第18話

文字数 6,251文字

 大河たちが大広間を出てからしばらく、冬馬は静かに立ち尽くしていた。
 あの頃の二人を知っているだけに、先程の会話はいたたまれなかった。それに冬馬のあの言葉。あれが限界だったのだろう。たくさんの言葉が、足りていなかった。
 不意に、智也と圭介が踵を返した。
「おい」
 弾かれたように冬馬が鋭く声を上げ、二人は足を止めた。しかし冬馬は振り向くことなく告げる。
「やめろと言ったはずだ」
 厳しい声色。いつもなら、智也も圭介も従う。けれど、
「すみません、冬馬さん。聞けません」
 智也がはっきりとそう告げて、二人は大広間を飛び出した。遠ざかる足音に、冬馬が小さく舌打ちをかました。
 良親は、まるで冬馬が樹を見捨てたような言い草をしていたが、あれは嘘だ。聞いた時はさすがに驚いたが、二人を知る者からしてみれば、冬馬が樹を見捨てるわけがないとすぐに分かる。実際あの時、智也が口を挟もうとした。それは、の後に続く言葉は容易に想像がつく。
 瀕死の状態で置き去りにされたのなら、樹は記憶がないかもしれない。けれどおそらく、気付いている。智也と冬馬のやり取りもそうだが、何よりも、樹の名を叫んだあの声。あれが嘘なら名演技だ。クラブの店長より俳優になることを勧める。
 ぐらりと冬馬の体が傾いだ。
「っと、おい。大丈夫か」
 貧血だろう。この出血量でよくここまで耐えた。
 思わず伸ばした腕を両手で掴んだまま、冬馬は力なく膝を折った。下平はもう片方の腕を冬馬の腰に回して体を支え、ゆっくりと座らせる。これだけ薄汚れているのだ、いっそ横にしてもいいのだが、何故か冬馬が腕を放してくれない。片膝を立てたまま、じっとしがみつくように顔をうずめている。
 下平は、腰に回していた手を頭に乗せた。
「分かってるだろ、あいつなら」
 大丈夫。そう付け加えると、腕を握っている手に力が籠った。
 どちらも不器用だ。あんな風にしか、伝えられないなんて。
 下平は大広間を見渡した。
 つい先ほど、ここで壮絶な光景が繰り広げられていたとは思えないくらい静かだ。だが割れた窓や転がる凶器、不自然に空いた床の穴が、現実だと物語っている。
 彼らはこれから先、あんなものを相手に戦うのか。それにあの平良という男。奴の目は、血を好む人間の目だった。早く捕まえないと、もっと犠牲者が出る。
 と、二人分の足音が戻ってきた。下平と冬馬の様子を見て察したのだろう。慌てた様子で駆け寄り、正面にしゃがみ込んだ。
「大丈夫ですか!?」
「貧血だ。少し待ってろ」
 下平の落ち着いた声に、智也と圭介は安堵の息を吐いた。
「お前ら……」
 冬馬が腕を離し、ゆっくりと体を起こした。まだ治まっていないのか、下平が腕を引くと俯いたまま顔を覆った。
「これで分かっただろ。お前たちに、うちは向いて」
「嫌です」
 智也と圭介が、声を揃えて冬馬の言葉を食い気味に遮った。同じ体勢のまま数秒の静寂が流れ、不意に冬馬が拳を床に叩きつけた。
「いい加減にしろ! 何度言わせる気だッ!」
「冬馬さんの方こそ何度言わせる気ですか!」
 圭介が叫んだ。
「俺たち、辞める気はないってずっと言ってますよね。自分で言うのもなんですけど、クラブのスタッフとしての仕事はちゃんとやってます。(のぼる)さんも他の皆も認めてくれてます」
「そりゃ、樹みたいにはなれないし、冬馬さんが求めるレベルにはまだまだですけど、でも本来の仕事はきちんとこなしてます。だから辞めません」
 智也と圭介が冬馬に反論するところを、初めて見た。下平が驚いて二人を見やると、冬馬がぽつりと問うた。
「何で、そこまでうちにこだわる」
 二人は顔を見合わせ、冬馬に戻した。圭介が、落ち着いた声で言った。
