第9話

文字数 5,473文字

 午前九時半。
 宗史が運転免許を取得するまで、仕事などで車が必要な時は、晴が運転手を務めていた。それが今でも暗黙の了解となっており、今日も例に漏れない。
「お前んとこ、車どうだったよ」
 出発するや否やの質問に、宗史は苦笑いを浮かべた。
「悲惨だったな。朝の訓練の前に掃除させられた」
「俺も。ここぞとばかりに窓全部拭かされたわ。つーか定期的に洗車してるの俺だぞ」
 たまには自分でやれよあいつ、とぼやきながら寮へと車を走らせる。
 高校卒業と同時に、陰陽師として本格的に仕事を始めた晴は、実質明の補佐役としての立場にある。仕事の内容にもよるが、運転手や県外に出る場合の宿泊先の手配や現場の下調べなどの雑用から、現場での補佐、さらに祈祷や占術に使用する法具の管理や手入れ、準備、普段の哨戒、宗史との仕事と、意外に忙しい。スケジュール調整は、明自身が仕事の諾否を決定するため本人がしているが、それゆえに事後承諾になりやすく、一時期は事あるごとに「ブラックか!」と憤慨していた。ちなみに、賀茂家では現在のところ律子と夏美がその位置にいる。さすがに現場には同行しないが、後々は宗史が引き継ぐことになるだろう。
「で、結局樹の噂の話しは省くんだよな」
 道すがら購入したらしい缶コーヒーに手を伸ばしながら、晴は気を取り直すように尋ねた。
「ああ。あれが二つの事件を繋いでいたからな」
 現在優先するべきは、寮の者たちが事件を正確に把握することより、寮内に疑心暗鬼を生ませないことだ。
 少年襲撃事件、アヴァロンでの樹の噂、陽の誘拐事件。これら全てが繋がっていたからこそ、少年襲撃事件の不自然さが浮き彫りになり、内通者がいると断定された。ならば、個々の事件としてしまえば、少年襲撃事件の不自然さは不自然ではなくなる。哨戒中に鬼代事件の犯人らしき人物と遭遇する確率は、ゼロではない。ましてや標的が素行不良の少年で繁華街となると確率は上がる。
 だが、そうなるとどうしても嘘の説明を混ぜなければいけなくなる。
「けど、大丈夫なのか? あいつ嘘つかねぇって言ってたけど……」
 晴の懸念は分かる。良親が、樹が嘘をつかないことを知っていたということはつまり、当時から、あるいはそれ以前から嘘をつかなかったのだ。六年以上、一度も嘘をつかないというのは、有り得ないとは言い切れないが簡単ではない。だとしたら、嘘をつかないのではなく、つけない、もしくはつきたくないのではないのか。昨日の話では触れられなかったけれど、何か理由があるのだろう。そんな彼に、嘘をつかせることになる。
 だが、これは樹の事件だ。彼自身に説明させなければ、皆不自然に思う。樹自身も、それを理解しているのだろう。
「今朝、樹さんに話の内容を確認してもらうためにメッセージを送ったんだ。そしたら、分かったと返ってきた」
 晴はじっと前を見据えたまま、ふーん、と相槌を打った。
「……まあ、それならいいけど……」
 いまいち煮え切らない返事だ。
 嘘をつかない人に嘘をつかせるのは、さすがにいい気分ではない。それが半ば強制的かつ意図的で、共に暮らしてきた彼らが相手ならなおさら。とはいえ必要な処置だ。割り切るしかない。
「つーか、あいつあの状態でよく起きてたな」
 晴もまた割り切る方向で収めたのだろう、溜め息交じりに話題を変えた。
「いや、気付いて返してきただけだと思う。大河から電話があって確認したら、朝食にも起きてこなかったらしいから」
 事実とは違う報告をするため、大河と怜司にその旨と内容をメッセージで送ったのだ。そのすぐ後に、大河から電話が入った。
「まあ、あれじゃあな。つか、大河から電話って、なんかあったのか?」
「あったといえばあったかな。母さんに髪を切って欲しいって」
「髪?」
