第11話

文字数 6,134文字

 突然、背中に衝撃が走った。
「だっ!」
 おかしな呻き声を上げたと同時に背中に衝撃が走り、水に浸る感触を覚えた。さらに、藍と蓮が泣き喚く声と、名前を呼ぶ聞き慣れた声がいくつも耳に飛び込んできた。真っ暗な空間にいたせいだろうか、やけに周りが明るく見え、大河は何度か瞬きをした。
「大河、大丈夫か!?」
「大河くん!」
 弘貴と春平の声と一緒に叩くように降る雨粒の感触と、高温多湿の不快な空気がまとわりついた。
 もう一度瞬きをしてうっすら目を開けると、心配顔をした二人が覗き込んでいた。その後ろでは、抱えていた双子を下ろす茂と香苗、昴が同じような顔をして集まっている。まだ頭がはっきりとしない。
 呆然と見つめる大河を見て、弘貴と春平が安堵の息を吐いた。
「どこも一体化してないみたいだね。良かった」
「あーもー、マジでビビった、さすがに焦った。ごめん!」
 弘貴が唐突に頭を下げた。春平に体を起こされながら、え? と掠れた声で問い返す。
「雨で濡れてて、ポケットから出す時に破れて発動しなかったんだよ。謝って済むことじゃねぇけど、マジでごめん!」
「……ああ……」
 次第に思考が戻る。あの時、不自然に途切れた真言はそのせいか。乱暴に扱うからだよ、と春平の小言が飛んだ。と、弘貴と春平の隙間から、ぼろぼろと涙をこぼした藍と蓮が顔を覗かせた。弘貴と春平が避けると、手をつないだままゆっくりと目の前に歩み寄った。
「ごめんなさい」
「ごめんなさい」
 この光景は、うっすらと記憶に残っている。影正が殺された時だ。大河は笑みを浮かべた。
「大丈夫、何ともないよ。二人とも無事で良かった。怪我ないか?」
 それぞれの頭を撫でてやると、ごめんなさいと泣き叫びながら抱きついてきた。両腕で抱きしめ、背中を叩いて宥める。
 不意に後方で何かが光った。振り向くと、晴が幾分か縮んだ悪鬼を調伏したところだった。細切れに切り裂かれた悪鬼が煙のように上空へ向かって消えていく。その様子を、宗史と美琴、樹と怜司も一緒に眺めている。皆合流したのか。
「ねぇ、誰が助けてくれたの?」
 妙な光が後ろから放たれたが、あれは一体何だったのか。大河が皆を見渡しながら尋ねると、それなんだけど、と茂の言葉を少年の声が遮った。
「な、何なんだ、今の……」
 数メートル離れた後ろで、尻もちをついた少年が体を震わせながら呆然とした顔でこちらを凝視していた。悪鬼は見えないにしろ、飲み込まれたのならばあの闇は見ているはずだ。当然、あの声も。
「何だあれ、何なんだよあれ……っ俺の声が……っあれ、俺の声……っ」
 次第に震えが大きくなっていき、少年は膝を抱えて顔をうずめた。自分の心の声を繰り返す自分の声を、どんな気持ちで聞いたのだろう。
 大河が腰を浮かせて声をかけようとした時、先に口を開いたのは樹だった。
「ねぇ」
 砂を蹴りながら歩み寄ってくる樹の横顔を見上げて、思わず身を引いてしまった。少年も顔を上げたとたん、ひっと細く喉を鳴らし、上体を逸らして後ろ手をついた。
 無表情に酷く冷たい目。こんな顔の樹は初めてだ。
「君さぁ、何しようとしたの?」
 樹はわずかに足を上げ、転がっていたカッターナイフを踏み付けた。細い刃は簡単に折れた。少年のごく間近で足を止め、見下ろす。その目は、明らかな侮蔑の色が見える。
「こんな物使って、あの子たちに何しようとしたのかって聞いてるんだよ」
 言いながら少年の胸倉を片手で掴み、無理矢理引き上げる。少年は苦しそうに顔を歪め、両手で樹の手首を掴んだ。
