第11話

文字数 4,151文字

「リン、ほんとに大丈夫? 仕事休んだ方がいいんじゃないの?」
「大丈夫だよぉ。ちゃんと薬飲んでるし、ナナ心配しすぎー」
 玄関で心配そうな顔をしたナナに、リンは部屋着のままへらっと笑った。それでもナナの顔は晴れない。
「ほんとに無理しないでよ?」
「もー、大丈夫だって。心配してくれてありがと。ナナ大好きー」
 じゃれるように抱きつくと、ナナは少し呆れ気味に嘆息し、子供をあやすように背中をぽんぽんと叩いた。
「何かあったらすぐに連絡しなさいよ? あとで分かったら怒るからね」
 体を離しながら真剣な眼差しで顔を覗き込まれ、リンはくすりと笑った。
「はーい。ああほら、遅刻しちゃうよ」
「あっ、じゃあねリン。行ってきます」
「行ってらっしゃい。気を付けてね」
 背を向けたナナにひらひらと手を振ると、彼女はドアハンドルに手をかけたまま肩越しに振り向いた。
「戸締りちゃんとして、無理しないこと。何かあったら連絡だよ」
「分かってるってばぁ。ほら遅刻するから。急いで急いで」
 サンダルをつっかけて、半ば追い出すようにしてナナを見送る。二度目の行ってきますに笑いながら、リンは背中が見えなくなってからドアを閉めた。
「もう、心配性だなぁ」
 くすくす一人で笑ってぼやきつつ、言われたとおりきちんと鍵を閉めてドアガードをかける。そのまま、洗い終わった洗濯物を干して、朝食の後片付け。お風呂を洗い、掃除機をかけて一息つく頃には、一時間半ほど過ぎていた。
 リンは、グラスに麦茶を注いでソファに腰を下ろし、ベランダを見やる。洗濯物も食器も、二人分。ナナと一緒に暮らせたら、楽しいだろうな。そこに冬馬たちが遊びに来てくれたら、もっと楽しい。
 そんな妄想をしながら麦茶に口を付け、リンはグラスをローテーブルに置いた。テレビやエアコンのリモコン、ティッシュや携帯と一緒にある市販の胃薬の箱を見て、リンは顔を曇らせた。
 昨日からどうにも胃が痛くて、昼間に買いに行ったのだ。夜は出歩くなと言われているけれど、昼間も出歩くなとは言われていない。けれどやっぱり怖くて、できるだけ人通りの多い道を選んだ。そのことを話したら、ナナはものすごく渋い顔をした。
 リンは小さく息をつき、クッションを抱きしめて横にころんと転がった。目の前にある、真っ黒なテレビ画面に自分の姿が映る。
 いつからだろう。遊んでそうだよね、と言われるようになったのは。ただ可愛いものが好きで、流行りものが好き。それだけだった。自分が好きなものを好きだと言っているだけなのに、それは誰かにとって、頭の悪い軽い女にしか見えないらしい。
 二年前のあの時も、そうだった。
 職場の飲み会の帰り。二次会に行く皆と別れたあと、喉が渇いてコンビニに寄った。お酒は強い方ではない。ちょっと酔いを醒ましてから帰ろうと思い店先でぼんやりお茶を飲んでいると、二人の男に声をかけられた。こういうのは反応するとしつこい、無視するに限る。
 君可愛いね、何してるの、ちょっと俺たちと飲まない、ねぇ聞いてる?
 漫画やドラマだと、こういう時イケメンが助けてくれるんだろうな。そして恋をして、紆余曲折あってハッピーエンド。なんて、現実でそんなことあるわけない。リンは頭の片隅でそんなことを考えながら、ペットボトルを鞄に突っ込んだ。横をすり抜けようと一歩足を踏み出したとたん、がっしりと腕を掴まれた。
「おいおい無視かよ」
「ちょっとは話聞けって」
 ここまでしているのに、どうしてこんなにしつこいのだろう。そんなに軽く見えるのだろうか。別に露出の多い恰好をしているわけではない。茶髪にネイル、流行りのメイクに服を着ているだけなのに。
 さっきまでとは打って変わって威圧的な口調の男たちに、リンはわずかに身を竦ませた。答えても無視しても駄目なら、どうすればいい。ふと、四人組の男女のこそこそとした話し声が聞こえた。
 ちょっとちょっと助けてあげなよ、えーでも揉めたら面倒だろ、可哀想でしょ、あとから何されるか分かんねぇし、それにあの子いかにもって感じだしさぁ、慣れてんじゃね?