 夏美は結婚前、市内で美容師として働いていた。宗一郎の補佐役としての仕事を覚えるため、結婚してすぐに辞めたが、今は家族をはじめ、土御門家や寮の者たちの散髪を一手に引き受けている。きっかけは、寮に入ったばかりの頃の樹だ。当時、一向に髪を切ろうとせず伸び放題だった彼を見かねて切ってやったのが好評で、それから専属になった。夏美自身、美容師を生業としていただけに苦にはならないようで、むしろ今でもあれこれと流行りの髪形を研究しては寮の皆に勧めている。
「そういやあいつ、結構伸びてるか」
「大河はついでで、メインは柴と紫苑らしい」
「は? 大河だけじゃねぇのか。確かに邪魔臭そうだなとは思ってたけど」
「お前に言われたくないだろうな」
「そういう突っ込みはいいんだよ! で?」
 無造作とはいえ、毎日毎日尻尾をくくるのも面倒だろうに。いっそこいつも一緒に切らせようか。
「大河も邪魔じゃないかと思って、二人に提案したらしいんだ。そしたら――」
 宗史は笑いを噛み殺しながら、今朝密かに繰り広げられていた時代錯誤なやり取りを話した。
「マジかそれ、めっちゃ見たかった!」
 そう言いながら、晴は車外に漏れ聞こえているのではないかと思うほど爆笑した。気持ちは分かるが運転に集中して欲しい。
「感覚が平安時代のままだからな。大河が言うには、髪フェチじゃないかって」
「鬼にもそういうのあるんだなー」
「俺もそう思った。淡泊というか、こだわりなんかなさそうなイメージだったけど」
「意外だよな。それで、いつ切るんだ?」
「一応明日の午前中の予定だ。今日は桜の定期健診の日だから」
 月に一度の定期検診は、桜の体調によっては日がずれることもたびたびで、調子の悪い日が続いた時はその都度診察を受けるか、場合によっては担当医の往診を頼むこともある。担当医は、影正の死後、寮に訪れて死亡診断書を発行した医師だ。
「付き添ってんのおばさんだけか?」
「右近が護衛についてる」
「それなら安心か。桜の体調どうよ」
「変わりない。ああでも、いつもよりは体調の良い日が多い気がするな」
「お、良かったじゃねぇか。でも夏だから気ぃ付けてやらねぇとな」
「ああ」
 夏は暑さのせいで調子が悪い日の方が多い。エアコンが効いた部屋にばかりいると、体が冷えてすぐに風邪を引く。だからといってエアコンを切るわけにもいかず、空調のバランスが難しい。時々空気の入れ替えをして温度を調節し、薄着や冷たい飲み物も控え、できるだけ陽に当たらないようにする。仕方ないとはいえ、桜は窮屈だろう。
「それにしても」
 晴がふっと小さく噴き出した。
「やっぱ意外と人間臭いんだな、あいつら」
 思い出し笑いをしながら言った晴の何気ない一言に、宗史は一呼吸置いてから「そうだな」と同意した。
 正直言って、まだ迷っている。危害は加えないと思いつつも、本当に柴と紫苑を信じていいのかどうか。
 昨日、寮での彼らの態度を見て、驚かなかったと言えば嘘になる。縁側で頭を下げ、謝った華に対してすんなり許し、手渡された着物に礼を言う。食事の作法に至っては、しっかりと躾けられているように見えた。人を主食とする鬼が、何故食事の作法を身に付けているのか。人と同じ食事ができるということは、平安時代からそうだったことになる。鬼に、調理という概念があったのか。
 さらに三度に亘る加勢に加え、大河との朝のやり取り。人間臭いというよりは、まるで人のような行動だけを見るなら、信じるに値する。
 だが、謎も多い。彼らが何故寮を――大河を監視していたのか、何故こちらに合流したのか。彼らの実力ならば、潜伏先さえ分かれば斃せるだろうに。それとも、彼らでも敵わないと思うほどの強敵なのか。何にせよ、二人の目的が分からない。それなのに――。
「宗……宗史。……宗ちゃん」
「誰が宗ちゃんだ」