「言えないの? じゃあ僕が言ってあげる。君はあの子たちを手にかけようとしたんだよね。二人きりでいたあの子たちを、殺そうとした。間違いないよね? 見た限り高校生かな。だったら自分がしたこと理解してるよね。なら当然、覚悟はできてるよねぇ?」
 手首を捻り、じわじわと首を締めつける。少年の口から呻き声が漏れた。
 大河はごくりと喉を鳴らした。今の樹は、人を傷付けることを躊躇わない目をしている。
「樹さ……っ」
「樹」
 掠れた声は、怜司の張りのある声に掻き消された。樹の手が止まった。
「もういい。十分だ、やめてやれ」
 怜司が制止するや否や、樹はあっさりと手を離した。少年は落下するように地面に尻もちをつき、激しく咳き込んだ。そんな少年を見下ろし、樹は言い放った。
「次はない」
 ぞっとするほど冷酷な声だった。
 樹は長い髪で顔を隠すように俯くと、すぐに顔を上げて踵を返した。その時にはもう冷たい表情はなく、目が合うと何故かじろりと睨まれた。何でだ。
 大河は頭に疑問符を浮かべながらも、藍と蓮を弘貴たちに預けて腰を上げた。入れ替わるように少年の元へ足を踏み出す。
「おいっ」
 弘貴が咄嗟に腕を掴んで引き止めたが、大河は「大丈夫」と笑ってやんわりと手を解いた。
 咳は止まったようだが息苦しそうに呼吸を繰り返す少年の前にしゃがみ込み、膝をつく。少年が視線を上げた。
「あのさ、お前、ここに死ぬために来たんじゃないの?」
 率直に、しかし優しく語りかけるように問うた質問に、少年が驚いて目を見開き、皆からは驚きの声が漏れた。
 人気のないこの神社へ死ぬために来たけれど、双子を見て加虐心(かぎゃくしん)を煽られた。あれほどの殺意を抱いていたのだ。子供なら、とでも思ったのだろう、カッターナイフを振り上げてしまった。おそらくそんなところだろう。
「前に小学校のところで会った時にさ、俺、後ろの二人に言ったんだ。何とかしてやれないかなって。そしたら二人とも真剣に考えてくれた。次に会ったら話し聞いて何か方法考えようぜって言ってた」
 まさかこんな形で再会するとは思わなかったが。え、と少年が驚いたまま弘貴と春平に視線を投げた。
「いじめのこと、誰かに相談してないの?」
 真っ直ぐ見据えたまま問うと、少年は唇を噛んで俯き、小さく頷いた。
「誰か、相談できる人、いる?」
 今度は横に首を振った。
「友達は、一人いるけど、別のクラスだし……」
「親は?」
「……心配、かけたくない」
「その友達に、相談できないかな?」
「嫌だ」
 即答だった。誰にも相談できない気持ちは、分かる。
「何で?」
 あえて尋ねると、少年は目に涙をためて顔を上げた。
「相談したらあいつも巻き込まれるかもしれないし、それに……っ」
 少年は言いあぐね、意を決したように吐き出した。
「恥ずかしいからに決まってんだろ!」
 大河は悲しげに目を細めた。親に心配をかけたくない、友達を巻き込みたくないと思えるこの少年は、本当はとても優しいのだろう。けれどいじめを受けて、歪んでしまった。
 少年は大河を睨みつけて言った。
「お前、いじめられたことないだろ」
 断定した言い回し。大河はわずかに俯いた。
「あるよ」
 はっきりとした肯定に少年は驚き、皆から動揺の声が漏れた。まさかこんな所でこんな話しをすることになるとは思わなかった。大河は小さく息を吐いた。
「小学校の時にね、ハブられてた。けど、俺も別のクラスに友達がいたんだ。そいつが気付いてくれて、しょっちゅう俺のクラスに遊びに来てくれた。だから、頑張れた」
 あ、と少年が小さく呟いた。何か心当たりがあるようだ。大河は笑みを浮かべた。
「友達、気が付いてるんじゃない? 話してくれるの待ってるかもよ? お前いじめられてんのか、なんてさすがに聞き辛いじゃん」
 自分もそうだった。誰にも相談できなかった。
