第5話

文字数 4,218文字

 明への報告を終えて府警本部に戻り、平良(たいら)譲二(じょうじ)の身元を調べながら、ふと何か忘れていることに気が付いた。前科者リストを眺めつつ何だったかなと考え、はたと思い当たった。渋谷健人(しぶやけんと)の顔写真だ。
 珍しく気付かなかったのか、明も送れと言わなかった。複雑な事件の最中で、しかも昨日の今日だ。あいつも疲れてんだなと、何故か勝ち誇った顔で携帯を操作する紺野(こんの)の横顔を、北原(きたはら)が気味悪そうに一瞥した。
 昼過ぎには下平(しもひら)から例の女の似顔絵が届き、良親(よしちか)の携帯の件で冬馬(とうま)の協力が得られた報告を受けた。
 さらに夕方、明から一本の電話が入った。
 報告内容は、下平から似顔絵が送られてきたことと、昼間に柴と紫苑から聞いた話、鬼の習性についての解決策だ。紺野は特に何を言うでもなく、ただ一言「そうか」と返した。もう一つ伝えられたのは、明なりの気遣いなのだろうか。刀倉影正が大河へ残したという手紙の内容を聞きながら、北原はきつく唇を噛んでいた。
 そのあと、平良の身元調査の結果と良親の携帯について報告し、明から下平へ伝言を預かった。
 そして現在、午後八時。
 紺野と北原は、先日下平と共に訪れた居酒屋に来ていた。下平は先に来ているらしく、店員に案内された席は、場所は違うが同じ二階の半個室だった。
「おつかれ、さまです……?」
 個室を覗き、紺野はウーロン茶のグラス片手に机に突っ伏している下平に目をしばたいた。まさかウーロン茶で酔っぱらったのではあるまい。
「お疲れ様でーす。下平さん、どうしたんですか?」
 腰を下ろしながら北原が遠慮なく尋ねると、下平は突っ伏したまま声を絞り出した。
「女ってのはなんであんなにおしゃべりなんだ……ッ」
 紺野と北原は首を傾げて顔を見合わせる。一体何があったのだろう。
 ひとまず上着を脱いで、ドリンクを注文しつつ話を聞いた。どうやら、メールに書かれていた女を目撃した捜査員とは、例の榎本(えのもと)という新人刑事のことらしい。
「あいつのせいでなぁ、榎本は今日一日俺と目を合わせようとしなかったんだぞ。しかも時々笑いを堪えてんだ。仕事にならねぇだろうが喜多川(きたがわ)の阿呆!」
 膨れ面でせわしく煙草をふかす下平に、紺野は同情した。こっちも今日は熊田(くまだ)佐々木(ささき)に暴露されそうになったのだ。気持ちは痛いほどよく分かる。
 うんうんと頷く紺野とは逆に、北原は他人事のようにけらけらと笑った。
「下平さんでも、人に知られたくない失態ってあるんですねぇ」
「そんなもん誰にでもあるだろ」
「それはそうですけど、下平さんの失態って想像できませんもん」
「死んでも言わねぇからな」
 どんな失態なんですかと突っ込まれる前に先手を打った下平に、北原が「えー」と残念そうな声を漏らす。いつかこいつに後輩ができたら暴露してやろう。
 下平が心底疲れた様子で溜め息をついた時、ドリンクと付き出しが運ばれてきた。適当に料理を注文し、それぞれグラスを掲げる。
「とりあえず、お疲れさん」
「お疲れ様です」
 紺野は忘れないうちにと鞄を探った。
「下平さん、これ、良親の携帯です。お願いします」
「おう、確かに」
 綺麗に指紋を拭き取られ、鑑識よろしくジッパー付きの保存袋に入れられた携帯を見て、下平は苦笑した。
「それと、明から伝言です。冬馬に礼を言っておいて欲しいと。陽から、助けようとしてくれたと聞いたみたいで」
