第1話
文字数 4,711文字
「香苗ちゃん!」
「皆、行って!」
石橋の数メートル手前で足を止めたとたん、茂と香苗が叫んだ。池から擬人式神が二十体ほど飛び出し、勢いよく空を切って向かってくる。
耐水性和紙の擬人式神。もうこんなにも使役できるようになったのか。昴は少しの驚きと感心を持って霊刀を構えた。
擬人式神の隙間に見えるのは、こちらへ向かってくる右近と茂。視界の端で、本殿の方から頭上をものすごい勢いで何かが通り過ぎた。昴は訝しげに眉を寄せた。
視界を塞ぎ注意を逸らす作戦であることは間違いないだろう。だが、右近も一緒とは。ひとまず美琴と香苗に本殿の護衛を任せ、一気にカタを付ける――いや。今頭上を飛んで行ったのは、隗だった。あの勢いなら確実に伊弉諾神宮 の外まで吹っ飛ぶ。となると。
思案しながら的確に擬人式神を十体ほど切り落としたところで、残りの十体が一斉に横へ避けた。目の前には右近。紫暗の瞳と目が合ったと思ったら、ふっと煙のように姿が消えた。反射的に霊刀を後ろへ振りかけ、
「い……っ」
背後から、握り潰されそうなほど強く腕を掴まれた。思わず顔が歪み、霊刀の輪郭がぶれる。骨を折られると危機感を覚えた次の瞬間、後ろへ引っ張られ、視界がくるりと反転した。体が宙に浮き、耳元でゴッと風が鳴る。
投げ飛ばされたのだと理解するまで、時間はかからなかった。大鳥居があっという間に眼下後方へ流れ、広がる街並みや視界の端に映る景色が、暗さもあって視認できないほど猛スピードで通り過ぎる。
やはり、神社から引き離す作戦だったか。分かってはいても、さすがに式神相手では対処できない。加えて擬人式神。顔面を狙っていた。完全に視界を塞がれると、そこで敗北が決まる。放っておくわけにはいかなかった。
大鳥居の方角へ投げられたから、神社の南側。五百メートルほど先に森が広がっている。車なら二分ほどの距離。目標はあそこか。そして、右手に広がるもう一つの森へ落下する黒い塊は、先程頭上を通り過ぎた隗。こうもあっさりやられるとは。何か想定外のことでもあったのか、あるいはわざと。
顔面を襲う強烈な風圧は、呼吸すらままならない。疑問はあるが、代わりに力技だなぁと微かに苦笑し、落ち着いた様子で霊符を取り出そうと左手を後ろへ回す。ぐんぐんと森は近付き、しかしまだ速度も高度も落ちない。このままだと、着地地点は森の中程だ。
さて、どうやって着地しよう。水天で水塊を作って飛び込んでも、どのみち木の上だと高さがある。地天で壁を作り、霊刀で切り裂きながら降りてもいいが、見誤ると激突するか届かないか、あるいは飛び越えてしまう。となると、大河に倣うのが正解か。着地方法をあれこれ思案している間にやっと速度が落ち、軌道が放物線を描き始める。
あの辺りかな。昴は大体の着地地点を見定めながら結界の霊符を取り出し、口元に添えた。
「オン・ロケイジンバラ・ラジャ・キリク。帰命 し奉 る。門戸壅塞 、怨敵撃攘 、万物守護 、急急如律令 」
ほのかに光った霊符は空を切って降下し、カッと光を放って結界を形成した。木の高さを越えているので、そこそこ大きめだ。
昴は刀身を下へ向けて両手で持ち直し、振り上げる。そのまま、結界目がけて落下した。
どれだけ強くても、式神には敵わない。それは事実だ。だが、伊弉諾神宮の敷地内で昴を拘束しようとすれば、間違いなく悪鬼が加勢に入り乱戦になる。柴が隗を上手く引き離したとして、右近がいても巨大な悪鬼と昴相手では、どう考えてもこちらが不利だ。ゆえに、昴と隗を伊弉諾神宮から引き離すことが最優先事項だった。
もちろん、右近がいるとはいえ美琴と香苗を残すことに迷わなかったわけではない。これまで二人がコンビを組んだことはないのだ。しかし、使いがいて、美琴は指示役に向いているし、香苗は忠実に動いてくれる。何より、二人の絆が築かれている。大丈夫だ。
