第6話

文字数 4,502文字

 下平は一度息を吐いた。
「そこからは、よく覚えていないそうだ。気が付いたら警察署にいて連行されていたらしい」
 犯罪者は、犯行直後は異常なほどの興奮状態にあり、自分でも理解できない行動を取ることは珍しくない。仁美もまた例に漏れなかったのだろう。
「ただ、聴取の時に言ったそうだ。自分は悪くないんだからすぐに出られますよね? って」
 榎本たちから、重苦しい息が漏れた。仁美からしてみれば、二人の裏切りは殺人以上の重罪なのだろう。
 前田が気を取り直すように深い息をついて言った。
「じゃあ、弥生は母親に父親との関係がバレたと知って、居づらくなって家を出たということですか。亡くなっているかもしれないというのも、悲観して?」
「いや」
 下平が首を横に振ると、榎本たちが揃って怪訝な顔をした。仁美だけの証言ならば、前田の推理は妥当だ。だが。
「実は、これには続きがある」
「続き?」
 榎本の反復に、下平は頷いた。
 担当刑事らは、仁美の証言の裏付けを取るために自宅を徹底的に調べ直したらしい。すると、物置きとして使っていた部屋からある証拠が多数発見された。
 一つ目は、電池式の小型カメラとUSBケーブル。手の平サイズのもので、最大十時間の録画、録音が可能。防犯用の隠しカメラとしてネットで売られているらしい。中には二年前のものと思われる映像が残されていた。映像の様子や角度から、弥生の部屋の本棚に仕込まれていたらしく、何が映っていたのかは言わずもがなだ。一緒に暮らしていたのだから、仕込むも回収するも容易だっただろう。
 映像の中の伊佐夫は、抵抗する弥生を組み敷いてこう言ったらしい。
「十一年かけて手に入れたものを、簡単に手放すと思うか?」
 と。
 二つ目は、弥生とおぼしき女子児童の、大量の隠し撮り写真。ロリコンというわけではないらしく、他の女子児童の写真は出てこなかった。
 三つ目は、伊佐夫直筆のノート。伊佐夫の自宅の前は通学路になっており、ノートには弥生を初めて見た時の感想が綴られていた。あんな可愛らしい子供は見たことがない、将来は絶対に美しい女性に成長する、ぜひ目の前で見届けたいと。要するに、ひと目惚れだ。だが、初めは隠し撮りするだけで満足していたのが、日に日に内容は過激になり、終いには「手に入れたい」に変わっていた。有給を取って弥生の周辺を探り、自宅はもちろん、母親と二人暮らしであることを知り、計画を思い付いたらしい。慎重に、かつ頻繁に探っていなかったことが幸いし――弥生からすれば災いだ――疑われることなく仁美との接触に成功した日から、母子が引っ越してくるまでの経過が詳細に書き記されていた。
「それは、つまり……」
 呟いた前田だけではない、全員の唖然とした顔を見渡し、下平は無言で頷いた。水を打ったように静けさに包まれ、エアコンの稼働音がやけに大きく会議室に響く。
 おもむろに、牛島が両手を自分の頭に当てて困惑の表情を浮かべた。
「え、え? 待ってください、計画って……」
「だから」
 新井が甘いマスクを歪め、苛立ったように吐き出した。
「二人は同意の上での関係じゃねぇし、母親は弥生を手に入れるための隠れ蓑だったんだよ」
 言わせんな、と苦言を付け加えて正確に表現した新井を見やり、牛島はそんなと呟いて目をしばたいた。信じられない、信じたくないと思うのは分かるが、証拠は揃っている。現実なのだ。
 無理にでも仁美に全部話してしまえばよかったのに、と思わなくもない。だが、仁美の心理状態から見て、話しても信じたかどうか。何せ弥生は証拠を持っていなかったのだ。まさか部屋にカメラが仕込まれているなどとは思わなかっただろう。
