第16話

文字数 4,079文字

 華が携帯で宗史への報告をする横で、動いたのは右近だった。女の元へ行き、腕を掴んで引っ張り上げ、父親のところまで引き摺る。
「やだ、ちょっと痛い! やめて痛いってば! 携帯が……!」
 相変わらずの態度に大河たちは渋面を浮かべた。酒吞童子に襲われ、香苗に引っ叩かれても反省の色がない。どうやら学習能力がないようだ。
 右近は父親の元まで引き摺ると、放り投げるようにして手を離した。女はつんのめりながら車体に手をついて足を止め、しかめ面で振り向いた。
 右近が父親を見下ろしながら言った。
「私を覚えているか? 二年前、一度顔を合わせている」
 二年前。香苗を保護したのは右近なのか。
「あの時に言ったはずだ。香苗が望まぬ限り、一切の接触をするなと。口約束なら違えても構わないとでも思ったか? またずいぶんと舐められたものだな」
 右近の頭上に小さな渦が出現し、激しい雨のような音をさせて一気に質量を増してゆく。父親と女が目を剥いて見上げた。
「我が主との約束を違えた代償、どう支払うつもりだ」
 人一人がすっぽり入るくらいの大きさまで膨らんだのは、見事に真ん丸な水塊だ。
「お前の命か? ならば今ここで、私が頂こう」
 右近が宣言すると、水塊は父親の頭上に移動し、覆いかぶさるようにして取り込んだ。シャボン玉のようにゆっくりと浮かび上がる水塊の中で、父親が必死の形相で手足をばたつかせ、出せと言わんばかりに拳を水の壁に叩きつける。
「な、何なのよ……何なのよあんた何してんのよ! 何よこれ死んじゃうでしょ!」
 そう言いながらも自分でなんとかしようと思わないらしい。女から助けを乞うような視線を投げられたが、誰一人して動こうとはしなかった。今まで以上に恐怖に満ちた女の顔を見て、やっと腑に落ちた。女は、状況をきちんと理解していたのだ。状況がどうであれ、大河たちが何者であれ、こいつらはあの生首から助けてくれる、と。だから、あんなにも横暴な態度を続けられたのだ。ある意味肝が据わっていると言えるが、自分のしたことを棚に上げ、図々しいにも程がある。
 香苗をあんなに蔑んでおいて、一番人にすがっているのは自分だ。
 普段なら、やり過ぎだと止める。けれどこれまでの彼らの態度から見て、ここで止めたらまた同じことをやりかねない。弘貴と春平はもちろん、父親のあの身勝手な言い分を聞いていた茂たちも、許す気はないのだろう。全員が黙って、しかし重苦しい空気を纏って見つめている。
 大河は香苗の横顔を盗み見た。ああは言っても、やはり完全に身捨てられるわけがない。拳を握り、眉を寄せ、唇を噛んで顔を逸らしている。
 もがいていた父親の口から、がぼっと大量の空気が噴き出した。ばたついていた手足が次第に動かなくなり、水にたゆたう。とたん、パンと水塊が弾け、父親だけが地面に落下した。宙に残った大量の水が一気に水蒸気と化す。
 ずぶぬれになった父親は伏して激しく咳き込み、女は助けるでもなくがたがたと震えながらそれを眺めている。やっと、もう誰も助けてくれないと理解したようだ。
「女」
 女がびくりと大仰に体を震わせて硬直した。
「不謹慎なもの言い、どう詫びる」
 目を細めて威圧した右近に、女は嫌だというように小さく首を横に振りながら後ずさった。
「二度と私たちの前に現れるな。次は容赦せん。行け」
 今度は何度も首を縦に振り、女は大慌てで運転席の方へ駆け出した。運転できるらしい。
 大河ははたと気付いて助手席へ走った。ドアを開けると、女が狼狽して怯えた目を向けた。無視してダッシュボードに手を伸ばし、一枚の紙切れを掴んで確認する。やっぱり、香苗の住民票だ。
「大河」
 振り向くと、右近が父親の首根っこを掴んで引き摺っていた。分かってはいたが、大柄な父親を腕一本で。大河は少々慄きながら後ろへ下がった。
「忘れものだ」
 右近は言いながら乱暴に父親を車内に放り込んだ。運転席の方まで吹っ飛んだようで、きゃあっ、と女が悲鳴を上げて車体ががたがたと揺れ、右近がこれまた乱暴にドアを閉めた。
 冷静で口数が少ない印象しかなかったが、先の台詞から察するに、宗一郎との約束を反故されたことがよほど頭に来たのだろう。淡泊に見えるけど慕ってるんだなぁ、と微笑ましい気持ちで右近を見上げる。
 やっと車のエンジンがかかり、一気にアクセルを踏み込んだらしい、けたたましいエンジン音を響かせたあと、砂埃を上げて急発進した。最後まで迷惑な連中だ。手扇子で埃を払いながら、危なっかしいくらいに蛇行する車を見送って改めて息をつく。
「大河、それは何だ?」
「ああ、香苗ちゃんの住民票。わざわざ取ったみたい。ここに来る時にちらっと見えてさ、さすがにもう来ないだろうけど、放っとくわけにもいかないから」
「そうか」
 ん、と頷き、大河は右近と共に皆の元へ戻る。すると、申し訳なさそうな顔をした華が、香苗に声をかけた。
「香苗ちゃん、ごめんなさい」
「え?」
 香苗はきょとんと目をしばたいて首を傾げた。
「あたし、知ってたの。知ってて、止められなかった。ごめんなさい」