右近が昴を大鳥居の方へ放り投げた直後、茂が追いついた。
「健闘を祈る」
「ありがと」
短く言葉を交わしつつ、右近に強く掴まれた腕に少々顔を歪める。馬鹿力、なんて言うと気を悪くするだろうが、実際そうとしか思えない。回転投法ではなく、勢いと腕力だけで大人の男一人を放り投げるなんて芸当、そう言わずして何という。
足が地面から浮いたと思ったらぶわっと顔面に風がぶつかり、思わず息を詰めて目を細めた。突風の中にいるような感覚。大鳥居は一瞬で後方へ流れ、街の上空へ到達した。眼前には昴の姿。大きく弧を描き、一定の速度で森へと近付いている。
場所を変えないかと提案しても拒否される。人に見られることなく、かつ有無を言わさず伊弉諾神宮から引き離す方法は、これしか思い付かなかったのだ。
自分で提案した作戦ではあるが、式神にぶん投げられ一緒に空を飛んでいる様がちょっと間抜けに思えてきて、茂はくっと声を殺した。
いやいや笑ってる場合じゃないから。自分に言い聞かせ、結界の霊符を取り出す。地天でもいいのだが、リスクが大きい。結界なら着地地点を広範囲でカバーできる。とはいえ、慎重に見定めなければ。などと考えていると、不意に背後から左腕を掴まれ、見知った顔が視界の端に映った。ぐんと前へ引っ張られる。
「うわっ。あれ? 柴」
先程吹っ飛んで行ったのは、隗の方らしい。上手く引き離せたのはさすがだが、隗を追うはずだったのに。というか、あのスピードに追いついたのか。
腕一本で宙吊りにされたまま不思議そうに見上げる茂に、柴がぽつりと言った。
「追いついてしまった」
真っ直ぐ昴を見据えたまま返ってきたのは、答えにならない答えだった。追いついたからといっても、わざわざ手を貸さなくてもいいのだ。多分、間に合えば手を貸すつもりだったのだろう。本当に――いや、もう今さらだ。鬼だとか人間だとか関係ない。これが「柴」なのだ。
茂はふと笑った。
「ありがとう、助かるよ。でも、隗は大丈夫?」
柴なら安全に着地できるし、霊力を消費しなくて済むけれど。二人分の体重のせいで速度が落ち、高度が下がっていく。
「ああ。すぐには動けまい」
そんなに全力で殴るなり蹴り飛ばすなりしたのだろうか。茂は小首を傾げかけ、気付いた。柴の左腰。刀の柄がちらちらと視界に入る。公園襲撃事件と展望台事件。前者では互角に見えたし、展望台では掠り傷一つ負っていなかった。よほど軽傷だったか、もしくは実力が拮抗しているのかもしれない。だとすれば、武器がある柴の方が有利だ。すぐに動けないほど切りつけたのか。
元は同じ三鬼神の仲間。ちょっと複雑に思うけれど、甘いことを言っている状況ではない。そう、と茂は小さく呟いて口を閉じた。
森のすぐ手前の道路に着地した時、不意に昴の霊力が高まるのを感じた。抱え直されて再び高く飛び上がると、見えたのは、森の中程に張られた結界。霊刀を振り上げた昴が落下し、バリッ! と一度派手な火花が上がった。霊刀を突き刺した場所から、蜘蛛の巣状の罅が走る。そのまま絶え間なく火花を上げながら結界を切り裂き、昴は森の中へ姿を消した。とたん、パンッ! と弾けるように結界が砕け散った。
昴なら上手く着地するだろうとは思っていたが、考えることは同じか。樹といい、二人の突飛な術の使い方は敵側にも影響を与えているらしい。誇らしいけれど、それはそれでこちらも見越した上で攻撃しなければならない。気を付けなければ。
砕け散った結界を飛び越えながら、柴が言った。
「顔を伏せていろ」
「うん」
曲線を描きながら落下し、森へ飛び込む。ざざざざっ、と枝葉の間を一気に抜けたあと、浮遊感がなくなった。ほっとする間もなくゆっくりと下ろされて、茂は柴を真っ直ぐ見上げた。
