第12話

文字数 4,095文字

「夢だと思ったんだ」
 茂は目を床に落とし、ぽつりと呟いた。
「妻と娘の帰りを待ちながらうたた寝をして、悪い夢を見ているのだと思った。心も体も、まるで自分のものでないような感覚に陥った。何を考えればいいのか、何をすればいいのか。思考が止まったというよりは、考えることを拒否したといった方が正しいかもしれない」
 ああ、分かる。
 大河は苦しそうに目を細めた。公園から逃げて寮に戻った時もそうだったけれど、あの時以上に記憶が曖昧なのは、柴と紫苑が影正を運んでくれたあとのこと。二人が立ち去って、感情のまま泣き喚いて、華に促されて和室に籠った。ただじっと膝を抱えて体を丸め、虚ろな心で長い時間、しかし感覚に触れる宗史たちの気配を感じながら、ひたすら影正の白い顔を眺めていた。宗一郎に「道を選べ」と言われ、何を言っているのかと思ったのは覚えているが、ちらりと考えた程度だったように思う。
 頭も心も、空っぽだった。
「妻と娘のことを聞かれて、それから本人かどうか直接対面して確認した。間違いなく、妻と娘だった。けど、どうしても現実だと思いたくなかった。認めたくなかったんだろうね。……涙の一つも、出なかったよ」
 自嘲気味に小さく笑って、茂は続けた。
「検視が終わって、遺体を引き取る時に遺品も一緒に返ってきた。荷物は後部座席に乗せていて、散らばっていたらしいけど無事だったんだ。お土産のお茶やお団子、二人の鞄。なんて言ったらいいのかな。酷く――虚しい、というか」
「……分かります」
 大河はぽつりと言った。
「俺も、そんな感じでした」
 影正が運び出されてから影唯たちが迎えに来るまでの間、部屋に閉じ籠った。誰かが運んでくれたのか、影正の旅行鞄だけがぽつんと残された光景は現実味がなくて、今にも「大河、準備はできたか」と言いながら扉を開けて入ってくるような気がしていた。
 茂は相槌を打つように一度瞬きをすると、再び口を開いた。
「僕の気持ちがどうであれ、容赦なく時間は進む。不思議だよね。信じたくないって思ってるのに、やるべきことはきちんと分かってるなんて。実感がないって、こういうことなんだなと思った。葬儀の準備は、お義父さんたちが泊まり込んで手伝ってくれた。葬儀社との打ち合わせや準備、役所への手続き、妻と娘の友人や知人、職場への連絡。もちろん僕が勤務する学校にも。妻と娘は自宅に運んでもらった。僕の両親はもう他界していたから、和室に仏壇があってそこに寝かせたんだ。最後まで、一緒にいたかった」
 影正の時もそうだった。部屋に祖母の仏壇があって、納棺までそこに安置された。おはよう、おやすみと声をかけた。枕飾りをして、一日の食事もそのたびに変えた。初めてノートを開いた時は、影正の隣だった。「じいちゃんこれどういう意味?」「もっと具体的に説明してくれないと分かんないよ」。答えは返って来ないと分かっていても、隣にいるだけで、安心した。
 家族を亡くした者の気持ちは、皆同じだ。例え返事はなくても、もう動かなくても。それでも帰ってきて欲しい、最後の最後まで近くにいたい、一緒にいたい。
「お通夜にも葬儀にもたくさんの人が参列して、皆、二人の死を心から悼んでくれた」
 微かに微笑んだ茂を見て、影正の葬儀を思い出した。親族、友人、島の皆。たくさんの人が影正を見送ってくれた。
 滲んだ涙を、唇を噛んで耐える。
「両親の葬儀の時に喪主を務めたことがあったから、戸惑ったりすることはなかったけど、今思えば、あの時より忙しく動いてた気がするな。そうすることで、余計なことを考えないようにしてたのかもしれない」
 茂は穏やかな顔で、けれどやっぱり寂しそうにそう言った。
「葬儀の前も後も大変だった。相手側の保険会社との交渉や、親族の人の謝罪とか。事前に電話をもらってたから、遠慮して欲しいって言ったんだけどね」
「葬儀に来たんですか?」
「うん。保険会社の担当の人同伴で。状況が状況だから、揉めると思ったんだろうね。まあ、案の定修羅場だったよ。激怒したお義父さんを僕が止めたくらい。逆に、なんで止めるんだ茂くん、なんて僕が怒られちゃって」
 苦笑いを浮かべた茂に、大河もつられて作り笑いを返した。
「それから、葬儀が終わった翌日に警察の人が尋ねてきたんだ」
「事故のことですか?」
「うん。相手の人は男性でね、あの日手術を受けてから昏睡状態だったらしくて、葬儀の日に意識が戻ったそうだ。お医者さんの承諾を得て、聴取が終わってからすぐにうちに来たって言ってた。彼は、朝が早い配送の仕事をしてて、あの日も仕事を終えて帰る途中だった。けど、仕事でミスをして取引先や上司に散々叱られて、憂さ晴らしに途中のコンビニでビールを買ったんだって。初めは帰ってから飲むつもりだったらしいんだけど、苛立ちに任せて、その場で飲み干した」
 やっぱり飲酒運転だったのか。ビールの空き缶が押収されたのなら、もうそれしかない。大河は苦い顔をした。
「ここまでは、はっきり覚えていたらしい」
「……え?」
 意味が分からず、大河は目をしばたいた。