 深々と頭を下げた華に、香苗はあからさまに動揺を見せた。
「は、華さんが謝ることじゃないですっ。やめてくださいっ」
「でも、あの時あたしが止めていれば……」
 顔を上げようとしない華に、香苗は困った顔をした。逡巡して、華の肩に遠慮がちに手をかける。
「頭を上げてください、華さん」
 落ち着いた声色に、華がゆるゆると頭を上げた。香苗は少し口ごもり、視線を落とした。
「あの、あたし、皆に迷惑をかけたこと、本当に申し訳ないと思ってます。でも」
 一度瞬きをして視線を上げ、はにかむように笑った。
「これですっきりしました。ありがとうございました」
「香苗ちゃん……」
 華は小さく呟き、ゆっくりと香苗を抱きしめた。
「この前のことも、ごめんね。ありがとう」
「あ、あのっ、華さんっ、本当に大丈夫なので……っ、それにあたし埃っぽいし臭うと思うんですけどっ」
「平気」
 香苗は顔を真っ赤にして両手をあたふたとさせる。やがて、困ったような恥ずかしそうな、それでいて嬉しそうな笑みを浮かべて、華の肩に顔をうずめた。おずおずと背中に回された手の指先が、控えめにカットソーを握った。
 女の子同士の友情を微笑ましく見守りたいところだが、気になることが出てきた。大河たちはこっそりと自分の腕や服を嗅ぐ。確かに臭い、生臭い。ちらりと隣を見やると、右近は一瞥して草履を向こう側に滑らせた。弘貴と春平もまた、茂と昴から距離を取られている。皆酷い。
 と、どこかでメッセージの着信音が鳴り響いた。そうだ、結局女は携帯を回収できなかったのだ。
「ああ、そうだそうだ」
 光る液晶を頼りに弘貴が携帯を回収し、憎たらしそうな面持ちで戻ってきた。携帯を見るのも嫌らしい。
「これ、壊してもいいよな?」
 また物騒なことを。だが反対はしない。茂が苦笑して肩を竦めた。
「さすがにそれは……」
「でも、あいつ香苗の個人情報晒すっつって俺ら脅したんですよ? わざわざ返してやる必要ないでしょ」
 さらりと暴露された女の愚行に、茂と華がぴくりと反応した。
「何ですって?」
「何だって?」
 二人揃って満面の笑みだ。うふ、と不自然な笑い声を漏らしたのは華だ。するりと香苗を離して弘貴から携帯を受け取ると、後ろのポケットから独鈷杵を取り出しながら少し距離を取る。茂がそれに続いた。まさか。華は上にぽんと携帯を放り投げ、一瞬で霊刀を具現化して目にも止まらぬ速さで横一閃、振り抜いた。小さい火花を散らし、カシャンと軽い金属音をさせて地面に落ちた携帯は、無残にも真っ二つだ。続けて茂も霊刀を具現化し、順に切っ先で液晶を突き刺して重ね、
「オン・ノウギャバザラ・ソワカ」
 水天の真言を唱えた。とたん刀身に渦を巻いた水が伝い、携帯を飲み込んだ。防水加工が施されていても、完全に中まで浸透すれば一巻の終わりだ。茂は水属性らしい。いやそれはともかく、満面の笑みで暴挙に及ぶ二人が怖い。弘貴は満足そうに頷いているが、春平と昴は顔を引き攣らせている。茂が霊刀を解いて水浸しの携帯を拾い上げた。さすがに放置はしないようだ。
 二人はやり切った感満載の息を吐いて、顔を見合わせた。
「今からでも間に合うかしら?」
「飛ばせば間に合うと思うよ? 間に合わなくても場所は分かってるし?」
「いやいやいやいや、何する気ですか!?」
「正気に戻ってください二人共!」
 車に足を向けた二人を、春平と昴が泡を食って止めに入る。
「何を言ってるんだい。僕たちは至極正気だよ? 彼らはうちの子たちを甚だ卑怯な手で脅した挙げ句侮辱したんだ」
「さっきは右近に先を越されちゃったけど、二、三発ぶん殴っても罰は当たらないわよ」
「あ、んじゃ俺も行くー!」
 弘貴が陽気に挙手して小走りで追いかける。
「ほう。ならば私も同行しよう。治癒が必要だろう」
 この場合、それは証拠隠滅と言うのでは。右近が一歩踏み出した。
 落ち着いてください! と四人に懇願する春平と昴には悪いが、止めるべきか行かせるべきか分からない。
「……これは、止めた方が良いのか?」
「さあ……?」
 柴と紫苑まで困惑させてどうする。歩き出した二人の後ろを、大河は住民票を手に腕を組んで低く唸りながら続く。と、ふふっ、と息を吐き出すような声が聞こえたと思ったら、屈託のない笑い声が響いた。皆が足を止めて振り向く。
 注目を浴びながら、香苗は無邪気な笑顔で腹を抱えて笑う。朗らかな笑い声に応えるように、心霊スポットと名高い場所に澄んだ風が微かに吹き抜けた。
「ごめ、ごめんなさ……、でも、なんかおかしくて……っ」
 目尻に滲んだ涙を拭いながら、香苗が長い息を吐いた。
「香苗」
 戻ってきた右近が、手を差し出した。
「帰るぞ」
 香苗は微笑んで見守る「家族」に視線を巡らせて右近を見上げ、
「うん!」
 満面の笑みを浮かべて手を伸ばした。
 騒がしく去ってゆく大河たちを、二階建ての廃墟の窓から笑みを浮かべた誰かが、じっと見つめていた。
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