第8話

文字数 3,970文字

 大河は目を丸くしたまま息を詰め、体を硬直させてしばらく微動だにしなかった。心臓が委縮し、一瞬で体温が下がったのが分かった。文字通り、血の気が引いた。
 敵も味方も、全員が動きを止めた。極度の緊張と張り詰めた空気。耳が痛くなるような静寂に包まれた大広間に、さわさわと揺れる葉音が届く。時間が止まったような感覚を覚えた。
 掲げられた腕ぎりぎりで寸止めされた霊刀が、月光を反射して白い光を放っている。
 やがて蘇生したように、今にも爆発しそうなほど心臓が早鐘を打ち始めた。大河は、胸の辺りのシャツを強く握り締めた。手がわずかに震えている。無意識に止めた息を、勢いよく吐き出した。同じように紺野と北原も安堵の息を吐いた。
「僕が嘘をつかないこと、知ってるよね。次は止めない」
 樹が霊刀を収めながら、平然とした声で宣言した。次どころか、今まさに下手をすれば良親の腕を切り落とすところだったのに、全く動揺が見えない。
 同じ体勢のまま小刻みに震えて動けない良親に、樹が再度尋ねた。
「首謀者の名前は?」
 さすがにこの状態では無理ではないのか。そう同情が湧いた大河とは反対に、急かすように樹が霊刀を握り直した。反射した光に、良親が弾かれるように顔を上げた。すっかり血の気が引き、唇が震えて歯が噛み合っていない。
「たた、平良(たいら)……っ」
「苗字? 名前?」
「しら、知らねぇ……っ」
「連絡先は?」
 良親は慌ただしくポケットを探り、携帯を取り出した。恐怖で力が入らないのか、手から滑り落ちた。それを見て一歩踏み出した樹に、大仰に体を震わせる。
 大河はわずかに目を細めた。この様子では、一生トラウマになるだろう。同情など必要ない相手だが、ここまで怯える大人の男を見るのは初めてで、痛々しいほど憐れに映る。
 樹は転がった携帯を拾い上げ、宗史に向かって投げた。
「確認して」
「はい」
 さっそくチェックを始める宗史の手元を、大河たちが覗き込む。電話帳を開くと、確かに「平良」とだけ登録されている人物がいた。通話ボタンを押して耳に当てると、すぐに下ろした。紺野が携帯を受け取り、北原が番号を控える。
「駄目です、解約されています」
「は!?」
 声を上げたのは良親だ。
「そんなわけねぇだろ! 何で……っ」
「切られたんだよ」
 言葉を遮った樹を、良親は目を剥いて見上げた。
「いらなくなったから切られた。それだけのことだよ」
 良親は声を詰まらせ、拳を握り締めて俯いた。
「後で色々聞くけど、先に知りたいことがある。陽くんの情報は誰から聞いたの?」
 大河はきつく唇を結んだ。もし平良が鬼代事件と関わっているとして、陽の情報を良親たちに流したのなら、寮の中に内通者がいると確定し、さらに絞り込める。情報元は、昨日の庭での会話。
「……見張ってたんだよ」
 完全な敗北が逆に冷静さを取り戻させたのか。微かに震えてはいるが、先程までよりは遥かに落ち着いた声でぼそりと返ってきた。晴が怪訝そうに眉を寄せた。
「どうやって?」
「ここにいる全員で交替したんだよ。長時間うろついてたら怪しまれるだろ。近所だったら荷物持たねぇだろうから、荷物持って出掛ける日を狙って尾行することになってた」
「だからこの人数なんですね」
「なるほどな」
 北原と紺野が呟いた。見張りも尾行も、連絡を取り合って細かく交替すれば式神の監視の目もごまかせる。昨日の会話が漏れたわけではなかったのか。
「それ、平良って人が考えたの?」
「ああ」
 ふーん、と樹が相槌を打った。
「分かった。とりあえず、あんたは僕たちと一緒に来てもらう」
「は……?」
 良親が虚をつかれた顔を上げた。
「首謀者がいないのならあんたでしょ。洗いざらい喋ってもら……っ」
 言いながら霊刀を消した樹が、弾かれたように険しい顔を上げ、再度具現化した。同時に大河らと志季と椿が同様に大窓の方へ顔を向け、一斉に霊刀を具現化して身構える。何か音がする。いや、これは――声。下平や男たちが何の音だとざわめき始めた。
「っ!」
「え、紺野さん?」
 突然紺野が顔を真っ青にして口を覆い、北原が顔を覗き込んだ。
 次の瞬間。
「伏せろッ!!」
 宗史が男たちに向かって鋭く叫んだ。ブロック塀を鉄球で破壊したような轟音を響かせて障壁が瓦解し、物凄い勢いで真っ黒な塊が雪崩れ込んで来た。大広間を埋めつくさんばかりの悪鬼の塊と低い唸り声。同時に目に映ったのは、着物姿の背中。交差させた両腕を悪鬼に押し付ける姿は、まるで対峙していた最中にこちらに追いやられた風に見える。
「紫苑……っ」
 大河の声を遮るように、目の前に炎を纏った結界が張られた。椿は水が渦巻いた結界を張り、樹は正面に立てた霊刀の刀身を支えて足を踏ん張った。あの速度で突っ込まれては術を発動させる暇がない。
