第13話

文字数 2,333文字

 息苦しさで、うっすらと意識が戻った。とたん、ごぼっと口から何かが飛び出した。
「よしっ!」
 耳に飛び込んできた男の声と大きな歓声に、さらに意識が引き戻される。何度か口から水を吐き出して、何度も何度も咳き込んだ。その間に体は横向きにされ、大きな手がゆっくりと背中をさすった。
「おいこらガキども。助かったからよかったものの、もし死んでたらどう責任取るつもりだったんだ。いたずらでしたで済む問題じゃねぇぞ。泣くな!」
 人のざわめきに混じって、どこからか怒声と泣き喚く声が聞こえる。
 やっと咳が収まると、もう一度仰向けに寝かされた。体がだるくて重い。疼くような痛みのせいだろうか、頭がぼんやりして、吐き気もする。僕どうしたんだっけと、まるで他人事のように考えた。
「よく頑張った。すぐに救急車来るからな」
 細く開いた視界には、青空をバックに、こちらを覗き込む若い男の顔があった。安心させるように浮かべた笑顔は少しぎこちないけれど、優しい落ち着いた声に、額を押さえる大きな手。髪から水が滴り落ちて、服もびしょぬれだ。そうか川に落ちたんだと思い出し、この人が助けてくれたんだと、何となく思った。
 水をかなり飲んだみたいだからとか、君は大丈夫かいとか、大人たちが色々確認する声がうっすらと聞こえたところまでは覚えている。
 次に目が覚めたのは翌日で、病院のベッドの上だった。
 白い天井、ノリの効いた白いシーツと、少し重い布団。頭に巻かれた包帯と、消毒液の匂い。そして、今にも泣き出しそうな、母の顔。
 その日のうちに検査をして、色んな人がお見舞いに来てくれた。祖母やお姐さん、お店の板前さんにバイトのお姉さん。噂を聞いた常連さんや、校長先生と担任の先生。
 そして、刑事。
 事情聴取は、病室で行われた。リクライニングの背を起こし、母が同席する中、こと細かにいきさつを尋ねられた。当時の状況やきっかけ、いつから嫌がらせを受けるようになったのか、その内容まで。母の前で話すのは、気が引けた。ちらりと横目で見やると、母は無言で小さく頷いた。どうやらすでに聞いているらしいので、包み隠さず答えた。刑事は間違いないなといった顔をして、母は悲しそうな顔をした。
 刑事を見送ると、母は疲れたように息をついた。
「ごめんなさい……」
 特に意に介していなかったとはいえ、言っておくべきだった。
 先にそう口にすると、母はじっとこちらを見つめ、ベッドサイドの椅子に腰を下ろした。おもむろにバッグの中から手帳を取り出し、何かを書き記してからくるりと回して差し出した。そこには、綺麗な字で「千早」と書かれていた。
「あのね、千早」
 受け取った手帳から、母へ視線を投げる。こちらの気持ちを見透かしたような眼差し。
「確かに、女の子の名前だと思っている人が多いかもしれない。でも、知ってる? 漢字の成り立ち」
 近藤は無言で首を振った。
「お母さんが小学生の時、自分の名前の由来を調べるって宿題が出たんだけど、その時におばあちゃんから聞いたの。早いという漢字は、日は太陽、十は人の頭をかたどったもので、その二つを組み合わせてできたんですって。つまり、人の頭の上に太陽がある様子を表しているの。とても明るくて、温かい印象を持ったわ。お母さんは、早いという漢字が大好きになった。だから自分の子供にも、早いという漢字を使った名前にしようと決めていたの。そして千という漢字は、たくさん、多くのという意味もあるけど、もともとは、人が前へ進むという意味だったらしいの。貴方の名前には、太陽のように温かい人になって欲しい。たくさんの良い出会いに恵まれた明るい人生を、前向きに歩んで欲しい。そんな願いを込めたのよ」
 どこか懐かしそうに微笑んだ母の名前は、早笑(さえ)という。多分、笑顔に溢れた明るい人生を歩んで欲しい。あるいは、太陽のような素敵な笑顔の女の子になって欲しい。もしくは両方の意味が込められているのだろう。
 近藤は、改めて手帳に目を落とした。
 母は、祖母から聞いた由来に感銘を受けのだ。そして息子の名前に同じ願いを込め、さらに新たな願いを乗せた。きっと、たくさんの漢字の成り立ちや意味を調べたのだろう。たくさん考えて、悩んで、願いを込めた結果が――千早。
 女の子の名前だから女の子が欲しかったんじゃないかなんて、どうしてそんな浅はかなことを思ってしまったのだろう。大切にされ、愛されていることを知っていたのに。そこには、きちんと意味があったのに。
「で、でもね、千早」
 母が戸惑ったように身を乗り出して、近藤は顔を上げた。
「もし、その……嫌だったら……」
 視線を泳がせて口ごもる母の言いたいことは分かった。前に、お店に来る弁護士の先生が話していた。改名に関する相談が増えていると。
 名前は、正当な理由があれば変更できるらしい。例えば、奇妙な名前、難しくて正確に読まれない、同姓同名の人がいて不便があるなどの他に、異性と紛らわしい、というものがある。千早という名前は、女の名前と認識されていて、からかわれる一因となり、挙げ句の果てにこんな事件に発展した。家庭裁判所が判断するので絶対とは言えないけれど、改名できるかもしれない。
でも――。
「ううん」
 近藤は首を横に振った。
「僕、この名前がいい」
 母が一生懸命考えて、願いを込めて付けてくれた名前。もちろん、どれだけ願いを込めても、どんなに深い意味があっても、社会的に受け入れられなかったり、本人が嫌がる名前もあるだろう。結局、苦労するのは本人なのだ。
 けれど、名前でからかわれたのはこれが初めてで、これから先、もし同じことがあっても胸を張って言える。僕の名前には、こんなに素敵な意味があるのだと。
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