第17話

文字数 2,734文字

 首塚、正式名称は首塚大明神。酒吞童子が祀られる社は、廃墟群からさらに道なりに進み、左手に曲がった先の小高い丘の上にある。
 苔生した石造りの鳥居の左手には手水舎が、右手には「首塚大明神」と彫られた石柱が立つ。鳥居をくぐると石造りの階段が上へと伸び、終わると行く手を拒むように木の根が浮き出た道が続く。先には鳥居がもう一つ立ち、少し先にももう一つ。そして社の左手には伝承が刻まれた大きな石碑が鎮座し、右手には、踏み面の小さな階段が下へと続き、その先には簡易的な休憩所が設けられている。
 酒吞童子の首は、社の裏側に埋められているらしい。しめ縄が掛けられた木の柵で囲まれた盛り土にはいくつも石が乗せられ、まるで重石のようだ。
 昼間に訪れれば、青々と茂った葉の隙間から木漏れ日が差し込み、風景的には悪くない。だが、すでに陽が落ちた時間、人の気配はおろか微かな虫の音一つしないのは、社の前を陣取り向かい合う主祭神と鬼に恐れをなしたせいか。
「よもや、お前が蘇生していようとはな」
 酒吞童子は、美しく光沢のある酒が並々と注がれた升を前に、少々呆れ気味に口を開いた。
「俺自身そう思っているところだ」
 自分の分の升を軽く掲げ、隗は口を付けた。飲み口はすっきりとし、甘みはほんのりと、しかしふくよかな米の香りが鼻を抜ける。ふむ、と満足そうに頷き、一気に煽った。
 酒吞童子がついと視線を上げると、酒を揺らしながら升がゆっくりと浮いた。そのまま口元へ移動し、大きな口へ流し込む。それを見ていた隗が、くつくつと低く喉を鳴らして笑った。
「俺が飲ませてやらねばならんかと思っていたが、不便はないようだな」
 酒瓶を持ち上げると、空になった升が注げと言わんばかりに宙を滑って移動する。
「貴様の手を借りねばならんほど落ちぶれておらぬわ」
 とくとくと柔らかな音を立てて酒を注ぎながら、隗はにやりと口角を上げた。
「心霊スポットなどと言われていると聞いたが?」
 酒吞童子は心外そうに眉根を寄せた。
「人が勝手に言っておるだけだ。無礼な輩に多少仕置きはしたがな」
「原因はそれであろう?」
 隗は、おっと、と言って溢れるぎりぎりで酒瓶を上げる。
「今の世の人々は、畏怖という言葉を知らぬ。身を持って教えてやっただけのこと。それを畏れと取るか託宣と取るかはそれぞれだ」
 隗は手酌をしながら「ははっ」と声を上げて笑った。
「託宣か。お前の口からそのような言葉が聞けるとは、なかなか興味深い。復活した甲斐があった」
 茶化すように言って口を付ける隗を見やり、酒吞童子は升を移動させた。
「何やら、面倒なことに関わっているようだな?」
 率直に、しかし窺うような声色に、隗は酒吞童子を一瞥した。
「先日の邪気は、お前たちの仕業か」
「気付いたか」
「あれほどの邪気を感じぬわけがなかろう。お前を蘇生した阿呆は、何を企んでいる」
「その阿呆のおかげで、今こうして友と再会できたのだがな?」
 酒吞童子はふんと鼻を鳴らした。
「ところで、あの小僧は何者だ」
 唐突に変えられた話題に、隗は逡巡した。自分たちからすれば、あの場にいた者全員が小僧だが。
「どの小僧だ?」
 酒吞童子はまたしても一気に口に酒を注いだ。
「鬼共に守られていた小僧だ」
 ああ、と隗は小さく呟いて升を傾けた。
影綱(かげつな)の子だ」
「影綱……?」