「ありがとう、柴」
「ああ」
「じゃあ、またあとで」
すぐには動けないとはいえ、放置しているのは隗だ。のんびりしている暇はない。強く告げると柴は小さく頷き、とんと地面を蹴ってあっという間に姿を消した。
「さて」
ひらひらと葉が舞い散る中、茂は独鈷杵を取り出して霊刀を具現化し、周囲を見渡した。今頃、残った擬人式神が追いかけてくれているはず。足元は一面枯れ葉、頭上は茂った枝葉で覆われている。森の周りには道路が走り、畑と民家があるが、さすがにここまで喧騒は届かないらしい。ほぼ闇に包まれ、遠慮がちに虫の音が聞こえるくらいで、余計な音が一切しない。
地図では、森の中を北西から南へ一本の道路が走っていた。途中で途切れており、民家があるのかと拡大してみてもそれらしい建物は見当たらず、代わりに小さな畑と小屋のような屋根が確認できた。さすがにこの時間に畑には出ないだろうから、人に見られることはないだろう。
目を闇に慣らさなければ。
静かに、ゆっくりと息を吐き出して目を伏せ、意識を集中する。北側。よく知った霊気が、徐々に近付いてくる。場所を知らせるためにわざと霊刀を具現化したが、どうやら昴も同じらしい。闇に紛れて襲いかかることもできたのに、そうしない理由は――分からない。
人見知りで内向的で、真面目で物腰が柔らかくてちょっとのんびり屋。彼は、そんなタイプだと思っていた。けれど今となっては、どこまでが本当でどこまでが演技だったのか。それとも、全てが嘘だったのか。
不意に虫の音が止み、茂は瞼を持ち上げた。かさ、かさ、とゆっくり、枯れ葉を踏む乾いた音が、近付くごとに大きく闇に木霊する。
やがて、木々の間にぼんやりと人影が浮かび、足音が止んだ。
「やあ、昴くん」
笑顔で声をかけると、昴は再び足を進めた。
「こんばんは、しげさん」
あの日からたった五日しか経っていないのに、ずいぶんと懐かしく思えた。声も笑顔も変わらない、あの日のまま。ただ、彼を取り巻く空気だけが、酷く冷たい。
一年間、何度も何度も手合わせをした。昴が足を止めたのは、その時と同じ距離。
先に口を開いたのは、昴だ。
「いいんですか、柴を行かせて」
気配を感じ取っていたか。
「うん」
「僕を一瞬で拘束できたし、殺せもしたでしょう」
「柴は君を殺さないよ。知ってるだろう? それに、その一瞬が命取りになるかもしれないから」
「でも柴は貴方に手を貸した。わざとかとも思ったんですが、隗はずいぶんやられたようですね」
「みたいだね」
「そのまま殺せたかもしれないのに。甘いなぁ」
「優しいんだよ、彼は」
「それこそ命取りです」
「戻ってくる気はない?」
突然変えた話題に昴はすぐには答えず、ふっと息を吐くように笑った。
「おかしなことを言いますね」
「そうかな?」
「ありませんよ。例え戻ったとしても、どの面下げて大河くんに会えと?」
「黙って二、三発殴られて、僕たちと紺野さんから一発ずつ殴られたら大丈夫じゃない?」
「いやそれ死にますから」
一瞬間が開き、ふふ、と二人が密やかな笑い声を漏らす。笑いながらも、互いの視線が逸れることはない。
「もう一つ、聞いていいかな」
「はい」
昴が内通者だと知った日から、ずっと気になっていた。一年間、一緒に暮らした者として。茂は静かに息を吸い込んだ。
「寮にいる間、楽しかった?」
緩やかに、生ぬるい風が二人の間を吹き抜けた。ざわめく木々の声に包まれて、昴がゆっくりと口を開く。
「ええ。とても楽しかったですよ――」
穏やかな声。茂は、霊刀を握っている手に力を込めた。
「反吐が出るほどにね」
暗闇の中で浮かんだ微笑みは、ぞっとするほど冷たい、氷のような冷笑だった。
木々のざわめきが引く波のように小さくなり、やがて、耳が痛いほどの静寂が落ちた。