「冬馬さん、俺たちが面接で言ったこと覚えてます? パチンコの」
 一拍置いて、ぶっきらぼうにああと冬馬が答えた。何のことだと下平が二人に視線で問うと、智也が苦笑いを浮かべた。
「俺たち、前はパチンコ屋で働いてたんです。そこの店長、パワハラがすごくて。それで」
 なるほど、と下平は口の中で呟いた。圭介が続けた。
「今でもあいつのことすっげぇ嫌いです。もし会ったらぼこぼこにしてやりたいくらい。でも、あいつから一つだけ、学んだことがあるんです」
 冬馬がゆっくりと顔を上げた。意外そうに目を丸くしている。智也と圭介は、そんな冬馬を見て言った。
「相手が、俺たちのために言ってくれてるのかどうか、分かるようになりました」
「冬馬さんは、いつも俺たちスタッフと、店と客のために色々考えて言ってくれるじゃないですか。だから思ったんです。ここを辞めたら、二度とこんな人のところで働けないかもしれないって」
 グランツのノブと、リンとナナの言葉を思い出した。店の経営には真っ向勝負、汚い手は使わない、嫌な客には怖いが自分たちには優しい、草薙龍之介の件もそうだ。客に被害が出てからでは遅いからと、早々に出入り禁止にした。これ以外にも、色々と策を講じているのだろう。
 冬馬は視線を落とし、小さく溜め息をついた。
「俺程度の人間、いくらでもいる。それに俺は、お前たちに酷く当たってきた。最低だろ」
 殊勝や弱気とは無縁だと思っていた。意外な自己評価だ。
「それは俺たちが至らなかった時だけじゃないですか。冬馬さん、俺たちにとって信用できるのは、冬馬さんだけなんです」
「俺たち、冬馬さん以外の人のところで働く気はありません。それに」
 智也は一旦言葉を切り、少し悔しそうな顔で言った。
「さっき樹に言われたんです」
 一拍置いて、冬馬が視線を上げた。
「側にいてやれって」
 冬馬が、目を大きく見開いた。
 以前から不思議だった。いつ頃からか、他のスタッフと比べて、冬馬の智也と圭介に対する態度はかなり厳しくなっていた。先程の会話から察するに、冬馬は二人を辞めさせたがっていたのだろう。先の乱闘を見る限り、二人は喧嘩慣れしていない。クラブに揉め事は付き物だ。スタッフとして面倒な客に対する対応くらいは身に付いているだろうが、喧嘩とはまた別物だ。それにパワハラを受けていたのなら恐怖心が植え付けられているかもしれない。下手をすれば身に危険が及ぶ。
 ならば店長権限で解雇してしまえばいい。それをせず、変わらず側に置いていた。つまり二人を毛嫌いしていたわけではない。むしろ、他のスタッフよりも思い入れが強いのではないのか。
 矛盾している。彼らの身を危惧しながらも解雇せず、けれど厳しく当たる。この矛盾に冬馬は気付いて、悩んだだろうか。そして樹は、そのことに気付いていたのだろうか。
 冬馬は俯き、膝に額を押し付けた。
「あの、馬鹿……っ」
 その小さな悪態が、妙に耳に響いた。
「ていうか、あいつに言われなくてもいるつもりだし」
「だよな。冬馬さん、覚悟してください」
 仕事ももっと頑張ります、と笑顔で付け加えた智也と圭介に、冬馬はしばらく身じろぎ一つしなかった。やがて、額をくっつけたままゆっくりと首を回し、下平を見上げた。
「下平さん、ここにストーカーがいます」
「あ?」
「はあ!?」
 突飛な発言に、三人の素っ頓狂な声が重なった。
「ちょっ、ストーカーって酷くないですか!?」
「そうですよあんまりです!」
 抗議する二人に下平は顎に手を添えてうーんと唸った。
「お前はこいつらにやめろって何度も言ったんだろ?」
「ええ」
「それでもやめずに回りをうろつくってのは、確かにストーカーだな」
「いやいやいや、やめるの意味が違いませんか!?」
「回りをうろつくって言い方やめてください!」
