転し続けたら回転数が落ちると聞いたことがある。もしここでスピードが落ちたら、二人揃って黒い煙の餌食だ。だからと言って故意にスピードを落とせない。
 保ってくれよ、と祈りながら二人は漁港を目指す。
 黒い煙が牙を剥いた辺りから先には、ほとんど民家はない。そのため、誰ともすれ違わずに漁港へ辿り着けたのは幸いだった。このスピードで走っているところを見られるのはかなりまずいし、何より、もしもの時、巻き込みたくはない。
 この時間帯、漁港は人気がなく閑散としている。先ほどまで仄暗かった周囲はすっかり暗くなり、寄せる波の音以外音は無い。昇り始めた月は薄雲に覆い隠されており、シャッターを下ろした作業場と船着き場の数個の外灯がうっすらと辺りを照らす光景は、不気味さすら覚える。
 入口の一部に敷き詰められた砂利を派手に擦りながら敷地に滑り込んだ。
「うわっ!」
 省吾の声と金属が擦れる音がほぼ同時に響いた。大河は驚いて急ブレーキをかけ、後輪をコンクリートに滑らせて反回転する。
「省吾!!」
 バイクを放り投げるようにして飛び降り、ヘルメットを脱ぎ捨てながら駆け出す。背後でバイクが派手に倒れる音がしたが、構っている場合ではない。
 砂利にタイヤを取られたのだろう。横倒しになったバイクから離れた場所でうずくまったまま動かない省吾に、黒い煙の一部が触手のように伸びて足を掴んだ。
「な……っ」
 省吾が顔を歪ませた。さっきと同じ、目に見えないのに何かに掴まれている感覚がある。しかも今度はスラックスの薄い布一枚越しだ。
 四つん這いになって、両手と掴まれていない方の足を踏ん張る。少し前進した時、勢いよく後ろへ引っ張られた。
「わっ!」
 バランスを崩し、地面に腹ばいになる。
「省吾!」
 勢いで出た手を、大河が掴んだ。腰を落とし、両足の間から腕を伸ばした体勢で両足を踏ん張るが、動きは止まらない。
「くっそ、汗で滑る……っ」
 シャツが肌に張り付くほど、全身が汗まみれだ。大河は手から手首に持ち直し、さらに肘の上へと掴み直した。血管が切れそうなほど力を入れているのに、大河ごとじりじりと地面を滑り黒い煙の方へと引き摺られる。
 この馬鹿力が! と毒づき、大河は黒い煙を睨みつけた。
 どうすればいいのか、分からない。散々見てきたのに、対処の仕方が分からない。いや、ただ見てきただけだからだ。他の人には見えないモノが見えるというだけで、傍観を決め込んできた。でもそうするしかなかった。漫画やゲームじゃあるまいし、特別な力があるわけじゃない。
「じゃあ、どうしろってんだ……っ」
「離せ、大河」
 不意に、省吾が言った。こんな状況に見合わない、落ち着いた声で。
「……は?」
 思わず視線を下ろし、力が抜けそうになった腕に慌てて力を込め直す。見下ろした省吾の表情は酷く落ち着いていて、微笑んでいるようにも見えた。
「お前、こんな時に冗談……っ」
「冗談じゃない。いいから離せ」
 そんなことを言う省吾に、妙に腹が立った。何でこんな時にそんな落ち着いた顔をしていられるのか。理解できない。冷静沈着だとは言え、目に見えない訳の分からないモノに襲われていると自覚しながら、しかも襲われた先はどうなるか分からないのに、その態度はどう考えてもおかしい。
「ふざけんな! 頭おかしいのかお前!」
 そうだ。どう考えも省吾が間違っている。
 幼い頃からいつも一緒で、遊ぶ時も勉強する時も、ふざける時も大人に叱られる時も、辛い時も、いつも隣にいた。友達の誰も信じてくれなかった話を信じてくれた。そのままの自分を受け入れてくれた。そんな親友を、誰が置き去りにできると思うのか。
「大河」
「うるさい黙ってろッ!」
 ぴしゃりと言い放つと、省吾は目を見張って口をつぐんだ。生まれてこの方、省吾を黙らせたのは初めてかもしれない。
 確かに省吾より頭の出来も運動能力も人間性も劣る。だからと言ってここで親友の手を離して見捨てるほど腐っていない。それに、省吾なら絶対に手を離したりはしない。
 とは言え、どうすればいい。
「考えろ、考え……っ」
 突然、これまでとは比べ物にならないほどの力で引っ張られた。あまりにも強すぎて、二人の体がふわりと浮いた。
 浮いた先には、黒い煙がまた風呂敷のように広げた大きな口が待ち構えていた。
 口に入るまでは、スローモーションだった。目の前に迫った真っ黒な闇。夜の闇とは違う、漆黒の闇だ。何も見えない、何もない。あの先は一体どこへ繋がってどこへ行くのか。自分たちはどうなるのか。
 そんなことを考えながら黒い闇へと吸い込まれる直前、省吾が腕を伸ばしてくるのが見えた。
 省吾は必死の形相で腕を伸ばし、大河の胸倉を掴んで自分の方へ引き寄せたと思ったら、突き飛ばすように力強く胸を押した。反動で省吾の体は中へと吸い込まれる。
「しょ……」
 黒い煙の外へと押し出されながら、大河は吸い込まれる省吾の笑った顔を見た。無意識に省吾に向かって腕を伸ばす。
「省吾待……っ!」
 言いかけたところで体中に衝撃が走った。空中から地面に落ちたのだ。地面を転がる体を手と足を踏ん張って無理矢理止め、上を見上げる。
 ぱくん、とまるで美味しそうな物を食べたように目の前で黒い煙の口が閉じた。
「……」
 四つん這いの恰好のまま、大河は呆然と黒い煙を見上げた。今度は大河を標的と見なしたのか、黒い煙がゆっくりと大河に近寄っていく。だが、大河は微動だにしない。
 心臓は鼓動を忘れ、肺は委縮して呼吸を忘れてしまった。突然、目の前を真っ黒な墨で塗りつぶされたように視界が閉ざされた。体が重い。聴覚も触覚も失われ、静寂の中に一人取り残されたような、そんな感覚。
「……あ……」
 かろうじて掠れた声を絞り出したら、突然、省吾に強く押された胸が痛んだ。右手でシャツを握り締め、左手の手の平を見つめた。
 じわじわと襲ってくるその感覚に、手が小刻みに震えだす。
 真っ赤に充血している手の平は、ついさっきまで力強く何かを握っていたという証拠だ。省吾の腕の感覚が確かに実感としてあるのに、本人がいない。それがどういうことなのか、脳が理解するスピードに比例して襲ってくるのは――恐怖。
「……っ」
 壊れたおもちゃみたいに、何度も何度も脳裏に蘇るのは、黒い煙が口を閉じた瞬間と、省吾の笑顔。
 いつも側にいた人が側にいない。つい数秒前まで側にいた人が、今ここにはいない――
「……っあああぁぁぁぁ―――――ッ!!」
 言い表せないほどの孤独、恐怖、絶望。
 体中を浸食し、支配し始めた感情から逃げるように上げた咆哮は、静寂に包まれていた漁港に響き渡った。
 黒い煙が大きく口を開け、同時に、大量のまばゆい光が辺り一帯を包み込んだ。
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