「樹ッ!」
「樹さんッ!」
 悪鬼に飲み込まれる樹に向かって口々に叫ぶ。一瞬にして周囲が真っ黒に覆われた。まるで黒い雪崩の中に立っているような光景だ。
「く……っ」
 凄まじい衝撃に、志季が小さく苦悶の声を漏らした。結界に激突した悪鬼が炎に焼かれ、消滅しながら扉の方へと流れていく。悪鬼の唸り声に混じって、男たちの壮絶な悲鳴が響いている。隣の声すら掻き消すほどの大音声。男たちにも見えているということは、それだけ悪鬼の霊気が強烈だという証拠だ。
 全員、食われているかもしれない。
「どんだけ集めてんだ!」
「志季、踏ん張れ!」
 晴と怜司がじりじりと下がる志季の背中を支える。
「霊符一枚じゃ調伏できない、四人同時だ! 陽、大威徳明王(だいいとくみょうおう)は行使できるな!?」
 宗史の問いかけに、陽が力強く頷いた。
「はい!」
「落ち着いてタイミングを合わせろ! 大河、その間樹さんを頼む。霊刀は維持したまま向かえ!」
「分かった!」
 樹を信じた上での指示。大河は当たり前のように具現化した霊刀を握り締めた。
 突如、悪鬼が三つに分裂し、真ん中の一つは紫苑を扉の外へと押しやった。コンクリートが破壊される轟音が響き、建物全体が揺れた。屋外まで追いやられたようだ。一方残りの二つは壁に沿って急浮上し、天井付近で再び一つに合わさった。
 またたく間に悪鬼が通り抜け、視界が開けた。すかさず大河以外の四人が霊符を取り出す。
 大窓を塞いでいた障壁は完全に崩れ落ち、月の光が大広間を照らす。無事なのは結界で護られた大河たち。頭を庇って身を伏せたままの良親と騒ぎで目を覚ました譲二、半分ほどに数を減らした男たち。それと、樹だった。だがあの量と勢いの悪鬼を防ぐにはかなりの霊力を消耗するはずだ。案の定霊刀が消え、膝から勢いよく崩れ落ちた。合わせるように悪鬼が天井を舐めるように戻ってくる。
「志季!」
「調伏しろ!」
 大河の合図で志季が結界を解き、宗史の鋭い指示で四枚の霊符が放たれた。一方椿も結界を解き、下平たちを置いて再び結界で隔離し、樹の元へ向かった。大河が樹の元へと駆け出し、その後を志季が追う。宗史、晴、怜司、陽の高らかに真言を唱える声が重なる。
「オン・シュチリ・キャラ・ロハ・ウン・ケン・ソワカ!」
 四枚の霊符が光を放って張り付き、悪鬼がもがくように動きを止めた。
帰命(きみょう)(たてまつ)る、邪気剿滅(じゃきそうめつ)碍気鏖殺(がいきおうさつ)――」
 と、突如、悪鬼が水あめのように尾を引きながら二つに分裂した。頭の部分を残し、大半はもぞもぞともがいている。初めて見る悪鬼の動きに目を疑ったが、真言を止めるわけにはいかない。
久遠覆滅(くおんふくめつ)急急如律令(きゅうきゅうにょりつりょう)!!」
 四枚の霊符から放たれていた光が瞬時に悪鬼を飲み込み、頭の部分の悪鬼はすんでのところで逃げるように大窓の方へ飛んだ。食われた男たちがあちこちから落ちてきて、床に転げ落ちた。だが人数が足りていない。
「逃がすな!」
 霧散する悪鬼を確認することなく、一歩踏み出した。と、
「横から来るぞ!!」
 扉の方から飛び込んできた紫苑の警告に、足を止めた。
 突如、先程よりは小さな悪鬼の塊が、左右の窓と壁を豪快にぶち破って雪崩れ込み、次々と分裂した。大広間を縦横無尽に蹂躙する。悪鬼の重厚な唸り声が空気を震わせる。
 難を逃れた男たちの数人は仲間を置いて脱兎のごとく逃げ出し、つい先ほど助け出された男たちは、悲鳴を上げるものの腰が抜けたようにその場から動かない。このままでは確実に全員食われる。
 大河の元にいた志季と椿が一斉に火玉と水塊を放つが、何せ数が多い上に中には触手を扱うものもいる。下手に動けばやられる。全てを消滅し切れない。飛び込んできた紫苑もまた、示し合わせたように悪鬼の集団に襲われ、下平らの結界の側で足止めを食っている。と、結界に体当たりされながらも、下平がもどかしげに叫んだ。
「お前ら逃げろ! ぼさっとすんな、さっさと立てッ!!」
 誘拐犯に逃げろと指示するなど、苦渋の決断だろう。だが悪鬼に食われるよりはまだいい。それにここにいられると邪魔だ。下平の怒声に我に返った男たちが我先にとへっぴり腰で扉へ向かって駆け出していく。それを援護するように紫苑が動いた。
「おっさんナイス判断! 陽、二人を頼む! 結界張ってここにいろ!」
「はい!」
 真言を唱える隙もないほどだ。霊刀を具現化できない陽は不利になる。瘴気に当てられて動けない紺野と、めまぐるしく変わる状況に唖然とする北原の周囲を宗史ら三人が囲んで援護し、陽が自身と共に結界を張った。
 とたん、大河の叫び声が響いた。
「樹さん待って!!」
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