次の瞬間、示し合わせたように、同時に地面を強く蹴った。
「皆、行って!」
石橋の数メートル手前で足を止めたとたん、茂と香苗が叫んだ。池から擬人式神が二十体ほど飛び出し、勢いよく空を切って向かってくる。
耐水性和紙の擬人式神。もうこんなにも使役できるようになったのか。昴は少しの驚きと感心を持って霊刀を構えた。
擬人式神の隙間に見えるのは、こちらへ向かってくる右近と茂。視界の端で、本殿の方から頭上をものすごい勢いで何かが通り過ぎた。昴は訝しげに眉を寄せた。
視界を塞ぎ注意を逸らす作戦であることは間違いないだろう。だが、右近も一緒とは。ひとまず美琴と香苗に本殿の護衛を任せ、一気にカタを付ける――いや。今頭上を飛んで行ったのは、隗だった。あの勢いなら確実に
思案しながら的確に擬人式神を十体ほど切り落としたところで、残りの十体が一斉に横へ避けた。目の前には右近。紫暗の瞳と目が合ったと思ったら、ふっと煙のように姿が消えた。反射的に霊刀を後ろへ振りかけ、
「い……っ」
背後から、握り潰されそうなほど強く腕を掴まれた。思わず顔が歪み、霊刀の輪郭がぶれる。骨を折られると危機感を覚えた次の瞬間、後ろへ引っ張られ、視界がくるりと反転した。体が宙に浮き、耳元でゴッと風が鳴る。
投げ飛ばされたのだと理解するまで、時間はかからなかった。大鳥居があっという間に眼下後方へ流れ、広がる街並みや視界の端に映る景色が、暗さもあって視認できないほど猛スピードで通り過ぎる。
やはり、神社から引き離す作戦だったか。分かってはいても、さすがに式神相手では対処できない。加えて擬人式神。顔面を狙っていた。完全に視界を塞がれると、そこで敗北が決まる。放っておくわけにはいかなかった。
大鳥居の方角へ投げられたから、神社の南側。五百メートルほど先に森が広がっている。車なら二分ほどの距離。目標はあそこか。そして、右手に広がるもう一つの森へ落下する黒い塊は、先程頭上を通り過ぎた隗。こうもあっさりやられるとは。何か想定外のことでもあったのか、あるいはわざと。
顔面を襲う強烈な風圧は、呼吸すらままならない。疑問はあるが、代わりに力技だなぁと微かに苦笑し、落ち着いた様子で霊符を取り出そうと左手を後ろへ回す。ぐんぐんと森は近付き、しかしまだ速度も高度も落ちない。このままだと、着地地点は森の中程だ。
さて、どうやって着地しよう。水天で水塊を作って飛び込んでも、どのみち木の上だと高さがある。地天で壁を作り、霊刀で切り裂きながら降りてもいいが、見誤ると激突するか届かないか、あるいは飛び越えてしまう。となると、大河に倣うのが正解か。着地方法をあれこれ思案している間にやっと速度が落ち、軌道が放物線を描き始める。
あの辺りかな。昴は大体の着地地点を見定めながら結界の霊符を取り出し、口元に添えた。
「オン・ロケイジンバラ・ラジャ・キリク。
ほのかに光った霊符は空を切って降下し、カッと光を放って結界を形成した。木の高さを越えているので、そこそこ大きめだ。
昴は刀身を下へ向けて両手で持ち直し、振り上げる。そのまま、結界目がけて落下した。
どれだけ強くても、式神には敵わない。それは事実だ。だが、伊弉諾神宮の敷地内で昴を拘束しようとすれば、間違いなく悪鬼が加勢に入り乱戦になる。柴が隗を上手く引き離したとして、右近がいても巨大な悪鬼と昴相手では、どう考えてもこちらが不利だ。ゆえに、昴と隗を伊弉諾神宮から引き離すことが最優先事項だった。
もちろん、右近がいるとはいえ美琴と香苗を残すことに迷わなかったわけではない。これまで二人がコンビを組んだことはないのだ。しかし、使いがいて、美琴は指示役に向いているし、香苗は忠実に動いてくれる。何より、二人の絆が築かれている。大丈夫だ。
