第10話

文字数 3,239文字

 午後一時過ぎ、いつもの定食屋で食事を終わらせ府警本部に戻ると、何やら入口ロビーが騒がしかった。
「何の騒ぎだ?」
「さあ?」
 制服姿の警官や私服刑事らが人だかりを作っており、婦警や一般市民らが、興味津津な視線で遠巻きにそれを眺めている。人だかりの中に、同じ捜査一課の同僚刑事の顔が見えた。
「あ、紺野さん」
 横目で通り過ぎた時、総務部の見知った男性警察官が声をかけてきた。
「何かあったのか?」
 紺野と北原は視線を人だかりに向けたまま足を止めた。
「それがもうびっくりですよ」
 彼が顔をしかめた時、人だかりの一部がこちらに向かって口を開けた。刑事二人に両腕を掴まれ、引き摺られるように出てきたのは六十代くらいの女だ。白髪が目立つパサついた髪に、憔悴し切った顔は土気色で深い皺が刻まれている。睨むように前を見据えるその目は焦点が合っておらず、虚ろだ。カサカサに乾いた唇が、何か小さく呟いている。何より異様なのは、真夏だというのに羽織ったロングコートだ。ボタンが外れている前身ごろの隙間から見えたのは、胸元から太ももを染める、真っ赤な血液。よく見れば、首に血を拭き取った跡がうっすらと残っている。
 女が何をしたのか、考えるまでもなかった。
 女は目を見開き、口元には笑みを浮かべ、両脇を固める刑事を交互に見上げて声高に訴えた。
「ねぇ、あたしは悪くないわよねぇ。あいつらが悪いんだから、あたしを裏切ったあいつらが悪いのよ? 刑事さんもそう思うでしょ? ねぇ、そうよねぇ?」
 紺野らは道を譲るように位置をずれた。女を連行する同僚刑事がこちらをちらりと見やり、悲痛そうに目を細めてすぐに逸らした。通り過ぎる間際、一瞬女と目が合った。
 満面の笑み。
 ぞわっと全身が粟立った。
 見えたのは、満足気な笑顔に潜む狂気。憎くてたまらなかった相手を殺してやったという、達成感。
 反省の色も、後悔もない。紺野はごくりと唾を飲み込んだ。
 女は視線を刑事らに戻し、同じことを繰り返し繰り返し訴える。あたしは悪くないのよ、あいつらが悪いのよ、と。
 女が刑事らと共に姿を消すと、蜘蛛の子を散らしたように人々が一斉に動き始めた。刑事らの慌ただしい指示と一般人のざわめきが混じる。
 北原もあれを見たのだろう、紺野が詰めていた息を吐き出すと同時に、長く重い溜め息をついた。
「自分で出頭してきたのか? あの恰好で」
 気を取り直すように総務部の警察官に顔を向けると、彼は我に返り、顔を強張らせたままええと頷いた。
「いきなり駆け込んできたと思ったら、こう、コートを開いて、あたしは旦那を殺したーって喚き始めたんで、もう大騒ぎでした」
 彼は両腕を左右に開き、コートの前身ごろを開く仕草をした。
「……旦那だけか?」
「って、自分では言ってましたよ?」
 ふーん、と相槌を打ちながら、紺野は女が姿を消した方へ視線を投げた。旦那、裏切り、あいつら、三つのキーワードから推理できるのは、痴情のもつれ。旦那の浮気を許せずに殺害に至ったというところだろうか。しかも女の言い回しから察するに、浮気相手は女も知っている人物だ。自白とも取れる発言を信じるなら、浮気相手の方は無事なのだろう。
 三人同時に長い溜め息を漏らす。
「業務に戻ります、俺」
「そうだな」
「そうしましょう」
 総務部の彼の言葉に頷き、じゃあ頑張れよ、と声をかけて別れた。
 疲労感を背負った彼を見送り、紺野と北原はエレベーターで資料保管室がある階へと向かった。
 あの女はもう、正気ではないだろう。夫を恨み、浮気相手を憎んだ果てに正気を失ったのだとしたら、同情を禁じ得ない。
 けれど、人殺しは人殺しだ。それ以外の何者でもない。
 保管室の階に到着し、部屋の近くに行くと、二人は回りを見渡して素早く中へ潜り込んだ。こそこそする必要はないのだが、単独捜査をしている手前、どうしても後ろめたさが先に立つ。