 自分を信じてくれない母親を見て、弥生はどれだけ傷付いただろう。
 大滝が顎に手を添えて言った。
「それにしても異常ですね。いくら好みだったとはいえ、弥生は当時まだ八つです。十一年も待てるものなんでしょうか」
「弥生の成長を見届けるのも、計画のうちだったんだろ」
 下平の答えに、大滝は苦虫を噛み潰したような顔をした。
 良い父親のふりをして成長を見届け、弥生を手に入れる時期を窺っていた。父親として慕っていた弥生を、伊佐夫はこれ以上ないほど残酷な手段で裏切ったのだ。十一年もの歳月をかける辛抱強さ。さらに弥生が失踪したあとの伊佐夫の様子と行動。異常で狂気じみた、執着と執念だ。
 自分の味方であるはずの母親は信じてくれず、親子として絆を築き上げてきたはずの父親に裏切られた時の弥生の気持ちは、察するに余りある。
 恨んで、憎んで当然なのかもしれない。
 ふとそんな考えがよぎり、下平は目を伏せた。正直な気持ちと、警察官としての役目は、別物だ。
 突然、椅子を弾くように荒っぽい音を立てて榎本が立ち上がった。握った両手を机につき、白くなるほど唇を噛んで俯いている。下平が呼びかけようとした間際、榎本が身を翻した。
「待て!」
 咄嗟に声を上げ、立ち上がりながら榎本の腕を掴んだのは大滝だ。榎本が勢いよく振り返った。険しい顔。目には涙が滲んでいる。
「どこに行く気だ」
「どこって、決まってるじゃないですか。被疑者のところです」
 大滝を睨み付けるように見上げ、榎本は怒りを押し殺した低い声で答えた。
「行ってどうする」
「どうするって、おかしいでしょう。娘を信じるどころか、話しも聞かずに決めつけて追い込んだんですよ? それを……っ、自分は悪くないなんて……っ!」
 声を荒げて吐き出した榎本に、大滝が言った。
「すでに担当者が被疑者に伝えてる。お前の出る幕じゃない」
 榎本がぐっと声を詰まらせた。大滝の言うことは正論だ。榎本の気持ちも分かるが、事件の概要を聞いて腹が立ったからと、被疑者を責め立てに行ってはキリがない。
 仁美は、どう思っただろう。
 再婚は、あの出会いは初めから計画されていたもので、幸せな日々は全て虚構だった。二人の関係も弥生に一切の落ち度はなく伊佐夫が無理強いしたもので、信じるべきは夫ではなく娘の方だった。
 愛しいはずの娘を酷く傷付け追い込んだと知って、彼女はどう思っただろう。
 あの時、伊佐夫ではなく弥生を信じていたら。あの時、弥生の話しをきちんと聞いていたら、こんなことにはならなかった。
 そんな風に思って後悔することを、願うしかない。
「榎本」
 下平が口を開いた。一斉に視線が注がれる。
「お前の気持ちは分かる。俺たちだって全員同じ気持ちだ。胸くそが悪くて仕方ねぇよ」
 前田をはじめ、全員が神妙に頷く。
「だがな、だからこそ冷静にならなくてどうする。怒りに身を任せれば状況を見誤る。俺たちは刑事だ。刑事として、今やるべきことを考えろ」
 真っ直ぐ見据えて諭す下平を見返し、榎本は悔しげに唇を噛んだ。しぶしぶと席に戻り、腰を下ろす。肩を怒らせたまま、膝に置いた両手を握り締めて俯いた。
 下平は改めて全員を見渡し、続けた。
「それと、伊佐夫の携帯からは何も出ていない。だがパソコンに何重にもロックが掛けられてるらしくてな、今科捜研が解析中らしい」
 弥生と伊佐夫の関係がいつからか分からないが、ロックが解除されればおそらく判明する。同時に、おぞましいものを見ることになるだろう。
「あと弥生の捜索だが、携帯は解約されて、和歌山の祖父母――仁美の両親のところへは行っていないらしい。他に親戚がいるからそっちも当たるそうだ。近所の住民や友人知人も、ちょうど失踪したくらいから姿を見てない、連絡が取れないと証言してる」
