第18話

文字数 4,047文字

 男は腰を上げ、デスクワゴンの引き出しから一つの金属トレーを出した。
「お前さ、あの時まだ学生だったんじゃねぇのか?」
「……そうだけど」
 ははっと男は短く笑い、トレーをライトの横に置いた。カタンと、乾いた音が無機質に響く。
「社会経験も実績もねぇ学生と俺。どう考えても俺の方が即戦力になるのに、何を基準に選考したのかさっぱり分かんねぇ」
 人柄でしょ。速攻で突っ込み、近藤は男の一挙手一投足を見守る。デスクワゴンの背面を押し、ゆっくりとこちらへ近付いてくる。ライトに照らされて浮かび上がる笑みは、自己陶酔しているようにも、猟奇的にも見える。
 縮まる距離に比例して、徐々に近藤の視線が上がり、男の視線は下がってゆく。空気が張り詰め、極度の緊張が二人の間に漂う。
 すぐ側で、男は足を止めた。見下すような眼差しで近藤を見下ろし、トレーに手を伸ばす。
「お前が俺の人生を狂わせたんだよ。責任、取ってもらうぞ」
 先程まで身の上話を流暢に語っていたとは思えないほど、単調な口調。持ち上げたのは、手術用のメスだ。その鋭利さを確認するように目の前に掲げる。ライトの明かりを反射し、刃が白く光った。
 近藤は拘束された両手を握った。うすら寒いのに手には汗が滲んでいる。鼓動を速めた心臓の音と頭の痛みがシンクロして、額に脂汗が流れた。
 こうも静かだと、誰が来ればさすがに車の走行音が聞こえてくるはず。けれど、変わらず静かなまま。もっと時間を稼がなければ。それに、一つ気になることがある。
「僕を、切り刻むつもり?」
「ああ。生きたまま綺麗に解剖してやるよ。言っておくが、泣き叫んでも助けは来ないぞ。お前を拉致した奴らには、なるべくNシステムに映らない道を事前に教えてあった。ああ、そういやお前、携帯を放り投げたんだってな。どのみち電源切るつもりだったから構わねぇけど、例え警察でも絶対に分からねぇよ。途中で見失う」
 やはり携帯を置いてきて正解だった。だが、Nシステムで追うのは難しいか。だからといって諦めるわけにはいかない。
「ていうかさ、そもそも、恨むのなら僕じゃなくて面接官じゃないの?」
 男はちらりと近藤を一瞥してメスを戻すと、銀色のハサミに持ち替えた。金属同士がぶつかる音が冷ややかで、妙に耳に響く。
「その面接官の一人は、お前の上司だろ。そうだな、最後に教えといてやるよ。死んだあと、自分の体やお仲間がどうなるか」
 不敵な笑みを浮かべ、男は一度ハサミを動かすと、もう片方の手で近藤のシャツの裾を持ち上げた。ゆっくりと、まるで焦らすようにハサミを近付ける。
「まず、ここでお前を切り刻む。ホルマリン漬けにしてもいいんだけど、手間がかかるから真空パックに詰めて、内臓と一緒に上半身を科捜研、下半身を警務課に送り付ける。一緒に液体爆弾でボカンだ。仕掛けは説明しなくても分かるよな」
 蓋を開けると当時に二種類の液体が混じるように細工し、遺体を見て大騒ぎになっているところを証拠もろともふっ飛ばす気か。面接官は、警務部の警察署員と科捜研の募集科の担当者だ。あの時は、所長の別府だった。
 男の性格や言動から推察すると、面接官を恨んでもおかしくないと思ったのだが、本当に狙っていたとは。阻止する方法はただ一つ。自分が死なないことだ。
 逆恨みにも程がある。怒りがふつふつと胸に湧き上がってくる。
 落ち着け。ここで余計なことを言ったら、これまでの我慢が水の泡だ。京都府警を爆破させるわけにはいかない。どのくらいの規模なのか分からないが、あそこには科捜研の仲間や、紺野がいる。荷物の到着時間によっては、巻き込まれるかもしれない。
 絶対に死ねない。でも。
 シャキ、シャキ、と音を立ててシャツの真ん中を首元へと切り裂きながら、銀色の先端が近付いてくる。
「ねぇ、こういう時ってさ、俺の方が優秀だぞってアピールするのが普通じゃないの?」
「どうせ殺すのにアピールしてどうすんだよ。お前たちを殺せればそれでいい。そしたら、法医科の枠が空くだろ?」
 しらっとした顔で言いながら、男はTシャツを引っ張って、襟ぐりをベルトの下へ引っ張り出した。こいつはこの期に及んでまだ科捜研に入るつもりか。
 シャキン、とハサミの刃が合わさり、澄んだ音を響かせた。
「綺麗に解剖して内臓を取り出したあと、綺麗に縫合してやるからな。今日のために野良犬や猫で何度も練習したんだ。ま、勝手は違うだろうけど大丈夫だろ。俺なら」
 自分の身勝手な欲望のために、何の罪もない動物を犠牲にしたのか。
 この男には、法医学を学ぶ資格もなければ、科捜研に入る資格もない。命を軽々しく奪い、罪の意識すら持ち合わせないこいつは、何十回、何百回試験を受けても絶対に受からない。別府の目は正しかった。
 犠牲にした動物たちに呪い殺されろ、このクソ野郎。出かかった悪態を、ごくりと喉を鳴らして飲み込む。男が短く笑った。
「さすがに死ぬのは怖いか?」
 男はハサミをトレーに戻し、二つに裂けたシャツに手をかけた。左右に開き、はだけた上半身に視線を滑らせる。
「空手をやってるだけあるな。引き締まっていて、いい体だ。メスの入れ甲斐がある」
 このド変態が。近藤は毒づいて、大きく深呼吸した。部屋中に響いていやしないかと心配になるほど、心臓が大きく脈打っている。
「さてと、おしゃべりは終わりだ」
 にやりと口角を上げた男はメスを持ち、近藤に見せつけるように目の前に掲げた。
「いい声で泣けよ?」
 美しいまでに研ぎ澄まされたメスが、胸元へと下りてゆく。
 さすがにもう――。
 近藤は目を堅く閉じ、ぐっと唇を強く噛んだ。――と。
ゴムが強く派手に擦れたような、甲高い音が窓の外から届いた。タイヤが擦れた音だ。
 ――来た!
