第16話

文字数 4,493文字

 それからは、漫然と時間が過ぎた。樹はそのまま寝てしまい、怜司は携帯で読書、華と江口は楽譜を手に取ってあれこれと雑談、そして大河は携帯のニュースサイトや好きなバンドの公式サイトを覗き、気が付いたら船を漕いでいた。
 どのくらい時間が過ぎたのか、体が横に大きく傾いた感覚ではっと目が覚めた。危ない、椅子から転げ落ちるところだった。
「大丈夫?」
 隣から小さな笑い声と共に華の気遣う言葉が聞こえ、大河は振り向いた。
「だ、大丈夫です。びっくりした」
 くすくすと笑う華の前には、古い楽譜が一冊置かれている。回りを見渡すと、樹はまだ熟睡中で、怜司も読書にのめり込んでいる。江口は事務机で何やら書き物をしていた。仕事だろうか。
 壁に掛けられている時計は二時を指している。江口が遭遇した時間だ。
 大河は冷めきったコーヒーに口をつけ、静かにテーブルに置きながら耳を澄ませた。スタッフルームの扉は木製で、ピアノからも近い。すすり泣く声なら、微かだろうが聞こえるだろう。
 時計の秒針の音、樹の規則的な寝息、怜司が体勢を変えた布擦れの音、華が楽譜をめくる紙の音、江口がペンを走らせる音。
 聞こえないか。
 大河は息をついた。耳には自信があるのだが。
 あれは中学一年の真冬だった。
 夜七時を回った頃、風子(ふうこ)の母親から風子がいないと連絡が入った。夕方に大喧嘩をしたらしく、気が付いたらいなくなっていたのだと言う。
 島の男たち総出で捜索に出ると言うので、絶対に離れないことを条件に大河も捜索隊に入った。集会所に行くと省吾とヒナキもいて、影正(かげまさ)影唯(かげただ)省吾(しょうご)の父、兄の大吾(だいご)、省吾、大河の六人で班を組んだ。いつも遊ぶ場所を大人たちに伝え、班ごとに全て探した。女性陣は民家や浜辺、男性陣は懐中電灯を頼りに、普段は決して入らない山の奥にまで範囲を広げたが、風子は見当たらなかった。
 この凍て付く寒さの中、一人で怯え、震えている風子を想像すると、心臓が痛くなった。
「あの馬鹿……ッ」
 心配と不安で、思わず毒づいた。
 もう一度、今度はさらに範囲を広げて探すことになった。しかし、どこをどう探しても風子はいない。もしやと嫌な予感が頭をよぎった。島の裏側は、崖だ。もしそちらへ行って足を滑らせたのだとしたら――。
 ぞくりと全身に鳥肌が立った。あんな高さから落ちたら命はない。しかも真冬の瀬戸内海の水温は10度に届かない。捜索を開始して、一時間以上経っている。
 早く探し出さなければ。
 声を張り上げて、風子の名を呼んだ。何度も何度も呼びながら山を登り、しかし返事はない。
気が付けば、神社のすぐ近くだった。島内が見渡せるほど山頂近くにあり、道も良くないため子供たちだけで近付かないよう言われている場所だ。
 影正たちと手分けをして周辺を捜したが、やはり見当たらない。一度目の捜索で別の班が探しているし、他の捜索隊からも見つかったと連絡は入らない。重苦しい空気の中、皆が無言で社の前に立ち尽くした。
 と、突然突風が吹き抜けた。
 うわっ、と皆が舞い上がった砂ぼこりに目を閉じた。
 揺れる木々、擦れ合う葉、地面を転がるように舞う枯葉、軋む神社の社。そんな中に、微かに高い音が混じっていた。
 何だ今の、珍しいな、と言い合う影正たちを横目に、大河はまだ緩やかに吹く風に耳を澄ませた。
 聞こえる。
 聞き間違えるはずがない。ずっと、生まれた時から聞いてきた声を。
