第17話

文字数 4,096文字

 佐久間家を飛び出したとたん、感電したような音が微かに聞こえた。山の方からだ。やはり争奪戦になっている。早く連れ戻さないと。
「あの馬鹿……っ」
 一つぼやいて、省吾は月明かりの中を駆け出した。
 風子とヒナキに、独鈷杵の在り処を教えたのは失敗だった。向かっているのは刀倉家か神社か分からないが、ここから刀倉家へは、集会所の前を通る道が一番早い。近くに神社への入口があるから、途中で確認できる。
 ただ、入口まではそう遠くないが、頂上近くにある社まではかなり時間がかかるし、道も悪い。予算の都合もあり、一の鳥居と二の鳥居近くから石段は少しずつ作り直されているが、その間は上に行くほど悪路になる。となると、下手をすれば大河たちとすれ違いになるかもしれない。ならば自宅へ行った方が確実だ。と、風子の頭で考えられるかどうか。
 地面がむき出しの道は轍が残り、蹴るごとに砂が舞う。まだ九時にもなっていない時間だが、虫の音が聞こえるだけで人の気配はない。
 島民や客人以外の人間が島に入れば警戒するだろうが、あいにく観光とは無縁だ。そのため、普段ならもっと遅い時間に出掛けても何とも思わない。気を付けろよと、そんな程度。けれど今は、今日だけは別だ。
 見通しがいいのに、風子の姿は見えない。
 運動会の徒競走はいつも一位でリレーはアンカー、マラソン大会も上位。勉強と違って、体育の成績は五段階評価で常に五をもらっている。才能が運動に極振りしているような奴だ。とはいえ、女子中学生に追い付けないほど省吾も運動神経は悪くない。
 畑や空き地の間を抜けて、舗装された道路に出る。とっくに明かりが消えた理髪店や商店、そして神社の一の鳥居の前にさしかかった時、先の方で小さな背中が綺麗に剪定された垣根の角に消えた。山の方だ。どうやら冴えているらしい。省吾は、鳥居と櫓が組まれた集会所を素通りし、あとを追う。
 同じく角を曲がった先で風子が足を止め、上半身を折って息を整えていた。
 ほぼ全速力とはいえ、徒歩二十分ほどかかるのにもうこんな所まで来ているとは。この道は緩やかな坂になっており、さらに進むと、途中で直進と右の二股に分かれる。直進の道は勾配が急になり、山肌を沿うように刀倉家の裏山へと続く。
「あいつ、足速くなってないか……っ」
 息も荒くぼやいて省吾が駆け寄ると、風子が足音に振り向いた。ぎょっとして一目散に駆け出す。俺は変質者か。舌打ちをかまして速度を上げ、徐々に距離を詰める。
「待て、風子!」
 叫びながら細い腕を掴むと「嫌っ」と悲鳴を上げられた。ますます変質者臭い。これが街中なら確実に通報されている。
「やだ、放して!」
 手を振りほどこうと暴れる風子の両肩を強く掴み、無理矢理こちらを向かせる。
「お前に何かあったらあいつがどう思うか考えたのか!」
 息を詰めて、風子が動きを止めた。揃って全身で息を整える。あちこちで鳴く虫の音に混じって、二人の荒い呼吸音だけが響く。
 やがて、省吾が大きく深呼吸をして沈黙を破った。
「心配してるのは、お前だけじゃない。俺だって、ヒナだって心配してる。でも今優先するべきなのは、大河たちの気持ちだろ。俺たちに何かあったら、あいつは絶対に自分を責める。おじさんや宗史さんたちもだ。お前は」
 省吾は一旦言葉を切り、静かに、ゆっくりと告げた。
「あいつにまた、同じ気持ちを味わわせるつもりか?」
 俺のせいだと、大河は言った。じいちゃんが死んだのは俺のせいだ、と。
 あの手紙を読んで、酷く複雑な気分になった。凛として、曲がったことが嫌いで快活な人だった。そんな人が、どうして運命に抗ってくれなかったのか。危険だと分かっていて、どうして京都へ行ったのか。事件に巻き込むかもしれないと分かっていて、宗史たちはどうして連れて行ったのか。鬼の強さを体で知っていて、大河はどうして京都へ行ったのか。
 どんな理由があっても、抗ってくれていれば、京都へ連れて行かなければ、京都へ行かなければ――あの時、意地でも止めていれば、こんなことにはならなかった。
 本音を言えば、影正や大河、宗史たちを責める気持ちはある。けれど、平穏な日常を壊し、彼らに辛い選択を迫ったのは、紛れもなくこんな事件を起こした犯人。恨むのなら、責めるのなら奴らだ。
 風子の気持ちは分かる。大河たちが心配なのはもちろん、犯人を全員ぶん殴ってやりたいと思う。しかし、自分には霊力どころか霊感すらない。もどかしくも歯痒くも思うけれど、戦うことはできない。だからせめて、もう二度と彼らに辛い思いをさせないように、自らを責めたりしないように、自分の身は自分で守らなければならない。
 それが、自分にできる唯一のことだ。
「風子。大河を、信じろ」
 何をするにも先に相談してきた大河が、京都へ戻ると自分で決めた。生まれた時からずっと一緒にいる親友は、頑固で、負けず嫌いで、何ごとも最後までやり遂げる奴だ。
 この事件がいつまで続くか分からない。後戻りもできない。でも、必ず無事に戻ってくると、信じている。