「運転したことも何となく覚えてたみたいなんだけど、事故を起こしたことは、覚えてなかった。気が付いたらベッドの上にいて、家族から教えてもらうまで記憶が混濁してて、何がなんだか分からなかったって」
 言葉が出てこなかった。いくら飲酒をしていたからといって、人が二人も亡くなるような事故を起こしておいて覚えていないなんてことがあるのか。
 絶句した大河に、茂は眉尻を下げて小さく笑った。
「信じられないよね。あんな事故を起こしておいて覚えてないなんて」
「嘘だったんじゃ……」
 茂は小さく首を横に振った。
「いや、本当だと思う。嘘をつくなら、お酒を飲んだことを認めないだろうし、それにドライブレコーダーに映像が残ってたんだ。うちの車の方は壊れていたけど、相手の方は無事だったらしくて、事故までの映像もしっかり録画されてたらしい。本人がお酒を飲んで運転したことは認めてるし、証拠としては十分だろう? でも、すぐには逮捕できないと言われた」
「え、どうしてですか?」
「逃走や証拠隠滅をする恐れがない限り、逮捕状が下りないんだって。逮捕をすると、移送して拘留する必要があるから、拘留に耐えられるくらいまで回復するのを待つしかないらしい。ほら、無理に拘留して死亡したなんてことになったら、法廷で裁くどころか起訴すらできないから」
「ああ……、裁く相手がいないとどうしようもないですもんね」
 亡くなると裁けない。ならば被害者や遺族は、時間がかかっても回復を待って、確実に逮捕、起訴され裁かれる方を望むだろう。中には、いっそ死んでくれた方がいいと思う人も、いるだろうけれど。
「初めはね、いくら法律で決められているからって言っても、やっぱり早く逮捕して欲しいって思ってたんだ。妻と娘のために、早く自分の罪の重さを実感して欲しいって。でも、彼はすでに、罰を受けていた」
 大河は首を傾げた。
「彼はね、下半身不随になると、医者から宣告されたんだよ」
「え……」
 下半身不随、ということはつまり。
「一生、車椅子……?」
 そう、と茂は頷いた。
「いくつか、同じ障害を持つ人のブログを読んだんだ。本当に大変らしい。足には麻痺が残って動かせないし、何も感じない。辛いリハビリに褥創(じょくそう)幻肢痛(げんしつう)、排泄障害や合併症。視線が低くなるから、今まで何ともなかったことが怖く感じる。すぐそこの物を取るにも車椅子に乗らなきゃいけない。バスや電車で嫌な顔をされたり、タクシーの乗車拒否をされることもあるらしい。本人はもちろん、家族にも負担がかかる。前向きに生きている人もたくさんいるけど、今まで健康だった人が突然障害を抱えるのは、僕たちが想像する以上に、相当辛いと思うよ」
 風子(ふうこ )の曽祖母・都志子(としこ)を思い出した。彼女は、外出するときはいつも車椅子だ。風子たち家族の誰かが必ず側にいたが、大河が手を貸す時もあった。都志子はいつも穏やかに笑っていて、辛い顔をしているところを見たことがない。確かに不便なことはあるだろうとは思っていたけれど、一応歩くことはできるし、そう深くは考えなかった。
 だが言われてみれば、確かに車椅子は視線が低い。自分より背の高い人たちに囲まれて、しかも体の自由が利かない。携帯を見ながら歩いている人、歩き煙草をしている人、車や自転車。普通に歩いていても危ないなと思うのに、車椅子に乗っている人からしてみれば、余計だ。
 今まで当然のように自分でできていたことができなくなって、当然のように受け入れてもらえていたことが受け入れてもらえなくなる。景色も常識も認識もがらりと変わる。年を取って少しずつ衰えていくのとは違うのかもしれないけれど、もどかしさと歯がゆさは似ているのかもしれない。
 前向きに生きようと思えるまで、どれほどの苦痛と苦悩を乗り越え、そして時間がかかるのだろう。
「でもね、そうだと知りながら、僕は思ってしまった」
 茂は膝の上で組んだ両手を強く握った。
「自業自得だと」
 その一言が妙に重く胸に響いて、無意識に息が詰まった。
 麻里亜の件と似ているなと思った。初めは自宅で飲もうと思っていたのなら、飲酒運転が危険だと理解していたはずだ。だが怒りに任せてやってしまった。麻里亜もまた、万引きは犯罪だと知った上で手を出し、代償として出入り禁止になった。
 犯罪だと知っておきながら飲酒運転をして事故を起こし、二人の人を死なせてしまった。身勝手な行為。
 その代償が、体の自由。
 犯した罪と共に、一生抱えて生きていかなければならない。
 同情心がまったくないわけではないけれど、酷いとか、言い過ぎだとは思わない。むしろ、茂の気持ちは当たり前だとすら思う。こんな風に思うのは、冷たいだろうか。
 茂は気を立て直すように一度息をついた。
「それから、遠方の人からの弔電やお悔やみ状への手紙を書いたり、授業の準備をしたりして、できるだけ考える時間を持たないようにした」
 けれど、それは一気に襲ってきたんだと、茂は言った。
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