第7話

文字数 4,569文字

 ただの肝試しが、あんなことになるとは思わなかった。
 樹に追い立てられたと思ったら、突然樹の腹から大量の血が噴き出した。人間の中にあんなに大量の血が流れているとは思わなかった。理解不能の状況と留まることなく流れ出る血液に、理性なんてもの役に立たなかった。逃げろと訴える本能のまま体が動いた。樹を助けようとする冬馬の腹を何度か殴って気絶させ、智也と圭介に担がせて、逃げた。
 あの出血量は絶対に助からない。あのまま留まれば自分たちも殺されていた――誰に? 樹は、誰にやられた? 何もいないのに、何もないのに突然腹が切り裂かれたようだった。まさか幽霊の仕業だとでも言うのか。
 急発進した車の中には、何とも言えない重苦しい空気が漂っていた。目の前で起こった現実とは思えない出来事と、ついさっきまで一緒にいた人間がいないという現実。相反する現状が、脳を混乱させた。
 どれほど、仕方なかった、不可抗力だった、あんな状況で冷静でいられる方がおかしいと言い訳をしても、樹を置き去りにした――見殺しにしたという現実からは、逃げられなかった。
 突然、智也が車を路肩に寄せて停車した。
「おい何してんだ、早く行け!」
「どこにですか!?」
 顔を真っ青に染めて勢いよく振り向いた智也が、噛み付くように反論した。
「どこに行くんですか、どこに行けばいいんですかこんな状態で! 何でいきなりあんな……っ!」
「待て、分かった悪かった! 俺が悪かった、いいから落ち着け。な?」
 両肩を掴んで顔を覗き込むと、智也は荒く呼吸を繰り返した。肩を離してやるとハンドルにしがみつくようにして顔を伏せた。良親は深呼吸をして後部座席を振り向いた。
 アヴァロンはまだ営業中だ。こんな状態を見られるのはまずい。智也も圭介も硬直して怯えきっている。冬馬も気絶したまま目を覚ます様子がない。良親は携帯の時計を確認した。一時を過ぎている。
「智也、運転代われ」
 智也はゆっくりと体を起こした。
「ど、どうするんですか?」
「ミュゲに行く。今から行けば誰もいない。いたとしても酔い潰れたって言えばごまかせる」
「い、樹は……」
 震える声で尋ねた智也を、良親は反射的に睨んだ。
「いいか、今日のことは死ぬまで誰にも話すんじゃねぇ。墓場まで持って行け。圭介、お前もだ。圭介ッ」
 語気を強めると、金縛りにあったように微動だにしなかった圭介が、弾かれたように体を震わせて顔を上げ、何度も頷いた。この様子では本当に分かっているのか不安だ。あとでもう一度言い聞かせるしかない。もちろん、冬馬にも。
 ミュゲの近くはバーやキャバクラ、ラウンジが多く店舗を構える。パーキングに車を停め、智也と圭介に抱えさせて店に入った。途中、酔っ払いのサラリーマンが茶化してきたが無視した。
 店の看板はすでに電気が消され、入り口にも鍵がかかっており誰もいないことを示していた。良親は持ち歩いている鍵で扉を開け、三人を先に入れるとしっかり鍵を閉めた。
 電気を点け、冬馬をソファに寝かせ、ひとまず冷蔵庫を漁る。水のペットボトルを三本持って、冬馬の頭と足元に腰を下ろしている智也と圭介に渡してやった。二人は急くように水を飲み、長く息を吐き出した。向かい側のスツールに腰を下ろし、良親も半分ほど一気に飲み干す。
 しばし薄暗い店内が静寂に包まれた。
「ちょっと聞いていいか」
 良親が沈黙を破った。こんなこと、今さら聞いても無意味なことは分かっている。けれど聞かずにはいられなかった。智也と圭介が視線を投げた。
「樹は、冬馬に雇われてたのか」
 二人が同時に息を飲んだ。
「あいつは一体何もんなんだ。どういう理由で冬馬はあいつを雇ってた」