「完全に行方不明か、あるいは……」
 前田が思案顔で腕を組んだ。
「とにかく、弥生が例の女と同一人物だって判明しない限りどうしようもねぇ。榎本が女を見た現場周辺と、念のために深町家周辺の聞き込みを行ってくれ。できるだけ広い範囲で頼む。一応弥生の顔写真を送る」
「了解」
 榎本が女を見たのは深町事件の前日。担当刑事らが弥生の行方を聞き込んだ時に証言が出ていてもおかしくはないが、あくまでも彼らの対象は弥生だ。こちらは正体不明の女。事件前日の夜に不審な人物を見なかったかと聞けば、出てくる証言が違ってくる。女が弥生なのかそうでないのか、判明しない限り前にも後にも進めない。
 言いながらグループメッセージを開く。ちなみにこのグループは下平が作ったのではなく大滝が作ったものだ。下平は言われるがまま、はいはいと参加した。写真を送りながら何気なく口にする。
「そういやこれ、同時通話できるんだってな」
 送信が終わり顔を上げると、同時にメッセージの着信音が鳴り響き、全員がそれぞれ携帯を握ったままきょとんとした顔で下平を見ていた。ついさっきまで険しい顔をしていた榎本も一緒だ。知らなかったのがそんなに珍しいか。
 下平が少々不機嫌な顔をすると、牛島が言った。
「俺、前々から不思議だったんですよね。グループあるのに、署に戻る連絡とかなんで普通の電話なんだろうって。知らなかったんですね」
 なるほど、と妙に納得した牛島に他の連中が大きく頷いた。そういうことは早く言え。
「俺は普通の電話の方が使いやすいのかなと思ってたぞ」
 便乗した前田に、俺も俺もと新井と大滝が同意した。揃いも揃って知っていたのかと思うと、さすがに敗北感を覚える。
「誰かに教わったんですか?」
 牛島に余計な質問をされ、下平は曖昧に笑った。
「ん、ああ、娘にな。話の流れで」
 ふうん、と揃って相槌を打った。ここはさっさと話題を変えるに限る。
「それでだ。菊池の方なんだが、誰かいい案はあるか?」
 雅臣の捜索はもうすっかり手詰まりだ。声を張ると、全員が携帯をしまいながら悩ましい唸り声を漏らした。そんな中、榎本が厳しい声色で言った。
「成田樹はどうなんですか」
 全員が一斉に視線を投げる。まだ疑っているらしい。思わず嘆息が漏れた。
「榎本、何度も言うが、あいつは事件と関係ない。菊池や尊や歩夢、一緒にカツアゲしていた連中の周りからあいつの名前は一切出てこなかっただろ。それに、自分で警察に通報して何のメリットがある。防犯カメラ映像を見ても何も怪しい動きはなかった。お前、何度も確認しただろう。そもそもだ。あいつを疑う根拠をきちんと説明しろ」
「ですから、以前に……っ」
「榎本」
 強い語気で名前を呼んだのは新井だ。鋭い視線に、榎本が顔を強張らせる。
「お前のそれは、ただの偏見だ」
 忌憚なく言い放たれた言葉に榎本が息を詰まらせ、隣の牛島が「ちょっと新井さん」と諌める。
「前科や補導歴があろうとなかろうと、事件関係者は疑う。けど、捜査の結果シロだと分かれば被疑者から外す。それでも補導歴があるからというなら、それは偏見以外の何ものでもない。そんな目で人を見ていたら、いつか必ず真実を見落とすぞ」
 淡々と語った新井を、榎本は唇を噛んで見据えた。二人の間に剣呑とした空気が流れる。
 下平が溜め息をついた。
「会議は終わりだ。聞き込みに行ってくれ」
 半ば無理やり終了を告げると、いの一番に新井が腰を上げた。追いかけるように牛島が立ち上がる。前田と大滝はやれやれといった顔で腰を上げ、会議室を出て行った。
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