 省吾が止めるのも聞かず、大河は走り出した。木々をすり抜け、道なき道を進む。枯葉で足を滑らせ、地面に顔を出した木の根に躓いて転びながら、それでも微かに届く声に導かれ、無我夢中で走った。近付くにつれ声ははっきりと届き、確信が生まれた。
「いた!」
 神社からかなり離れた傾斜の下に、風子はいた。太い木や枯れ草が目隠しになり、しかも地面は枯葉で覆い尽くされている。何故こんな場所に来たのかは分からないが、彷徨っているうちに足を滑らせて落ちたのだろう。
 懐中電灯を照らすと風子は眩しそうに手庇で見上げ、
「風子ッ!!」
 大河が名前を呼んだ次の瞬間、大声で泣いた。
 影正たちが持ってきたロープで引き上げられた風子は、全身泥まみれで、顔や手に擦り傷や切り傷はあったが大きな怪我はなかった。
「あんな高さから落ちたのに奇跡だよ。島の神様が助けてくれたんだろうね」
 そう、誰かが言った。
 お前よく聞こえたな、と省吾に言われ、正直に「風に乗って聞こえてきた」と答えると、省吾はそっかと笑った。
 あの後、絶対に離れないという約束を破ったからと影正から小言を食らった。今思えば理不尽だ。
 あれから、耳に自信がついた。何一つ自慢できるものなどなかった自分にできた、唯一の自信。けれど、あの時の突風は未だに不思議に思う。山の中なのに、ビル風のような吹き方だった。
 やっぱり島の神様が助けてくれたのかな。
 大河は、あの時の風子の様を思い出し、小さく笑った。
 お気に入りの青いダウンコートはあちこち破れ、中の羽毛が飛び出していた。髪には枯葉がくっ付き、顔も手も砂まみれ、その上涙でぐしゃぐしゃで汚いの何のって。汚いなぁお前、と悪態をつきながら風子を抱きしめてやると、強くしがみついてきた。震えていた小さな体の感触は、忘れられない。
 元気かな、とつい郷愁に浸りかけて、はたと我に返った。
「忘れてたぁ……」
 昨日、いやもう一昨日になるのか。ヒナキから連絡を入れてやれと言われていたことを。霊符の出来があまりにも悪いかったせいだ。つまり自分が悪いのだが。
 声を絞り出しながらテーブルに突っ伏した大河を、華が小首を傾げて見やった。
 おそらく大河から連絡があったことはヒナキが話している。しかし一切音沙汰がないところを見ると、拗ねている。間違いない。省吾はともかく、風子は確実だ。
 大河はテーブルに頬をくっつけたまま唸った。
 今日、起きてから連絡を入れるか。いや、怒涛のように文句を言われる。なら少し時間を置いた方がいいだろうか。いやいや、それはそれでもっと早く連絡を寄越せとキレられる。最悪電話にもメッセージにも反応しないかもしれない。どうする。
 んー、と小さく唸り声を漏らし、首を回す。隣の華と目が合った。そうだ、女性の気持ちは女性だ。
「華さん」
 頬をくっつけたまま声をかけると、華は首を傾げた。事情を説明すると、あらと目を輝かせた。
「ヒナキちゃんのことは昴くんから聞いたけど、もう一人いるの?」
 はあ、と生返事を返す。今はそんなことより解決策をぜひ。
「そうねぇ、どっちとも言えないわねぇ」
「えー?」
 何の解決にもならない助言に、大河は体を起こしながら不満の声を上げ、背もたれにもたれた。
「だって、もう一日時間が経ってる時点で駄目だもの」
「駄目なのか」
「駄目なのよ」
 容赦ない駄目出しに思わずタメ口で反復した大河に、華がさらに反復した。
「その一日のうちに思い出してくれなかったってことがね、傷付くの。24時間あって一瞬でも思い出してくれなかったんだなぁって」
「別に一瞬でも思い出さなかったってわけじゃ……俺だって色々あるし……」
「そうね。それは頭では分かってるのよ。でも、どうしようもないのよねぇ、こればっかりは。怒られた分だけ、心配してくれたんだなって思ってあげられないかしら」