 智也と圭介が困惑した様子で顔を見合わせた。
「な、何でそんなこと……」
 圭介が唇を震わせながら言った。
「二人がそんなようなこと話してんの聞いたんだよ。別に今さらどうこう言うつもりもねぇけど、黙ってんのも何かあれだろ」
 要は気を紛らわすためのネタだ。表向きは。
 二人はまた顔を見合わせ、聞いたのなら、と言って当時のことをごく簡単に説明した。自分たちが樹と喧嘩したことをきっかけに出会い、冬馬から樹へ提案したのだという。
「それじゃ冬馬が樹を雇う理由にはならねぇだろ。アヴァロンでバイトとして雇えばいい」
 そう指摘すると、二人は観念して洗いざらい喋った。
 当時樹は高校生で、家の都合で金が必要だった。売りをしようとしていた樹に同情したのか、それとも喧嘩が原因でバイトをクビになった責任を取ろうとしたのか、二人は分からないと言った。
「やっぱ高校生だったのか。家の都合ってのは何だ?」
「俺たちはよく知らないんです」
 冬馬は「家のこともあったし」と言った。知っていたのか、冬馬だけが。
 良親が無意識に唇を噛んだ時、冬馬がごそりと体を動かした。
「冬馬さん、大丈夫ですか?」
 智也が尋ねると、冬馬はしばらく呆けたように天井を見上げていた。やがて弾かれたように勢いよく体を起こした。
「樹は……ッ」
 殴った腹が痛むのか、苦悶の表情を浮かべて声を詰まらせ、冬馬は体を二つに折った。
「冬馬さん、無理しない方が……っ」
 冬馬が手を伸ばした圭介の胸倉を力任せに掴んで引き寄せた。
「樹はどうした!」
 息を詰めて視線を逸らした圭介に顔を強張らせ、脱力したように胸倉から手を離した。
「置いて、来たのか……」
「冬馬」
「置いてきたのか、あいつを! あんな状態で!」
「冬馬ッ!」
 冷静さを欠いている。良親が鋭く名を呼ぶと、冬馬が振り向いた。あんな状況じゃ仕方なかった、そう口を開くより先に、冬馬が弾かれるようにソファから飛び降りて駆け出した。
「待てどこ行く気だ!」
 咄嗟に立ち上がり腕を掴んで引き止める。
「放せッ!」
「もう遅ぇよ死んでる!」
 飛び出した本音に、冬馬がぴたりと動きを止めた。智也と圭介が、改めて現実を直視したような恐怖の表情を浮かべた。
 耳が痛くなるような静寂が流れ、ゆっくりと、冬馬が振り向いた。大きく目が見開かれたその顔は、何を言っているのか分からない、と言っているように見えた。薄く開かれた唇が、わずかに震えている。
「……何で、そんなこと言えるんだ……」
 良親は眉根を寄せた。
「何でって、お前も見たろ。樹の腹から……っ」
 言い終わる前に胸倉を掴まれ、良親は声を詰まらせた。正面から見据える。
「だからって見捨てていい理由にはならない」
「下手すりゃ俺たちも死んでただろうが」
「樹は死んでもいいって言うのか」
「どのみちあれじゃ助からねぇよ」
「お前が決めるなッ! 樹を……っ」
 冬馬が言葉に詰まり、俯いてきつく唇を噛んだ。
「俺が、もっと……」
 ぽつりと呟いた言葉は、良親にも聞こえないほど小さな声だった。良親が声をかけようとした間際、するりと手を離して冬馬は店から飛び出した。
「おい!!」
「冬馬さん!」
 智也と圭介が弾かれるように後を追い、扉を開けたところで足を止めた。どうするべきか考えあぐねている様子の二人を一瞥し、良親は乱暴にスツールに腰を下ろした。組んだ手を額に押し付ける。
 どこに行くかなど、考えなくても分かる。樹のところだ。あれではもう生きてはいまい。冬馬が救急車を呼んで事情を話せば警察が動く。そうなれば、おそらく捕まる。保護責任者遺棄罪、と言ったか。新人の頃、泥酔した客を放置しても該当する場合があるから気を付けろと教えられた。