 下平は、くくっと面白そうに笑った。事情があったとはいえ、冬馬は誘拐犯の一人だ。話を聞いて情が湧いたのか、それとも樹への信頼ゆえに信じたのか。あるいは、可愛い弟には敵わなかったのか。
「了解。律儀な奴だな」
「親がいなくて年も離れてますし、父親代わりなんでしょうね」
 なるほど、と下平は床に置いていた上着の上に携帯を置きながら言った。
「良親の住所を冬馬が調べてくれたんだけどな、あいつの体調もあるし俺も仕事だし、明日の夜行くことにした。そんでそのままあいつを店まで送る」
「確かに、今日一日くらいはゆっくり休んだ方がいいですよね」
 そう言った北原に、下平は息をついた。
「それがなぁ、昨日いきなり休んだから休めねぇんだと。今日も仕事行く気らしいぞ」
「え、ほんとですか? タフですねぇ」
「一人で気負い過ぎなんだよ。責任感が強すぎるっつーか」
 呆れているというよりは怒った顔でぼやく下平に、紺野と北原は苦笑いを浮かべた。心配ゆえの腹立たしさがあからさまだ。
 まったく、とぼやいて吸い殻を乱暴に灰皿に押し付けると、下平は気を取り直すように深い溜め息をついた。
「で、早速だが俺から報告していいか。今日も山積みだろ」
「はい、お願いします」
 昨日、報告しそびれたせいで確かに報告事項は多い。付き出しをつつきながら下平がまず伝えたのは、少年襲撃事件の詳細だった。
「脅迫に恐喝に傷害か。ほんとに質が悪ぃガキ共だな」
「その本山涼(もとやまりょう)って奴は、やり慣れてる感じですね」
「ああ。下手すりゃ他にもやってるかもしれんが、もうどうしようもねぇ」
 三人揃って思わず溜め息が漏れた。
「それにしても、やっぱり下平さんの推理通りでしたね」
「連絡手段が違ってたくらいか。まさか本山の携帯を持っていたとはな」
菊池(きくち)の両親には」
「伝えた。母親が気ぃ失う寸前だったらしい」
「そうですか……」
 優等生だった息子が、突然警察に追われる身になれば当然だろう。
「アクセス履歴の方はどうでした?」
「昼にデータが届いたぞ。山科区の基地局だった。周辺の防犯カメラ映像を集めて確認してるが、どうだろうなぁ」
「どうとは?」
「昨日の式神だよ。でっけぇ犬の」
 言われてあっと気付き、北原が渋面を浮かべた。
「そうか。あれで移動して、屋上とかからアクセスすれば防犯カメラには映らない。しかも夜だったんですよね」
「そうなんだよ。あの式神、真っ黒だったろ。闇に紛れられるし、やっぱ人外を使われると厄介だな」
 下平は苦虫を噛み潰したような顔をした。防犯カメラはあくまでも地上のみだ。上からとなるとテレビ局の屋上定点カメラだが、山科区にテレビ局はない。あるいは上空。地域部・機動警ら課の航空隊の管轄になる。警らしているとはいえ、現在京都府で稼働しているのは二機のみで、何せヘリだ。敵側からしてみれば確認しやすく、避けようと思えばいくらでも避けられる。
「菊池は、もう一度尊を狙うでしょうね」
「確実にな。いっそ張り付こうかとも思ったんだが、どこから見られてるか分かんねぇからなぁ。ただ、(たける)自身、悪鬼が見えるだろ。その点に関してはまだマシだ。何かあったら連絡しろと言ってあるから、待つしかねぇ」
「相当恨んでいるみたいですし、悪鬼に食わせて終わりにはしないでしょうねぇ。刑事(おれたち)がいると姿を現さないかも。……あれ? でも」
 北原が言いかけた時、階段から足音が聞こえて店員が料理を運んできた。一旦中断し受け取る。
 先日より多めに注文したため、テーブルいっぱいに並んだ料理を前に、それでと下平が先を促した。各々料理に箸を伸ばす。