 心外と言わんばかりに反論する智也と圭介に、冬馬が肩を震わせた。そして、
「好きにしろ」
 そう、笑いを堪えた声で一言告げた。二人は目をしばたき、はにかんで声を揃えた。
「はい」
 小刻みに背中を震わせる冬馬に、笑い過ぎですよ、そうですよ、と智也と圭介がふてくされた顔で突っ込む。三人の様子を眺めながら、下平は脱力した息を吐いた。
 今回の一連の事件は、鬼代事件に端を発している。樹ら陰陽師、そして自分たち刑事にとって完全に終息したと言えるのは、鬼代事件を解決してからだ。
 けれど、冬馬らにとってはこれで終わりだ。多数の犠牲者を伴って。
「さてと、冬馬、立てるか?」
 下平は気を取り直し、腰を上げた。
「ええ、何とか」
 智也と圭介が手を貸し、ゆっくりと腰を上げる。と、
「おーい、おっさんたち」
 軽い口調の声が大広間に響いた。振り向くと、鬼を一人連れ立った志季が、ひらひらと手を振りながら戻ってきた。神と鬼とは、また妙な取り合わせだ。智也と圭介がぎょっと目を剥いた。
「何だ、どうした?」
「いやぁ、それがさぁ、あんたらを先に下ろしてやれって言われたんだよ。ここ七階だろ、そいつ動けねぇんじゃねぇかって、椿も心配するからさ」
 ぺらぺらと喋りながら歩み寄り、立ち止まった。
「あいつらは?」
「あのザマだからな、喋りながらちんたら下りてるぜ」
「そうか」
 確かに智也と圭介がいるとはいえ、七階から下ろすにはかなり時間がかかりそうだ。
「じゃあお言葉に甘えるか」
「はいよ」
 おどけた口調で了承する志季から、背後に控える鬼に視線を投げる。
「えーと……紫苑、だったか?」
 確か怜司がそう叫んでいたはず。いや、それ以前に鬼が目の前にいるという状況に驚かない自分に驚きだ。深紅の瞳と頭に生えた二本の角がなければ、人と変わらない容姿。
「ああ」
「馬鹿共を助けてくれて、ありがとな。下平だ」
「聞いている」
「……そうか」
 信用されていないのか、えらく無愛想だ。と、はたと気付いた。冬馬たちだ。事情を知っている自分は何とも思わないが、冬馬たちからすれば神である志季ですら妖怪に見えるだろう。
 冬馬たちを振り向くと、案の定、智也と圭介は怯えたような怪訝そうな表情を浮かべ、志季と紫苑を交互に見比べている。一方冬馬は、平然とした顔で観察するようにじっと二人を見つめている。
「あー……お前ら、あのな」
 さて、どうするべきか。余計な説明をして、これ以上彼らを巻き込みたくないのだが。下平が考えあぐねると、冬馬が口を開いた。
「説明はいいです。面倒な事件のようですし、何となく分かりました」
 そういえば、冬馬たちは樹の力のことを知っていたかもしれないのだ。それに椿のこともある。式神や急急如律令という言葉も、京都の人間で、映画やドラマを見ていれば誰に繋がるか分かるだろう。
 歴史上、あるいは創作でしか存在しないと思っていた陰陽師や神たちが実在すると知ってなお、この落ち着きようはさすがだ。懐が広いというか頭が柔らかいというか、それとも樹が関わっているからか。
「そうか。まあ、知らない方がいいこともあるしな」
 ええ、と冬馬は伏せ目がちに頷いた。
「話が終わったんなら行くぞ。紫苑、おっさんとこの兄ちゃんよろしくな」
「……ああ」
 少々不本意そうな顔をして紫苑が頷いた。やはり仲良くというわけにはいかないらしい。志季は智也と圭介から冬馬を引っぺがし、二人をよっこらせと弾みをつけて肩に担いだ。両肩に男二人を俵担ぎだ。
「うわっ!?」
「え、ちょ……っ」
「落とされたくなかったら暴れんなよ」
 暴れたら落とす気か。狼狽して足をばたつかせる二人に忠告し、志季は軽く床を蹴ってふわりと跳んだ。
「すげぇ怪力だな」
「こちらも行くぞ。少し跳ぶ、顔を庇っていろ」