 深く俯き、細い肩を震わせていた風子が、ゆらりと顔を上げた。目にたくさんの涙を滲ませ、唇を噛んで、睨むような目付きで省吾を見上げる。涙が瞬きに弾かれて、頬を伝った。
「あたしは……っ」
 掠れた声を絞り出した直後、わずかに地面が揺れた。動いていると気付かない程度の小さなものだ。一瞬緊張が走り、体を強張らせる。おそらくこれも大河たちだ。先程の感電したような音といい、悠長にしている暇はない。
 戻るぞ、と声をかけようとした間際、風子が勢いよく身を翻して手を振りほどいた。
「おい!」
 咄嗟に伸ばした手は、風子の腕を掠って空を掴んだ。本当に聞きわけが悪い。舌打ちをかましながら追い掛けるが、トップスピードに乗るまでの加速疾走が短い。陸上をやっているわけでもないのに、あいつは野生動物か。
「待てって、風子!」
 それでもなんとか分かれ道の手前で距離を詰め、手を伸ばした直後。恨みを込めたような低くて不気味な呻き声が聞こえ、ぞくりと悪寒が走った。本能だろうか。自然と速度が緩み、足が止まる。
「何だ、あれ……」
 息を切らしつつ、愕然と呟いた。数歩先で風子も立ち止まり、ぽかんとした顔で同じ方向を見上げている。段々畑の向こう側。小高い場所に建つ刀倉家の屋根の上に、山から真っ黒な雲が流れ込んでくる。
 まさか、あれが悪鬼か。漁港で襲われた時は見えなかったのに。
「たーちゃん!」
 風子の叫び声で我に返った。しまった、気を取られた。はっとした時には、すでに風子が駆け出していた。
「やめろ風子!」
 これはさすがにまずい。どういう状況になっているのか分からないが、鈴がいるとはいえ、ここに悪鬼がいるということは影唯たちを人質に独鈷杵を奪うつもりなのかもしれない。そんなところに自分たちが行けば、確実に足手まといになる。
「風子ッ!!」
 勾配がきつく、さすがに速度は落ちているが、それは省吾も同じだ。ただ、ここで諦めるわけにはいかない。ぐっと歯を食いしばって足を動かす。反対に風子は限界らしく、さらに速度が落ちてとうとう足が止まった。
 今のうちだ。省吾は筋力と気力を振り絞って駆け寄り、風子の腕を掴んだ。
「この馬鹿! 戻るぞ!」
 ここに犯人がいるのなら、見つかる前に立ち去らなければ。強く腕を引っ張ると、抵抗するように風子が腕に力を入れた。
「この……っ」
 いい加減にしろ、と怒鳴り付けようとした時、突如周囲が赤く染まり、何かが割れた音が響いた。見上げると、刀倉家の屋根の上に浮かんでいた悪鬼が炎に飲み込まれ、真っ赤に燃え上がっていた。だが逃れた一部の悪鬼がさらに上空へ浮上し、庭へいくつもの触手を伸ばした。入れ替わるように、真っ赤な鳥が庭から飛び出して口から火を噴き、硬質な音が連続して鳴り響く。
「え、何……?」
 風子が怯えた顔で体を竦める。
「鈴だ、今のうちに……」
「雪子、やめなさい!」
 影唯の切羽詰まった叫び声に遮られ、省吾は戦慄した。雪子が敷地を囲む低い塀を乗り越えて道路に飛び出し、一歩遅れて影唯も飛び出してきた。競うように庭の方から女が一人、同じように塀を越えてこちらへ向かってくる。写真で見た顔――深町弥生だ。手には霊刀。迂闊だった。悪鬼の唸り声でごまかせなかったらしい、叫び声を聞かれた。
 見つかった以上、集落へは戻れない。省吾は風子を背中に庇い、数歩下がった。
「お前たち、行けッ!」
 突如庭の方から、誰に告げたのか分からない鈴の怒声が響いた。すると、畑にぽっと一つ、赤い火が灯った。火の玉だ。それは瞬きをする間に畑を埋め尽くし、次々と弥生へと襲いかかった。弥生は驚いた顔で速度を落とし、けれど足を止めることなく火の玉を霊刀で薙ぎ払う。庭の方から、二人の人間と、少し遅れて真っ黒な犬が二匹、塀を飛び越えた。一人は男、渋谷健人。もう一人は同じ年頃の少女で長袖。玖賀真緒か。弥生を援護するように、火の玉を霊刀で消し去っていく。
「省吾くん、風子ちゃん!」
 雪子が、靴下のまま必死の形相で息を切らしながら駆けてくる。弥生が一瞥し、忌々しそうに顔を歪めてたわわに実った作物を蹴り倒した。
青龍(せいりゅう)白虎(びゃっこ)朱雀(すざく)玄武(げんぶ)勾陳(こうちん)帝台(てんたい)文王(ぶんおう)三台(さんたい)玉女(ぎょくにょ)!」
 雪子の後ろから、影唯が駆け寄りながら真言を唱える。
「柴主!」
 目の前の光景がスローモーションで見えるなんて、漁港で悪鬼に襲われた時以来だ。
 風子と一緒に雪子に抱き寄せられ、頭上から紫苑の怒声が響き、影唯が三人の前に滑り込み、弥生がこちらへ向かって大きく跳ねたのが同時だった。影唯が振り向きざまに結界を掲げ、弥生が道路へ着地して、霊刀を振り上げる。
 雪子の肩越しに見えたのは、影唯の背中。そしてその向こう側にある、何とも言い難い表情の弥生。一瞬だけ、目が合った。
 忌々しげ、憎らしげといえばそうなのだろう。けれどどこか苦しそうで、切なそうにも見えた。
「――父さんッ!!」
 上から大河の怒声が降ってきて、結界が粉々に割れた。そして再び、弥生が霊刀を薙いだ。
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