 中に入ると、天井まで届くスチール製の棚が、壁一面はもちろん、図書館よろしくびっしりとファイルや証拠品が入った箱を詰め込まれ、整然と列を成している。しかも通路はやっと人一人が通れるほどの広さしか確保されておらず、窓もブラインドが常に下げられていて、息苦しささえ覚える。
 保管室にもかかわらずパソコンが設置されている理由は一つ。資料保管室は別名「孤室」と呼ばれる。平たく言うと、「やらかした奴」が一時的に放り込まれ、資料整理をさせられるのだ。定員は二名。かくいう紺野も、配属当初に三日間放り込まれたことがある。一日中データと実物を照らし合わせる日々は、まさに地獄だった。
 ちなみに原因は、聞き込み中に住民から「うちの敷地にまで隣の物が溢れていて迷惑しているから何とかしてくれ」と頼まれ、断り切れなかったことだ。聞く耳を持たない家主にキレて口論になった。当時の上司から「右京署で何を学んできた!」と激怒され、教育係の熊田に申し訳ない気持ちでいっぱいだったことを覚えている。
 さすがにあれからここに来ることはなかったが、まさかこんな形で足を踏み入れることになろうとは。
 先程の女の悪意に当てられたせいか、気分は鬱々としている。紺野と北原は、窓際に向かい合う形で設置されたデスクトップパソコンで、残りの捜査員の経歴を黙々と調べた。顔写真に氏名、住所、学歴、階級、以前の配属先に賞罰、指紋データに担当した事件。中には見知った顔の捜査員もいて、ちくりと胸が痛んだ。
 警察関係者である以上、犯歴は無いことを前提に、過去の事件、事故を洗い出したがこれといって不審な点がある者は一人として該当しなかった。
 紺野は最後の一人をモニターに映したまま、腕を組んで背もたれに体を預けた。
 この世を混沌に陥れることが目的ならば、何か、誰かに恨みを抱いている可能性が高い。ならば過去に事件か事故に関係しているのではないかと思って経歴を探ってはみたが。
「うーん……」
 思わずあからさまに悩ましい唸り声を漏らしてしまった。と、
「……紺野さん……」
 パソコンの向こう側から、北原が呆然とした声色で名を呼んだ。
「お、何か出たかー?」
 半ば諦め気分で返事をすると、北原はモニターを凝視したまま、今度は叫んだ。
「紺野さんこれっ!」
 その緊張感を含んだ声に、紺野は弾かれるように腕を解きながら立ち上がった。
「どうした」
 机の横を通りながら、視線を急いたようにモニターへ投げ、北原の背後に回り込む。
「ここ、見てください」
 前のめりの体勢で北原が指差した部分に目を通し、紺野は眉間に皺を寄せた。どういうことだ。口の中で呟く。
「……これ、誰だ」
 低く問うと、北原は一番上までスクロールした。そこに現れた顔写真に、紺野は目を瞠った。
「さすがにこれが間違ってるってことはないでしょうから、だとしたら、あの時の言葉……」
「嘘だな」
 忌々しげに盛大に舌打ちをかます。
「過去には何もなかったのか」
「ええ、何もヒットしませんでした。経歴も不審な点はまったく」
 紺野は沈黙した。
 分からない。もしこの人物が関係していたとして、動機はなんだ。ただ分かるのは、何かを隠したがっているということだけ。
 紺野は気を取り直すように一度瞬きをした。
「北原、それ調べ直すぞ。どう考えても何か隠してるとしか思えねぇ」
「はい」
 北原が固い声で返事をした時、紺野の携帯が着信を知らせた。液晶には、右京署時代の先輩である熊田の名。
「お疲れ様です、どうしたんですか?」
「どうしたもこうしたもねぇ。お前ら、すぐ捜査本部に戻って来い」
 熊田の背後から、何やら慌ただしい声が聞こえてくる。その張り詰めた声に、一瞬単独捜査がバレたかと緊張が走った。だが、
「新たな犠牲者が出た。しかも、二人同時だ」
「――っ!」
 熊田が告げた連絡に、声を失った。
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