「うお」
 言うや否や、紫苑も同じように両肩に下平と冬馬を俵担ぎにして床を蹴った。一足先に志季が飛び降りたらしい、ぎゃ――――っ! という智也と圭介の絶叫が消えていくのが聞こえた。上からの光景はここへ飛び込んだ時に見たが、あの時とはすっかり様変わりしている。誰もいなくなった大広間はがらんとし、物悲しく映る。
 すぐ横では冬馬が顔を上げ、どこか浮かない表情で大広間を見つめていた。
 紫苑は大窓の縁で一度着地し、深く膝を曲げて躊躇なく跳んだ。
 浮遊感を覚えたと思ったら大広間が視界から遠ざかり、朽ちたホテルの一部が確認できる。かつては賑わっていただろう施設が、今や心霊スポットだ。形あるものはいつか壊れる。しかし、脈々と受け継がれていくものもある。その差は、一体何なのか。
 すぐに枝葉の中に飛び込み、またすぐに砂を擦る音と共に浮遊感が消えた。着地した衝撃がなく、周りの風景を見て分かった。尻を支えられたまま上半身が起こされ、風景が正常に戻る。この年で尻を男に支えられるとは思わなかった。しかも片手だ。着地の衝撃がないことといい、どんな筋肉と身体能力をしているのか。
「お前ら、あの程度の高さでぎゃあぎゃあ喚くな。男だろ、情けねぇな」
 ちょうど車を停めていた辺りに着地したらしく、地面にへたりこんだ智也と圭介に、志季が小言を漏らしていた。人間からしてみればあの程度ですまない高さだが、神に苦言を呈されては返す言葉もないだろう。
「お、おっさんとそっちの兄ちゃんは平気そうだな」
「さっきからおっさんおっさん連呼すんな。高いところは平気なんだよ」
「俺は、バンジーみたいで楽しかったけど」
 下平と冬馬が答えると、志季はにっと笑った。
「いいねぇ、やっぱ男はそうじゃねぇとな。そんじゃな、気を付けて帰れよ」
「ああ、ありがとな。あいつらにも伝えてくれ」
「了解」
 踵を返し、ひらひらと後ろ手を振ると、志季と紫苑は軽く飛び跳ねてあっという間に姿を消した。
 二人が消えたあと、揺れる枝葉を見上げながら、冬馬がぽつりと言った。
「また、えらく人間臭いですね」
 これだけの経験をして感想がそれなのか。下平は苦笑いを漏らした。
 おもむろに、冬馬がぐるりと周囲を見渡した。エントランスの屋根には大量の土が積もり、そこここに塊が転がっている。だからわざわざここまで跳んだのかと納得した。足場が悪い。あれだけ連なっていた車は、一台を除いてすべて無くなっている。鍵を付けっ放しにしていたのか、たまたま持っていた奴が助かったのか。
 冬馬は、残った車で視線を止めた。エントランスに近かったため、ボンネットやルーフには土が被り、大きな土の塊が一つ乗っている。車体が全体的に土埃で薄汚れているように見える。おそらく、良親のものだろう。このまま放置すれば、乗り手を失った車は次第に雑草に埋もれ、錆びていく。だからと言って移動することもできない。
 無理矢理犯罪に巻き込まれ、暴行されたにもかかわらず、冬馬の目にはどこか苦しげな色が滲んでいる。二人がどんな関係だったのか知らないが、良親はもう決して助からないし、二度と生まれ変わることもない。
 犯した罪の代償が、これだ。
「行くぞ」
 下平は冬馬の肩に手を乗せて促す。下平と冬馬の様子を、少し痛々しげに見つめていた智也と圭介も腰を上げた。
 後部座席に智也と圭介が乗り込んだ。冬馬が助手席の扉を開け、もう一度廃ホテルを振り向いた。後ろ髪を引かれるのは、まだ中にいる樹か、それとも――。
「冬馬」
 運転席から下平に名前を呼ばれ、冬馬は振り切るように廃ホテルから視線を逸らして乗り込んだ。
 閉めた扉の音が、森の中に木霊した。
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