第7話

文字数 5,068文字

 アパートの正面は、右側には狭いながらも屋根付きの駐輪場が完備され、左手は上部に防犯カメラとライトが取り付けられた、ガラス扉の入口だ。ここにオートロックを設置してくれればいいのにと思わないこともないが、とりあえず防犯カメラがあるだけでもいい方だ。
 一段高くなっているだけの申し訳程度のエントランスを上がり、ガラス扉を開く。入ってすぐ右側に集合郵便受けが設けられ、左側は階段。廊下が奥の方へ続き、左手に二つの扉が見える。隠れるスペースはない。
 らせん状の階段を上り、二階へと上がる。手前の部屋から、半同棲の大学生カップル、リン、若い新婚夫婦だ。外廊下の壁は胸より少し上の辺りまでで、月極駐車場の向こう側の戸建てが見える。ふいと視線をやると、椿が微動だにせず、真っ直ぐこちらを見据えている。何もないと分かっているはずなのに、警戒を怠らない。
 冬馬はさらに顔を引き締めた。
 智也がリンの部屋の前で足を止め、冬馬は凶悪犯の部屋に踏み込む刑事のように、壁に背中をつけた。
「開けます」
 智也が宣言して、鍵を差し込んで回す。かちりと音がしてロックが外れ、鍵を引き抜くと、智也は一つ深呼吸をしてドアハンドルに手をかけた。ゆっくりと開く扉の隙間から見えるのは、暗闇だ。
 キッ、と一つ、蝶番が甲高い音を立てた。
 ぬるい空気と共に、ふわりとせっけんの香りが漏れ出てくる。リンが愛用している消臭剤の臭いだ。半分ほど開いたところで、壁際からこっそり中を覗き込む。
 間取りは1DK。小さな靴箱を備えた玄関を入ると、ほんの短い廊下の左右に水回りが揃っている。右手には洗面室と浴室、左手はトイレ。そして扉の向こうはダイニングキッチン。さらに引き戸があり、一番奥が洋室だ。
 外廊下の照明が差し込んで、玄関周りが多少明るくなった。開け放してある二枚の扉の正面には噴き出し窓があり、カーテンが開けられたままになっている。平屋の屋根が見えるが、月の光は届いていて薄暗いけれど真っ暗ではない。
 見える範囲に人影はなく、気配も感じられない。今のところは。
「……行くぞ」
「はい」
 冬馬が先行し、玄関脇にあるスイッチを押す。靴を脱いで冬馬はトイレを指差し、智也が無言で頷いた。
 智也はトイレの電気を点け、冬馬は洗面室の扉をゆっくりと押し開けた。先日来た時に、スイッチの場所は確認済みだ。右側の壁。扉を全開にしてから手探りでスイッチの場所を探し当て、明かりを点ける。正面に洗濯機、右に洗面台、左が浴室だ。中へ入り、扉が開けられた浴室を覗き込む。浴槽の中も確認して、すぐに踵を返した。
 隠れる場所は限られている。トイレ、洗面室、洋室のクローゼット、ベランダ。ベッド下もありがちだが、引き出しが付いていて隠れられない。あとは、死角になる扉の壁際。
 電気を消して浴室を出ると、智也がダイニングキッチンの明かりを点けて覗き込んでいた。左にキッチンと冷蔵庫が並び、右には小ぢんまりとしたレンジボードが置かれている。ここに隠れるのなら扉の壁際しかない。大丈夫のようだ。
 一番警戒すべきは洋室だ。クローゼットにベランダと、隠れやすい場所が揃っている。今こうしている間に襲ってきてもおかしくないが、扉や窓を開けてこちらが怯んだ隙を狙われないとも限らない。
 電気は点けたまま、洋室へ足を向ける。スイッチは、左の壁。冬馬は同じように手探りで位置を探り、明かりを点けた。ちょうど死角になる場所だが、いなかったようだ。
 シングルベッドに小さめの二人掛けソファ、テーブル、テレビ、テレビボード、四段シェルフ。ベッドカバーやカーテン、クッションカバー、ラグなどはピンクで統一されている。だが、部分的にピンクの模様が入っているだけで、目が痛くなるようなピンクまみれというわけではない。シェルフには、ファッション雑誌やノートパソコン、メイクボックスが並び、いくつかの収納ボックスがきちんと納められている。
 部屋が狭く収納も少ないと、あれこれと物を増やせないだろう。好きだと思ったものを厳選し、大切にしていることがよく分かる。この部屋は、リンの「好き」で溢れている。