「いえ、術を使えるのなら、俺たちがいても問題ないんじゃないかと思って。式神もいるし」
 紺野と下平が手を止め、虚をつかれた顔を見合わせる。
「そう言われりゃそうだな……。菊池は運動が苦手だったらしいが、例えば結界で俺たちを閉じ込めるとか、それこそ式神を使えば邪魔されずに済む」
「ええ。俺たちを足止めする方法はいくらでもあるでしょうから、いつ襲っても同じです。哨戒する樹たちを警戒しているとしても、昨日は陽にかかりきりになると分かっていたはずですし、襲うにはちょうどいい。それなのに襲わなかったということは、何か目的があるんでしょうか」
 下平は逡巡した。
「やっぱ、尊が疲弊するのを楽しんでるとしか思えねぇな……明日、尊に連絡を取ってみよう」
 下平は冷奴を口に放り込んだ。はい、と答えて紺野と北原もそれぞれ箸を動かす。
 現場の防犯カメラ映像もそう見えた。樹たちが到着するまでの時間、たっぷりと追い立て回して楽しんでいた。両親が語った雅臣(まさおみ)とはずいぶん印象が違うが、人格が変わるほど追い詰められ、憎んでいるという証拠だ。いつ、どんな手で襲うのか。もどかしいけれど、一番怯えているのは尊自身。反省を促す罰としては、非常に過酷だ。
「で、次なんだがな――」
 下平は早々に頭を切り替えて、榎本が遭遇した件の詳細とそこから導かれる可能性を話した。
「紺野さん……」
「ああ。有り得なくはないが、けど……」
 北原から向けられた神妙な視線に、紺野は唸り声を返した。
「何だ、何かあったのか」
 下平が急くように尋ねた。
 ここへ来る前、捜査会議を終えて戻った府警本部の一課がやけに慌ただしく、今朝話を聞いた先輩刑事の緒方(おがた)を捕まえると、妙な展開になっていた。
「実は俺たち、被疑者の深町仁美(ふかまちひとみ)が出頭した場に偶然居合わせたんです」
 そう前置きをして、紺野はその時の状況を伝えた。
「裏切ったってことは、動機は旦那の浮気か?」
「おそらく。そうか、まだ公表されていませんでしたね」
「ああ」
 あれだけの騒ぎになっていれば、事件そのものを公表しないわけにはいかないだろう。一般の目撃者から情報が漏れる可能性はあるが、証言は当てにならないと考えてひとまず公式発表は避けたようだ。
「被疑者はどう見ても正気ではありませんでしたから、しょうがないですね」
「心神喪失、あるいは耗弱か」
「はい。今朝の時点では、今日中に送致し、起訴前鑑定になるだろうという話でした。それが、延期になったそうです」
「延期?」
 下平が怪訝そうに眉を寄せた。
「はい。送致直前に、被疑者が突然正気に戻って供述を始めたそうです。その様子は、まるで憑きものが落ちたようだったと」
「憑きもの……」
 やはり同じところに引っ掛かるようだ。ええ、と紺野は頷いた。
「現在再捜査中です」
「何か、新しい証言が出たのか」
「そうかもしれません。やけに慌ただしかったので、詳しくは」
 下平は難しい顔をして低く唸った。
「なんにせよ、鬼代事件とその事件が繋がらねぇ限り何とも言えねぇか。お前ら、空振りだったら悪いが探ってみてくれるか」
「分かりました。とりあえず、娘の顔を確認します。可能性を一つずつ潰していきましょう」
「そうだな。ああそうだ、当主二人にも未遂事件の詳細と似顔絵送っておいたぞ」
「あ、はい。聞きました。昼間、柴と紫苑から聞いた話を伝えておいて欲しいと言われたんですが、その前にいくつか報告が」
「ああ」

ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み