 聞こえていると気付いていないのか、それともわざとか。世の中、こんなものだ。軽く見られたくないのならそんな恰好しなければいいと言う人もいるかもしれない。でも、自分を偽れるほど器用じゃない。
 どうして、好きなものを好きだと言っちゃいけないの。
 リンは俯いてきゅっと唇を一文字に結んだ。まだ人通りはある。大声で叫んで逃げれば、さすがに追って来ないだろう。意を決して顔を上げようとした、その時。
「悪いけど」
 不意に男たちの背後から声が届いた。男の声だ。リンがそろそろと顔を上げる間に、彼は振り向いた男たちの間を割って入り、リンの腕を掴んでいた手を引き剥がした。
「俺の連れなんだ」
 顔を上げて見えたのは、大きな背中。
「諦めてもらえるかな」
 自分が小柄なことは自覚している。女友達にも、小さくて可愛いと頭を撫でられるほどだ。でも、この時彼の背中がとても大きく見えたのは、それだけが理由ではないと思う。
「ああ? なんだてめ……」
 凄みかけた男が、彼の顔をじっと見据えて中途半端に言葉を切った。もう一人の男は怪訝な顔をし、しかし彼に睨みを利かせた。
「邪魔してんじゃねぇよ、どけよコラ。痛い目に遭いてぇのか、ああ?」
 ここまでくるとただのチンピラだ。けれど目の前の背中は、一切引こうとはしなかった。関係のない彼を巻き込むわけにはいかない。でもどうすれば、と思った時、彼をじっと見ていた男が「あっ」と声を上げた。
「こいつアヴァロンの……!」
「は? アヴァロンって……」
 今度は凄んでいた男が言葉を切り、まさかと呟いて後ずさった。
「どうも」
 余裕を思わせる挨拶をした彼に、男たちはさらにじりじりと後退した。そして、悔しげな顔で小さな舌打ちを残して身を翻した。一方、近くで傍観していた四人組のうちの男二人が、バツの悪そうな顔で女たちの手を引っ張って立ち去って行く。一人で助けに入った彼を見て、自分たちの情けなさでも覚えたのだろう。途中、女二人がちらりと彼を横目で盗み見た。
 ばたばたと慌ただしい足音が消えた頃、彼はやれやれと言いたげに息をついた。お礼を言わなければ。そう思って薄く唇を開き、でも言葉は出なかった。
「大丈夫ですか?」
 こちらを振り向いて尋ねた彼を見上げて、リンは目を丸くした。驚くほど整った顔。本当に一般人かと思う程のイケメンだ。それに声。優しくて落ち着いた、聞き心地の良い声だ。
 リンはしばらく呆けたように彼を見つめた。しつこいナンパに困っているところに現れたイケメン。こんなこと、現実では有り得ないと思っていたのに。
「どこか、怪我でもされましたか」
 答えないリンを心配したのか、彼は小首を傾げた。はたと我に返って勢いよく首を横に振る。
「だ、大丈夫ですっ」
 緊張で声が上ずった。恥ずかしい。
「それは良かったです。少し、お酒を飲まれてますね。これからお帰りですか」
「は、はいっ。お帰りですっ」
 今度は恥ずかしさでおかしな返事になった。お帰りですって何。顔を真っ赤にして俯いたリンを見て、彼はくすりと笑った。
「駅までですか?」
「え、あ、はい」
 ちらりと上目遣いで見上げる。もう目眩がするほど恰好良い。
「送ります。さっきの連中がまだいるかもしれませんから」
「えっ、いやでも……っ」
 体が熱いのも、心臓がうるさいのも、酒のせいではない。これ以上は心臓がもたない。今にも爆発しそうだ。リンは視線を泳がせてバッグの持ち手を両手でぎゅっと握り、早口でまくしたてた。
「だだ大丈夫ですっ、走って帰るので! ありがとうございましたっ!」
 がばりと頭を下げ、彼の顔も見ずに横をすり抜けた。
 嬉しくて、堪らなかった。見た目で「大丈夫だろう」と判断されなかったことが、泣けるほど嬉しかった。
 帰宅してすぐに、男たちが口にした「アヴァロン」で検索をかけた。男たちは「アヴァロンの」と言っていたから、お店のスタッフかもしれない。他の店の情報もヒットしてしまい、けれどあの場所にいたのならと思って西木屋町を追加した。すると、クラブであることが分かった。クラブは一度も行ったことがないけれど、きちんと、冷静に、顔を見てお礼が言いたくて、後日意を決してアヴァロンへ行った。
 開店直後、フロアにいた彼に恐る恐る声をかけると、覚えていてくれた。無事で良かったと笑った彼に何度も何度も礼を言って、その時に初めて「冬馬」という名前なのだと知った。
 初めてのクラブは緊張してどうしていいのか分からなかったけれど、ソフトドリンク片手に一人でぽつんとカウンターの前に立っていると、スタッフの女性が声をかけてくれた。気さくで楽しい会話に緊張がほぐれた。
 冬馬がアヴァロンの店長だと知ったのは、その女性スタッフからの情報だ。どんな人なのかとしきりに尋ねるリンに、彼女は困ったような、不憫そうな顔で言った。
「うーん、こう言っちゃなんだけど、冬馬さんはやめた方がいいかもよ……?」
 と。
 彼女の話によると、冬馬は誰の誘いも受けないらしい。これまで何人もの女性が告白、玉砕しているそうだ。ゆえに、彼女がいる、あるいは結婚しているという噂がまことしやかに流れていた。けれど真相は誰も知らなかった。
 あんなに恰好良いのだから当たり前だ。そう上手くいくわけない。
 確かに落胆はしたけれど、アヴァロンは居心地が良くて気が付けば足が向いていた。スタッフの人たちは親切だし、お客さんも陽気で優しい。何より、自分の容姿を軽視する人がいなかった。口コミでは「ナンパしやすい店」と評価されていたが、女性スタッフによると、あれは冬馬が店長に就任する前から言われているものらしい。
「そもそも、どこのクラブでも出会い目的のお客さんはいるんだから、あんなの当てにならないよ。禁止してるわけじゃないし。でも、うちは強引なナンパはお断り。お客さんに安心して楽しんでもらわなきゃ。だって、楽園(アヴァロン)だからね」
 そう言って、彼女は誇らしげに笑った。少しキザな台詞。でも恰好良いと思った。職場に誇りを持てるスタッフも、そんな職場作りができる冬馬も。
 想いは、ますます募った。
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