 だからこそ犯罪目的の男なんかに入られたくないし、大立ち回りなどしたくない。
 冬馬は智也に向かってベランダを指差した。智也は小さく頷き、ソファの前を通ってベランダへ足を向けた。そして冬馬は、右手にあるクローゼットの前で足を止めた。左右に開く折れ戸だ。完全に中が見えないため、誰かいても分からない。
 一つ深呼吸をして取っ手を両手で掴み、一気に引き開ける。折れ戸がレールを滑る音が響いた。
 上の棚には、圧縮された冬用の布団や毛布、靴やブーツ、帽子の箱が収められている。下は太いポールに吊り下げられた服と、引き出し式の収納ケースがずらりと並び、鞄や帽子がいくつか置かれている。
 こんな時のお約束は、服の裏。冬馬は吊り下げられた服の間に両手を差し込み、一気に両側に開いた。
 ――誰もいない。
 小さく息をついて、きちんと服を元の位置に戻して扉を閉める。
「冬馬さん」
 智也もベランダを確認し終わったようで、ちょうどサンダルを脱いで室内へ戻ってきた。
「どうだ?」
「大丈夫でした。隣との間にもいません。ただ」
 智也が苦笑いを浮かべ、ベランダを振り向いた。すると、三十センチほどの長細いものが二つ、どこからともなくするりと部屋に飛び込んできた。
「え……」
 冬馬は目を丸くして、頭上を旋回するそれを目で追いかけた。龍だ。澄んだ青い色をした、二匹の龍。
 二匹は下降すると、冬馬と智也の周りをそれぞれ漂うようにくるりと一周して止まった。目の前でふわふわと浮くように止まった龍を、冬馬は凝視する。よくよく見ると、精巧な龍の形をした水の塊だ。
「凄いな……」
 これも椿の力なのだろうか。
「可愛いっすよね。リン好きそう」
 すげぇ、と言いながら少し頬を緩めた智也に、冬馬も口に笑みを浮かべてそうだなと頷いた。ベランダ側は人目に付きにくい。監視として付けてくれていたのだろう。
 真っ直ぐに向けられた瞳の色は、体より少し濃くなっている。けれど、吸い込まれそうなほど澄んで美しい。無垢な色だ。
 触れていいか分からないので、冬馬は撫でる代わりに水龍の目を見つめたまま、顎の下に手を添えた。
「リンとナナを、頼んだ」
 静かな声で告げられた言葉に答えるように、水龍は尾を大きく揺らした。そして二匹連れ立って、ベランダからするりと外へ飛び出した。
 つくづく驚かされる。彼女は、本当に神なのだ。
 神様に贈り物なんておこがましかったかな、と頭の隅で考えながら、冬馬はもう一度部屋をぐるりと見渡した。
「入った時はいなかったよな。どこに隠れてたんだ?」
「ベランダの壁の外に張り付いてました」
 言いながら、智也は窓を閉めて鍵を掛け、カーテンを閉めた。
「……そうか」
 ヤモリみたいだな。いつからいてくれたのか分からないが、リンやナナ、他の住人たちの目に入らないようにした結果、だと思いたい。水の塊である龍に思考能力があるのかどうか微妙なところだが、さっきは返事をしたように見えた。どういう仕組みで動いているのだろう。
 それはともかく、部屋の安全は確認できた。あとは、外だ。
 洋室の明かりは点けたまま、ダイニングキッチンと玄関だけは消して部屋を出る。と、ぼそぼそと人の声が聞こえ、椿が月極駐車場の方を指差した。冬馬が外廊下から下を見下ろし、智也が鍵をかける。確かに月極駐車場の前で、男女が向かい合って何か話をしていた。
 住宅街での会話は響くため、声量を抑えているようで会話の内容までは聞こえないが、腕を組んだ女性の憮然とした態度からすると喧嘩をしているようだ。
「痴話喧嘩、ですかね?」
 念のためにドアハンドルを引っ張り、鍵がかかっていることを確認し終えた智也が隣からひょいと覗き込んだ。
 ちらりと椿をもう一度見やると、難しい顔つきでカップルを見下ろしている。つられるように冬馬の顔も難しくなった。悪鬼は、普通は見えない。下平はそう言った。しかし、神である椿の目には見えていて、だからこそあの表情だとしたら、あのカップルは警戒対象だ。
「彼女がわざわざ教えてくれたんだ。警戒しろってことだろ。油断するなよ」
「はい」
 注意を促すと智也は顔を引き締め、冬馬に続いた。