右近が昴を大鳥居の方へ放り投げた直後、茂が追いついた。
「健闘を祈る」
「ありがと」
短く言葉を交わしつつ、右近に強く掴まれた腕に少々顔を歪める。馬鹿力、なんて言うと気を悪くするだろうが、実際そうとしか思えない。回転投法ではなく、勢いと腕力だけで大人の男一人を放り投げるなんて芸当、そう言わずして何という。
足が地面から浮いたと思ったらぶわっと顔面に風がぶつかり、思わず息を詰めて目を細めた。突風の中にいるような感覚。大鳥居は一瞬で後方へ流れ、街の上空へ到達した。眼前には昴の姿。大きく弧を描き、一定の速度で森へと近付いている。
場所を変えないかと提案しても拒否される。人に見られることなく、かつ有無を言わさず伊弉諾神宮から引き離す方法は、これしか思い付かなかったのだ。
自分で提案した作戦ではあるが、式神にぶん投げられ一緒に空を飛んでいる様がちょっと間抜けに思えてきて、茂はくっと声を殺した。
いやいや笑ってる場合じゃないから。自分に言い聞かせ、結界の霊符を取り出す。地天でもいいのだが、リスクが大きい。結界なら着地地点を広範囲でカバーできる。とはいえ、慎重に見定めなければ。などと考えていると、不意に背後から左腕を掴まれ、見知った顔が視界の端に映った。ぐんと前へ引っ張られる。
「うわっ。あれ? 柴」
先程吹っ飛んで行ったのは、隗の方らしい。上手く引き離せたのはさすがだが、隗を追うはずだったのに。というか、あのスピードに追いついたのか。
腕一本で宙吊りにされたまま不思議そうに見上げる茂に、柴がぽつりと言った。
「追いついてしまった」
真っ直ぐ昴を見据えたまま返ってきたのは、答えにならない答えだった。追いついたからといっても、わざわざ手を貸さなくてもいいのだ。多分、間に合えば手を貸すつもりだったのだろう。本当に――いや、もう今さらだ。鬼だとか人間だとか関係ない。これが「柴」なのだ。
茂はふと笑った。
「ありがとう、助かるよ。でも、隗は大丈夫?」
柴なら安全に着地できるし、霊力を消費しなくて済むけれど。二人分の体重のせいで速度が落ち、高度が下がっていく。
「ああ。すぐには動けまい」
そんなに全力で殴るなり蹴り飛ばすなりしたのだろうか。茂は小首を傾げかけ、気付いた。柴の左腰。刀の柄がちらちらと視界に入る。公園襲撃事件と展望台事件。前者では互角に見えたし、展望台では掠り傷一つ負っていなかった。よほど軽傷だったか、もしくは実力が拮抗しているのかもしれない。だとすれば、武器がある柴の方が有利だ。すぐに動けないほど切りつけたのか。
元は同じ三鬼神の仲間。ちょっと複雑に思うけれど、甘いことを言っている状況ではない。そう、と茂は小さく呟いて口を閉じた。
森のすぐ手前の道路に着地した時、不意に昴の霊力が高まるのを感じた。抱え直されて再び高く飛び上がると、見えたのは、森の中程に張られた結界。霊刀を振り上げた昴が落下し、バリッ! と一度派手な火花が上がった。霊刀を突き刺した場所から、蜘蛛の巣状の罅が走る。そのまま絶え間なく火花を上げながら結界を切り裂き、昴は森の中へ姿を消した。とたん、パンッ! と弾けるように結界が砕け散った。
昴なら上手く着地するだろうとは思っていたが、考えることは同じか。樹といい、二人の突飛な術の使い方は敵側にも影響を与えているらしい。誇らしいけれど、それはそれでこちらも見越した上で攻撃しなければならない。気を付けなければ。
砕け散った結界を飛び越えながら、柴が言った。
「顔を伏せていろ」
「うん」
曲線を描きながら落下し、森へ飛び込む。ざざざざっ、と枝葉の間を一気に抜けたあと、浮遊感がなくなった。ほっとする間もなくゆっくりと下ろされて、茂は柴を真っ直ぐ見上げた。
「ありがとう、柴」
「ああ」
「じゃあ、またあとで」
