第9話

文字数 2,196文字

 咄嗟のことで、無茶だの無理だの考える余裕はなかった。まさかあれほどとは。それにあんな速度で襲われては、真言を唱える暇なんかない。やっぱり無真言結界を早く会得しなきゃ、と頭の隅で考えつつ、樹は全身全霊を持って霊刀を支えた。それでも踏ん張っている足はずるずると後ろに滑る。重低音の唸り声を伴って、霊刀に切り裂かれた悪鬼がすぐ脇をすり抜けていく。筋肉が震えるほど力を込めるなど、いつぶりだろう。
 ものの数秒がとても長く感じた。
 全身にかかっていた衝撃が途切れた。押し相撲をしている相手が不意に力を抜いた時のような感覚。酷い脱力感に、膝の力が抜けてそのまま前のめりに倒れ込んだ。手の中から霊刀が消え、独鈷杵がこぼれ落ちる。体力も霊力もほとんど残っていない。
「樹さん!」
 大河の慌てふためいた声と、宗史らが真言を唱える声が聞こえた。すぐ側で滑るように足を止めた大河がしゃがみ込む。
「大丈夫!? あ、独鈷杵、えーとポケットに入れときます」
 少々パニックした様子で独鈷杵を拾い上げ、尻のポケットに突っ込んだ。腕を持ち上げられ、樹はゆっくりと目を開いた。片手に握られた霊刀は、訓練時よりも精巧に具現化されている。やはり実戦で成長するタイプか。樹は口元に微かな笑みを浮かべた。
「あー、うん、平気平気」
「全然そうは見えねぇな」
「樹様、ご無事で何よりです。お怪我はありませんか?」
 樹の張った虚勢に、駆け寄った志季の声が突っ込み、少し遅れて合流した椿が安堵の笑みを浮かべた。
「大丈夫、ありがと椿。何だろうねぇ、昨日といい、襲撃される相でも出てるのかなぁ」
 溜め息交じりに嫌味をこぼすと、大河が「まだ根に持ってるし」と拗ねた声色でぼやいた。樹は大河に支えられながら立ち上がり、ははっ、と空笑いを漏らした。大河と志季の背後でちょうど調伏の光が放たれ、目を細めて顔を上げる。気が付けば、良親の前にいたはずが、ずいぶん後ろへ追いやられている。と、
「逃がすな!」
「横から来るぞ!!」
 宗史と聞き覚えのある声が叫んだ。公園で聞いた、紫苑の声だ。弾かれるように大河が顔を上げ、志季と椿が火玉と水塊を出現させて刀を構えた。左右のガラスと壁が豪快に割られ、悪鬼が雪崩れ込む。それとほぼ同時に天井の悪鬼が下降した。
「しまった!」
「えっ、ちょ……っ」
「馬鹿やめろ!」
「いけません!」
 すっかり油断した。まさかあの四人の同時調伏を逃げ切る悪鬼がいるとは。樹は大河の肩から腕を抜いて駆け出した。咄嗟に背後から援護に入った志季と椿の火玉と水塊が、樹に襲いかかる悪鬼を貫く。しかし捉えきれなかったいくつかの触手が掠った。
 体が重く、足が思うように動かない。
「ひ……ッ」
 下降した悪鬼が、慄いた顔で見上げた良親と譲二をピアノごと食らい尽した。
 そのままするりと滑らかに湾曲し、迷うことなく大窓から飛び出した悪鬼を見て、樹は目を瞠った。まだ捕食対象は残っている、何故。下平の逃げろと言う叫び声が響いた。
「ああクソ邪魔だッ!」
 樹の援護をし、大河と男たちも守りつつ、さらに自分たちへ襲いかかる悪鬼も振り払いながらでは思うように進めない。逃げた悪鬼へ攻撃しようにも火玉や水塊の生成が追い付かず、椿の水龍も挟み撃ちにされてすぐに弾け飛ぶ。
「樹さん待って!!」
 大河の制止する声を背中で聞きながら、樹は霊符を構えた。今の霊力量では上級の術は使えない。
「オン・マヤラギランデイ・ソワカ!」
 襲いかかる悪鬼がすぐ間近で火に焼かれ、水塊に貫かれてゆく。真言に反応した霊符が悪鬼を追って大窓から飛び出した。
帰命(きみょう)(たてまつ)る、邪気砕破(じゃきさいは)邪魂擺脱(じゃこんはいだつ)――」
 突如、遠ざかっていた悪鬼のしんがりから一本の触手が勢いよく伸びた。どれだけ速くてもこの距離。しかも一本だけなら避けられる。
 大窓からあと数メートルほどの位置で、滑るように足を止めた。胸の辺りを狙ってきた触手を避けようと、樹は左肩を後ろに下げた。
顕現覆滅(けんげんふくめつ)、急急にょ……っ」
「樹さ……っ」
「大河ッ!」
「大河様ッ!」
 すぐ近くで大河の声が途切れ、志季と椿の焦った声が届いた。
 樹は勢いのまま振り向いた。胸の前を触手が素通りする。後ろで、樹を庇うように霊刀を振るう大河の背中が傾いだ。触手に足と左腕を掠め切られている。倒れるかと思いきや、足を踏ん張って目の前の悪鬼を叩き切った。
 だが、あの体勢では見えていない。
「大河くん避けて!」
 振り向いた大河の口が「え」と言った。真言を放棄された霊符が、木々の間にひらりと舞い落ちる。
 独鈷杵を使うほどの霊力は残っていない。思わず手を伸ばした樹より先に、大河の側に黒い影が降ってきた。
「わっ!」
 力強く真横に服を引っ張られた大河の腕を掠めて、触手がすり抜けた。
 あ、紫苑。そう認識した直後、触手が釣針のように先端を曲げながら一気に縮んだ。樹をひっかけるとそのまま勢いよく大窓から引きずり出し――放した。
「樹ッ!」
「樹さんッ!」
 空中に放り出されて見えたのは、紫苑に腕を掴まれて引き止められる大河と、その向こう側の結界の中にいる、冬馬の悲痛な顔。
 ――ああ、思い出した。
 体が、重力に従って落下した。
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