 一階に下りて外へ出る。ガラス扉を開けた時、カップルがちらりとこちらに視線を向けた。二十代前半くらいだろうか、女の方は暗めの茶髪でストレート、ショートパンツにオフショルダーのカットソー、サンダル。男はワイドパンツにTシャツにサンダル、手に携帯を持っている。一見して犯罪に加担するようには見えない、どこにでもいそうな若者だ。二人はバツが悪そうな顔をして、しかしまた言い合いを再開する。
「あんたずっと他の女見てたじゃない」
「お前だって他の男見てただろうが」
「イケメンは見るわよ。あんただって美人がいれば見るでしょ」
「お互い様じゃねぇかっ。なんで俺だけ……っ」
「どこが。あんたが見てたのは女の胸でしょ。しかもでかい胸ばっかり。見る場所が違う」
「どういう理屈だよそれっ」
 同感だ。顔はいいが胸は駄目なのか。女は自分の胸にコンプレックスがあるのかもしれない。
 そんなことはどうでもいい。冬馬と智也は後部座席のドアの前で顔を見合わせた。
「どうします……?」
 智也がカップルにちらりと視線を投げ、小声で尋ねた。
「そうだな……」
 冬馬はカップルを横目で窺いながら唇に手をあてがい、逡巡した。
 遠くから車の走行音が聞こえ、智也が顔を向けた。一台の軽自動車が速度を落として近付いてくる。そしてゆっくりと、ぶつからないように通り過ぎた。その後ろから初老の男性が乗った自転車がふらふらと続き、仲良くしろよー、とカップルに茶々を入れて通り過ぎて行った。少々酒が入っているようだ。
 正直、住宅街という場所もそうだが、こうして人がいるにも関わらず喧嘩を再開したことに、違和感を覚える。周りが見えないほど興奮しているのならともかく、声量を落としてることといい、そこまででもないようだし、普通なら気まずく思うだろう。それに椿のあの表情。こんな所で喧嘩をしていると警察を呼ばれますよ、などと適当に言って追い払うか。
 と、視線に気が付いたのか、カップルが振り向いた。何か文句でもあるのか、とでも言いたそうだ。仕方ない声をかけるか。そう思って冬馬が足を一歩踏み出した時、男が牽制するように目を鋭くし、女の手を掴んで背を向けた。
「ちょっと何よっ」
「いいから来い」
 何なのよやめてよ、と女に文句を言われつつ、男は強引に引っ張ってその場をあとにする。
「気のせいだったんですかね?」
 智也も少し困惑気味だ。できればそう願いたいが、彼らが龍之介の仲間だとしたら、確実に他の仲間がいる。連れ去るなら車だろうから、最低でも一人か二人。連絡くらいするだろう。だとしたら、さっさとリンとナナを部屋に入れた方がいい。
「智也、今のうちに。急げ」
「あ、はいっ」
 遠ざかっていくカップルを注視したまま鍵を開けると、智也は後部座席のドアを開けた。
 冬馬は椿をちらりと見上げた。彼女もまた、カップルを警戒している。あの紫暗色の目には、何が映っているのだろう。と、椿の背後から人影が現れて隣に並んだ。志季か。いいタイミングだ。二人は何か言葉を交わし、椿はカップルへ、志季がこちらへ目を落とした。
 圭介が車から降り、智也からドアを受け取った。
 冬馬が助手席のドアの前、圭介が後部座席の開口部の前、智也が後輪の辺りに立っている。後部座席の開口部を三人で囲む形だ。
 立ち去るカップルの速度が落ち、男が携帯を耳に当てた。
 リンが降りて、智也が少し下がる。そしてナナが降り、リンの隣に並んだ。圭介がドアを閉め、バタンと音が周囲に響いた。
「リン、ナナ。急げ」
 智也が促すと、ナナがリンの背中に手を添えて、一緒に足を踏み出した。先に二人を行かせ、智也と圭介が後ろに張り付くようにして続く――と、不意にカップルが振り向いた。
「早く入れッ!」
 冬馬が弾かれたように叫び、智也と圭介の背中を押しやった。同時に車の走行音がものすごいスピードで近付いてきて、さらにカップルが全速力で駆け戻ってきた。
「マジか……ッ」
「どこに……っ」
 頭上から志季と椿の驚きの声が降ってきた。思わず見上げると、二人の姿がふっと消えた。
「な……っ」
 もしや、悪鬼に食われたのか。
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