 肌まであと数ミリ。近藤が弾かれたように目を開け、男が手を止めて、同時に勢いよく窓の方を振り向いた。立て続けに長く砂地を滑る音がして、ドアの鈍い開閉音が響く。
 何だてめぇ、と聞き覚えのある男の凄む声が聞こえる。拉致された時に、放っとけと叫んだ男だ。目が不自由なら運転はできないだろう。あるいは念のために外で待機させていたのか。
「まさか、ここを割り出したっていうのか」
 信じられないと言いたげに目を丸くした男は、それでもどこか余裕が見える。どけガキどもが! と苛立たしげに叫んだのは、間違いなく紺野の声だ。
 近藤は声を詰まらせて、先ほどとは違う意味で唇を強く噛んだ。
 揉み合っている様子の怒声をしばらく聞いて、男が近藤に向き直った。
「どうやら一人みたいだな。まあいい、こっちは三人だ。あれか? 紺野とかいう刑事か? そうだ、どうせなら二人一緒に解剖して」
 うわあっ!!
 突如、男たちの悲鳴が男の声を遮った。何だこれ、来るな来るな、マジか聞いてねぇぞ。混乱と恐怖が入り混じったような声。
「何だ……?」
 さすがの近藤も状況が読めない。二人一緒に訝しげに眉を寄せ、男が一歩、窓へ歩み寄る。すると今度は、廊下からガシャンガシャンと金属をなぎ倒す音が響き渡った。バリケードでも張っていたのだろうか。
 男が舌打ちをかました。
「何が起こってんだ……!」
 理解できない状況に焦ったのか、男が顔を歪ませて近藤を見下ろした。
「仕方ない、一息に殺して逃げる」
 そう言って素早くメスをトレーに投げ入れハサミに持ち替えると、両手で握って大きく振り上げた。心臓の真上。金属音はまだ響いている。
 ここまで来て、間に合わないのか。近藤は男を睨み上げ、拳を握って全身に力を込める。
「じゃあな」
 近藤を見下ろして勝ち誇ったように笑みを浮かべ、男は躊躇いなく腕を振り下ろした。
 硬く目をつぶり、紺野さん! と口から飛び出しそうになった瞬間、突如、窓の外から真っ赤な光が部屋に差し込んだ。
「な……っ」
 炎のような赤い光が、部屋も近藤も男も、デスクライトの明かりでさえも赤く染め上げる。
 男が詰まらせた声と、瞼を通して感じた赤い光にそろそろと目を開け、近藤は窓へ首を回した。そして、目の前にある現実的ではない現実の光景に、唖然とした。
「と、り……?」
 埃や劣化で白く濁った窓でも、その輪郭は見てとれる。窓一面に映るその姿は、中央にトサカの生えた小さな頭、左右に大きく広がった羽。間違いなく鳥の――いや違う。こんな巨大で真っ赤な鳥がどこにいる。
 これは式神の変化した姿――朱雀だ。
 不意に、朱雀が羽をゆるく羽ばたかせた。これだけ巨大だと、少しの動作で強い風圧が生まれるだろう。窓がみしみしと軋んだ音を立て、男がひっと引きつった悲鳴を上げて後ずさる。
 一方近藤は、興奮のあまり顔を紅潮させた。
「ちょっ、これ、これ解いて! 何してるの早く解いてってばッ!」
 紺野がいたら、お前自分の立場分かってんのかと呆れるだろう。近藤は朱雀を見据えたままもどかしげに体を揺らし、愕然と立ち尽くす男に鋭く要求した。
 分かる。こんな光景を見せられれば誰だって混乱する。でも今はそんなことどうでもいい。窓越しではなくじかに見たい。早くしないと、きっとこのまま姿を消す。そうなれば、頼んでもおいそれと変化してくれないかもしれない。特に左近。
 早く解け馬鹿! と、とうとう本音が口から飛び出そうになった時、廊下からバタバタと荒っぽい足音が近づいてきた。男がはっと我に返る。
「何だこれは……っ、お前、何かしたのか!」
「そんなことできるわけないでしょ」
 朱雀を見つめたまま即答した近藤にクソっと小さく悪態をつき、せわしなく廊下と窓を見比べる。得体の知れない鳥と刑事。どちらが逃げやすいか図っているのか、それとも単に混乱しているのか。
 時間にしてほんの数秒。あっという間に足音が部屋の前に到着し、朱雀に夢中になっていた近藤が振り向いた。同時に、
「近藤ッ!」
 壊れるほどの勢いで開いたドアから、険しい顔をした紺野が飛び込んできた。
 だが。
「紺野さん、避けてッ!」
 男も、ハサミを紺野へ向けて床を蹴った。
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