すぐには動けないとはいえ、放置しているのは隗だ。のんびりしている暇はない。強く告げると柴は小さく頷き、とんと地面を蹴ってあっという間に姿を消した。
「さて」
ひらひらと葉が舞い散る中、茂は独鈷杵を取り出して霊刀を具現化し、周囲を見渡した。今頃、残った擬人式神が追いかけてくれているはず。足元は一面枯れ葉、頭上は茂った枝葉で覆われている。森の周りには道路が走り、畑と民家があるが、さすがにここまで喧騒は届かないらしい。ほぼ闇に包まれ、遠慮がちに虫の音が聞こえるくらいで、余計な音が一切しない。
地図では、森の中を北西から南へ一本の道路が走っていた。途中で途切れており、民家があるのかと拡大してみてもそれらしい建物は見当たらず、代わりに小さな畑と小屋のような屋根が確認できた。さすがにこの時間に畑には出ないだろうから、人に見られることはないだろう。
目を闇に慣らさなければ。
静かに、ゆっくりと息を吐き出して目を伏せ、意識を集中する。北側。よく知った霊気が、徐々に近付いてくる。場所を知らせるためにわざと霊刀を具現化したが、どうやら昴も同じらしい。闇に紛れて襲いかかることもできたのに、そうしない理由は――分からない。
人見知りで内向的で、真面目で物腰が柔らかくてちょっとのんびり屋。彼は、そんなタイプだと思っていた。けれど今となっては、どこまでが本当でどこまでが演技だったのか。それとも、全てが嘘だったのか。
不意に虫の音が止み、茂は瞼を持ち上げた。かさ、かさ、とゆっくり、枯れ葉を踏む乾いた音が、近付くごとに大きく闇に木霊する。
やがて、木々の間にぼんやりと人影が浮かび、足音が止んだ。
「やあ、昴くん」
笑顔で声をかけると、昴は再び足を進めた。
「こんばんは、しげさん」
あの日からたった五日しか経っていないのに、ずいぶんと懐かしく思えた。声も笑顔も変わらない、あの日のまま。ただ、彼を取り巻く空気だけが、酷く冷たい。
一年間、何度も何度も手合わせをした。昴が足を止めたのは、その時と同じ距離。
先に口を開いたのは、昴だ。
「いいんですか、柴を行かせて」
気配を感じ取っていたか。
「うん」
「僕を一瞬で拘束できたし、殺せもしたでしょう」
「柴は君を殺さないよ。知ってるだろう? それに、その一瞬が命取りになるかもしれないから」
「でも柴は貴方に手を貸した。わざとかとも思ったんですが、隗はずいぶんやられたようですね」
「みたいだね」
「そのまま殺せたかもしれないのに。甘いなぁ」
「優しいんだよ、彼は」
「それこそ命取りです」
「戻ってくる気はない?」
突然変えた話題に昴はすぐには答えず、ふっと息を吐くように笑った。
「おかしなことを言いますね」
「そうかな?」
「ありませんよ。例え戻ったとしても、どの面下げて大河くんに会えと?」
「黙って二、三発殴られて、僕たちと紺野さんから一発ずつ殴られたら大丈夫じゃない?」
「いやそれ死にますから」
一瞬間が開き、ふふ、と二人が密やかな笑い声を漏らす。笑いながらも、互いの視線が逸れることはない。
「もう一つ、聞いていいかな」
「はい」
昴が内通者だと知った日から、ずっと気になっていた。一年間、一緒に暮らした者として。茂は静かに息を吸い込んだ。
「寮にいる間、楽しかった?」
緩やかに、生ぬるい風が二人の間を吹き抜けた。ざわめく木々の声に包まれて、昴がゆっくりと口を開く。
「ええ。とても楽しかったですよ――」
穏やかな声。茂は、霊刀を握っている手に力を込めた。
「反吐が出るほどにね」
暗闇の中で浮かんだ微笑みは、ぞっとするほど冷たい、氷のような冷笑だった。
木々のざわめきが引く波のように小さくなり、やがて、耳が痛いほどの静寂が落ちた。
次の瞬間、示し合わせたように、同時に地面を強く蹴った。