 いっそ一緒に行けばよかったとも思うが、確実に口論になる。遺体をどこかに隠す、などという提案を冬馬が飲むはずない。
 結局戻った智也と圭介に罪状を説明すると、二人は顔を真っ青に染め、脱力したようにソファに腰を下ろした。
「詰んだな……」
 乾いた笑いと共にぼそりと呟く。こんなはずではなかった。ただのお遊びのつもりだったのに、何故、こんなことになってしまった。


 今晩中にでも警察が来るだろうと思っていたのに、いつまで待っても連絡すらなかった。
 どのくらい時間が過ぎたのか、移動したソファで浅い眠りを覚まさせたのは智也の話し声だった。内容からして相手は冬馬だ。体を起こしながら耳を澄ます。恐る恐るといった感じの口調が途中から驚きに変わり、さらに困惑に変わった。
「え、どういうことですか? いないって……」
 顔を見合わせる智也と圭介を見て、良親は怪訝な表情を浮かべた。いない? 誰が。智也は冬馬と話しているのではないのか。
「あの、俺らも……あ、そうか……はい、はい……分かりました、そうします。また連絡します」
「おい、何の話だ」
 通話を切る智也が、それがと語った内容は実に信じがたいものだった。
「いなかった……? あの怪我でか?」
「はい。冬馬さんが近くの夜間の救急指定病院を探して問い合わせたらしいですけど、個人情報は教えられないって断られたそうです。面会時間まで待って市内の病院を当たるそうなので、俺たちも一緒に探します」
「やめろ」
 食い気味に吐き出した良親に、二人は目を丸くした。
「どのみちあの状態じゃ警察が動く。樹が助かれば俺らのこと話すだろ、わざわざこっちから名乗り出なくてもどうせ捕まる。それに冬馬が探してんだったら、助からなくても同じことだ」
 まだ警察が動いていないのなら、一般人が救急車を呼ばずに病院に運んだのか。もしそうだとしても、医師が事件性有りと判断した場合、あるいは異状遺体を検案した場合は通報される。
「それはそうですけど……でも、樹は……」
 圭介が困惑したように視線を泳がした。智也が鳴った携帯を確認して圭介に見せた。二人は無言で顔を見合わせて頷くと、腰を上げた。
「良親さん、やっぱ俺ら探します。捕まるのは……正直怖いですけど、でも樹は仲間だし、探してやりたいです。それに、冬馬さんに頼まれたら断れません」
「俺ら、もう後悔したくないんです。すんません、失礼します」
 智也と圭介は軽く会釈をし、小走りに扉へ向かった。とりあえず時間まで仮眠しようぜ、んじゃ俺んちな、と話す二人の会話を遮るように扉が閉まった。
 良親は二人の背中を見送り、一人残された店内をぐるりと見渡した。
 やっと、ここまで来たのに。
 良親は飲みかけのペットボトルを煽ると、背もたれに体を預けて長く息を吐いた。ぐしゃっとボトルを握り潰し、しばらく一点を見つめたまま微動だにしなかった。
 色んなものに耐えてきて、肩書も金も女も手に入れた。冬馬の弱味も握って、特に何をするでもないけれど、それが逆に長期に渡って持続的効果を生み優越感を得られた。下手に何かしていれば、今頃豚箱に入っていたかもしれない。選択は間違っていなかった。
 それなのに、たかが一度、お遊びの肝試しで全て無駄になるなんて。
「ッ!!」
 良親は息を詰め、弾かれたように顔を上げるとペットボトルを向かい側の壁に投げつけた。残っていた水を飛び散らせながら壁に当たって跳ね返り、カコンと軽い音を響かせて床を転がる。ころころと転がるボトルの音が、妙に虚しく聞こえた。
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