 省吾には何でも相談していたけれど、あの時だけはどうしても言えなかった。心配かけたくない、恥ずかしい、情けないという気持ちももちろんあったけれど、いじめられていると言葉にすることで、改めて突き付けられた現実に自尊心が傷付きそうで怖かった。だからできるだけ普通に振る舞っていたのに、省吾はどうして気付いたのだろう。
 でも、と少年は逡巡し、やがて拒否するように首を横に振った。
「やっぱり嫌だ、恥ずかしい、こんなこと言いたくない……っ」
 大河は小さく溜め息をついた。どうすればいいのだろう。親にも友達にも言えない、言いたくないと訴える彼に分かってもらえるには。
 大河が口をつぐむと、背中に遠慮がちに手が触れた。振り向くと、茂が立っていた。
 穏やかな笑みを浮かべた茂を見上げ、大河は腰を上げた。今度は茂が少年の前に膝をつき、優しい声色で語りかけた。
「僕は、以前は中学の教師をしていたんだ。だから言わせてもらうね」
 あんなにも降りしきっていた雨が、霧雨に変わっていく。
「いじめられることは、恥ずかしいことじゃない。いじめることが恥ずかしいんだ。どうかそれに気付いて欲しい」
 優しくも一本筋の通った、力強い声だった。少年が目を細めて唇を噛み、俯いた。
「君は、君の回りにいる人たちをもっと信じなさい。誰でもいい、友達でも家族でも先生でもいい。君が信じられる人に相談しなさい。暴力を受けていたのなら、きちんと病院に行って診断書をもらいなさい。メモでもいいから、相手の名前と日付、受けた内容を記録しておきなさい。今なら携帯で会話を録音しておくこともできる。それは必ず証拠になる。今は、いじめ被害者が刑事告訴するケースが増えてるんだ。証拠を持って弁護士に相談しなさい。警察に被害届を出して受理されれば捜査される。暴力は暴行罪、怪我をしたなら傷害罪、お金を取られていたのなら恐喝罪、他にも脅迫罪や名誉棄損、侮辱罪になる行為もある。いじめはね、犯罪なんだよ。君は被害者なんだ、恥ずかしがる理由なんかどこにもない」
 少年からは小さな嗚咽が漏れ始めていた。
「でもね」
 茂は一旦言葉を切り、はっきりとした口調で言った。
「あの子たちを襲った君は、加害者でもある」
 少年はびくりと体を震わせた。
「いいかい? 僕たちが警察に通報すれば、目撃者が三人いて、被害者であるあの子たちがいる以上、君は殺人未遂、加えて、彼を傷付けた傷害罪に問われる。目撃者もいて証拠もあるから、有罪だと判断されるだろうね。そうなると、君には前科がつく。君と君のご家族は、その後どうなるかな? ネット社会の今、噂はすぐに回るし、実名や顔写真なんかすぐに晒される。僕が言いたいこと、分かるね?」
 少年は小さく頷いた。それを見て茂も頷き、それと、と続けた。
「君は、親に心配をかけたくないと言ったね。親というのは、いつも子供のことを心配しているものなんだよ。もちろん、悲しいけどそうでない親もいる。でも、心配かけたくないと思うのなら、少なくとも君のご両親は君のことを心配してくれる人たちなんだよね。ご両親は、君を朝学校に送り出して帰宅するまで、部活や塾で遅くなる時、友達と遊びに行って帰ってくるまで、事故や事件に巻き込まれないか心配でたまらないと思う。きっと、幸せな人生を歩めるようにと、いつも考えてるよ。あまり口にする人は少ないかもしれないけど、それが親なんだよ。もしご両親が君の変化に気付いていたら、今心配でたまらないんじゃないかな。特に君たちは思春期だし、大人からしてみれば複雑な年頃だ。聞いていいのかなって思っているかもしれない。親も人間だから、迷うことも分からないこともある。だから、君から話してあげないと。大丈夫、きっと力になってくれる。信じなさい」