「んー……」
 確かに心配はかけていると思う。それは分かっている。逆の立場だったら心配するし、あまりにも連絡をくれなければなおさらだ。でも自分なら、メッセージくらいは送る。
 煮え切らない大河に、華が苦笑した。
「大河くん、この時間なら連絡つくから、とか教えてないの?」
「え? ええ」
「じゃあ教えてあげた方がいいわ。風子ちゃんからしたら、こっちの生活のこと分からないでしょ? 今連絡したら迷惑かも、とか、忙しいかもとか思ってるかもしれないわよ」
「……だったらメッセージ送ってくれればいいのに」
「それを言うなら大河くんもよ? テレビ見てる時間があるんだし、寝る前におやすみメッセージとかできるでしょ」
 う、と声を詰まらせた。正論だ。日がな一日訓練や霊符の練習をしているわけではない。特に夜は疲れを溜め込まないためにゆっくりした方がいいと宗史から言われている。
「いいねぇ、青春だねぇ」
「どうせ怒られるならとっとと怒られた方が楽だろ」
 樹と怜司の声が会話に割り込んできた。いつから聞いていたんだろう。
 樹は体を起こして伸びをし、怜司は携帯をテーブルに置いた。
「幼馴染みの年下女子と恋愛なんて、どこの青春漫画だって感じだよねぇ」
「れん……っ! 違いますそんなんじゃありません! 風はただの幼馴染みで……っ」
「ただの幼馴染みならそんなに考え込まなくてもいいでしょ。省吾くんだっけ、一緒に悪鬼に襲われたの。彼にならあっさり連絡できるんでしょ?」
「それはまあ……でも、省吾は男だし風みたいに怒ることないし……」
「風子ちゃんは女だと認識してる時点で恋愛対象に入るな」
「怜司さんまで……っ。俺あいつのことそんな風に見たことないですから! 江口さん!」
「はい!?」
 若者たちの恋愛談議にこっそり耳を傾けていたらしい江口は、突然名を呼ばれ大仰に肩を震わせた。
「トイレ、どこですか」
 むっつりと膨れ面の大河に低い声で尋ねられ、江口はああはいと慌てて腰を上げた。
「端の方でちょっと分かり辛いので、ご案内します。電気は……」
「すみません、できればこのままで。懐中電灯はありますか?」
「はい」
 怜司に窺うような視線を向けると即座にそう答えが返ってきて、江口は机の下にぶら下げてある非常用の懐中電灯を手に取った。
「行きましょうか」
「はい、ありがとうございます」
 大河は不機嫌な声で礼を言いながら席を立ち、江口に促されて部屋を出た。
 大河の怒った背中を見送り、大人三人は小さく笑い声をこぼした。
「あんなに怒ることないのにねぇ」
「二人ともからかいすぎよ」
「華さんも止めなかっただろ」
 そうだけど、と言って、華は笑みを浮かべたまま息をついた。
「大河くんって、見てて飽きないわよね」
「反応が素直過ぎて面白いから、つい構っちゃうんだよ」
「愛されキャラってやつか?」
「そんな感じね。確か一人っ子よね、可愛い」
「年上に可愛がられるタイプだよねぇ。いいなぁ、羨ましい」
 何か言いたげな視線で怜司と華を交互に見やった樹に、二人は白けた視線を向けた。
「あんたは可愛気がないのよ。大河くん見習いなさい」
「同感だ」
「えー、何で。こんなに可愛いのに。二人ともどこに目を付けてるの?」
「まずはその皮肉屋なところを直しなさい」
「そうだ。お前は一言多いんだよ」
「二人とも見る目ないなぁ」
 テーブルに頬杖をついて膨れ面をした樹に、怜司と華が苦笑した。
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