 端的な答えに、酒吞童子は空になった升に目を落として膨大な記憶を掘り起こした。何せ千年分だ。しかも遥か昔、それもほんの瞬きをする間の時間の記憶。
 やがて思い当たったように視線を上げた。
「あの風変わりな陰陽師か」
「ああ、その風変わりな陰陽師だ」
 実に正確な表現に隗は苦笑し、酒吞童子はなるほどと息をついた。
「腑に落ちた」
 一人納得した酒吞童子に、隗は興味深げに問うた。
「何かしてやられたか?」
「術を仕掛けられたのだが、破るのに少々手間取ってな。侮った」
 酒吞童子はしかめ面をし、まるで拗ねたように升を宙でくるくると回した。喉で低く笑い、隗は升を掴んで止める。
「ではもしや、あの二匹は」
「ああ。柴と腹心の紫苑だ」
 ふと、髪が短くなっていたことを思い出した。連鎖して蘇るのは、遥か昔の、しかしまだ鮮明な記憶。拒むように、隗は目を伏せた。
 風呂敷の上に升を置き、新たな酒を注いでやろうと酒瓶に伸ばした手が空を掴んだ。酒瓶は逃げるようにすいと移動し、酒吞童子の口元へ浮かび上がる。隗が眉をひそめた。
「もう少し味わってはどうだ。相変わらず風情のない奴め」
「何を言うか。そんな小さな器では飲んだ気がせん」
 隗はやれやれというように肩を竦める。
「次は樽ごと持ってくるとしよう」
「そうしてくれ」
 豪快にひっくり返した瓶から酒を煽る様は、実に無骨だ。とはいえ、今でこそ神として祀られているが、元は京の都を荒らしまわった鬼なのだ。本来この姿が自然で、洗練さを求める方が無粋か。だが、この調子では半刻ともたない。千年越しの再会が酒無しでは、何とも味気ない。
 肴を持ってくるべきだったか、と呆れ顔でちびちびと口を付ける隗に、酒吞童子は酒瓶を戻してから問うた。瓶の中で酒がたぷんと踊る。
「まだ、許せぬか」
 その巨大な生首から発せられる声とは思えないほど静かな声色に、隗は升を傾ける手を止めた。遠慮なく向けられる視線から目を逸らし、答えないまま升を傾ける。
「隗よ。お前が本当に許せぬのは、どちらだ?」
 隗はぐいっと一気に飲み干し、升の中に目を落とした。口元にはうっすらと自嘲気味な笑みが浮かんでいる。
「さて、どちらだろうな?」
 答えにならない答えに目を伏せた酒吞童子の顔に、憐みの色が浮かんだ。酒瓶をひっくり返し、残りの酒を飲み干した。
 隗は未開封の酒瓶に手を伸ばし、蓋を捻る。注ぎ足してから、ふと顔を上げた。
「時に酒吞。一つ聞いてもよいか」
「何だ」
 酒吞童子は、未練がましく瓶の口から垂れる雫を真っ赤な舌で受けた。
「飲んだ酒はどこへ入っているのだ?」
 舌を出したまま目だけを隗に向ける。数滴の雫を受けてから舌を引っ込め、風呂敷の上に瓶を置いた。しばしの沈黙が流れる。やがて、酒吞童子が息をついた。
「そのような些細なこと、気にするまでもなかろう」
「些細か」
「些細だ」
 そうか、と隗は相槌を打ち、酒吞童子の升に酒を注いだ。酒吞童子はそれを浮かせ、口元に持って行くと舌先でぺろりと舐めた。隗が視線を上げる。
「して、どこへ入るのだ?」
「些細だと言うたばかりであろう」
「お前自身のことだ、気にならんのか。俺は気になるのだが」
「ならん」
 一蹴され、再びしばしの沈黙が流れる。
「どうも気になるな」
「くどいぞ貴様!」
 お前は昔からそうだ、とむきになった酒吞童子の声と、隗の豪快な笑い声が森に響く。
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