 視線を逸らすことなく真っ直ぐ見据えたまま、茂は穏やかに微笑んだ。少年は俯いたまま、ゆっくりと背中を丸めて地面に額を押しつけた。
「ごめ、なさ……っごめんなさい……っ」
 嗚咽の合間に何度もごめんなさいと繰り返す少年の頭をひと撫でし、茂はさてと腰を上げた。
「皆、どうする?」
 茂が問うと、少年は体を起こした。子供のようにしゃくりあげる少年を一瞥して言ったのは、樹だった。
「もう面倒だから放っておけば? またやらかしたら消せばいいし」
 樹が物騒な提案を平然と言い放った。
「樹さんに賛成です」
「俺もだ」
 美琴と怜司が小さく手を上げ、弘貴と春平、昴と香苗が四人で顔を見合わせた。
「まあ、消すかどうかは別として、反省はしてるみたいだし……」
 うん、そうだね、と春平と昴、香苗が同意した。
「大河くん、君はどうする? 腕を切られたんだろう。訴えるなら君だよ」
 振り向きながら尋ねられ、大河は少年を見下ろした。
 俯いたまま鼻をすすりあげ、肩を震わせる少年の気持ちは本当によく分かる。しかし、それでも。
「俺は、いじめられて辛かった気持ちも、苦しかった気持ちも分かります。けど、だからって他の人を傷付けて快感なんて気持ち、これっぽっちも分かりませんし分かりたくもない。正直、許せません。許す気もありません」
 はっきり言い切ると、少年が身を竦めた。
「でも……」
 大河は一瞬目を伏せ、すぐに瞼を上げて笑みを浮かべた。
「約束してよ、絶対誰かに相談するって。もし破ったら、さっきの怖い人に頼んでもっと怖い目に遭ってもらう。言っとくけど、あの人めっちゃ強いし怖いからね」
 実感が籠った忠告にくすくすと皆から小さく笑い声が漏れ、樹がにやりと口角を上げた。
「いいよ。どんなお仕置きがいいか考えとく」
 乗り気の樹に苦笑し、大河は少年に視線を戻した。
「約束できる?」
 少年は、大きく頷いた。それを見た大河は安堵の息を吐いた。
「これでいいかな?」
 茂が、黙って様子を見守っていた宗史と晴を見やった。二人は少し呆れたような、それでいて安心したような笑みを浮かべた。
「皆がいいのなら、俺は構いませんよ」
「俺も、異議なし」
 じゃあ、と茂は皆を見渡した。
「帰ろうか」
「はい」
 皆が笑みを浮かべ踵を返した。と。
「あの……っ」
 少年に呼び止められ、再び足を止めて振り向く。少年は全員を見渡した後、勢いよく頭を下げた。
「すみませんでした! それと……っありがとうございました!」
 涙声で告げた少年を眺め、口を開いたのは弘貴だった。
「あのさ、お前自分で言ったよな。強くなった気になるって。その通りだよ、強くなった気になるだけだよ。実際はこれっぽっちも強くなんかなってねぇ。そんなの強さじゃねぇよ、勘違いすんな。それともう一回言っとくけど、俺ら、お前のこと許すつもりねぇから。だってそうだろ、仲間傷付けられて許せる奴なんていねぇよ」
 弘貴、と春平が諌めたが、弘貴は構わず続けた。
「だから、二度とやるな。あと約束守れよ。こっちだって仲間内から殺人犯出したくねぇんだから」
 行こうぜ、と促し、今度こそ揃って出入り口へと足を向けた。
 ちょっと殺人犯って僕のこと、殺るでしょ樹さんなら、殺るけどそれなら完全犯罪計画立てるよ、と物騒すぎる会話をしながら立ち去る皆の後ろを、大河は少年を一瞥してから追いかけた。
 霧雨だった雨は止み、そこここの頭を垂れた葉の先端から滴が落ちる。少年は、大河たちの声が聞こえなくなるまで顔を上げることはなかった。
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