 聞き捨てならない呼び方に、宗史は今までの無反応は何だったのかと思わせるほど素早い反応を見せた。目を据わらせて睨む宗史に、晴が苦笑いを浮かべる。
「そんな怒んなよ。ガキの頃呼んでたじゃねぇか。宗ちゃん、晴ちゃんってさ」
「やめろ。この年でお前に呼ばれると寒気がする」
「ひっでぇな」
 膨れ面で、ほんと可愛くねぇ、とぼやく晴を置いて、宗史は前を向き直った。
「それで何だ?」
「ん、ああいや、お前、まだ柴と紫苑のこと迷ってんのかなーって思ってさ」
 こんな時、幼馴染みは厄介だ。それとも分かりやすく顔に出ていたのだろうか。以前、樹に「最近肩の力が抜けてきた」と言われたことを思い出し、宗史は複雑な気持ちで前を見据えた。
「俺はあの二人、信じていいと思うぜ」
 宗史はゆっくりと腕を組んだ。
「根拠は」
「簡単だろ。三回も助けられてんだぞ、俺ら。それと昨日のあの態度。すっげぇ気ぃ使ってたの分かったしな。何か目的があるにせよ、あいつら、自分たちの立場ちゃんと理解してるぜ?」
 晴らしい、真っ直ぐな理解の仕方だ。
「つーか、お前も信用してると思ってたんだけど?」
 思いもよらぬ見解に、宗史は怪訝な顔で晴を振り向いた。
「何でだ」
「だってお前、あいつらのこと二人って言ってるだろ。前は匹で数えてたのにさ」
 宗史は目を丸くした。言われてみれば。
「何だ、無意識か? 珍しいな、お前が」
 ちらりと見やり、ははっ、と短く笑った晴に、宗史はむっとして前を向き直る。
「お前さ、実はムカついてんだろ、当主陣に。だから柴と紫苑も素直に信用できねぇんじゃねぇの?」
 率直に指摘され、宗史はふいと車窓に顔を背けた。
「うるさい。それとこれとは別問題だ」
 言いつつふてくされた声色に、晴がくつくつと笑った。さらに渋面を浮かべる。
 昨日、宗一郎と明は、柴と紫苑をおびき寄せるために大河を囮にした。おそらく陽が誘拐されたと報告した時にでも打ち合わせたのだろう。そして状況に応じてどうするかの最終判断を、宗一郎が下した。
 実力不足の大河がいても対応できるだろうと思われていたことは、確かに光栄だ。大河がいれば、柴と紫苑があの場に現れることは確定していたし、樹と怜司を加えたあのメンバーならば対処できた。しかし、樹と怜司が内通者である可能性もあり、敵側の戦力が不確かな状況で、しかも鈴を退けるほどの式神がいることが分かっていたのだ。何よりも、柴と紫苑が敵ではないという絶対的な確信がなかった。にもかかわらず、大河を囮にした。
 自分だったら絶対にしない――いや、できない判断の結果、戦力の確保に成功し、さらに大河の経験値も上がった。それが気に入らないからあれこれ理屈を捏ねて柴と紫苑を受け入れないなんて、二人からしてみればとばっちりもいいところだ。
 要は、自分のプライドの問題なのだ。
「お前は……」
 顔を背けたまま呟いた宗史を、晴が一瞥した。
「……いや、何でもない」
 結局言葉を飲み込んで、宗史は口を閉じた。
 あの判断をどう思っている。そう聞いたところで、返ってくる答えは想像がつく。晴だけではない、樹も怜司もあの人選の意味に気付いているだろう。三人は、きっと宗一郎と同じ判断ができる。もしそうでなくても、柴と紫苑を受け入れた。
 自分がどれだけ臆病で小さな人間か、改めて思い知る。
 車窓を流れる景色を眺めたままの宗史を一瞥し、晴が小さく溜め息をついた。
「ムカつくって言えばさ、あれ、ムカつかなかったか?」
 唐突に話題を変えた晴に、宗史は前を向いて首を傾げた。
「どれだ?」
「樹だよ、樹。緊張感は長く続くと疲弊するとか言ってたやつ」
「ああ、あれか」
 報告をしなかった理由について樹は、確信がなく緊張感は長く続くと疲弊するから、と言った。
 苦笑した宗史に、晴は不満顔を浮かべた。
「あいつを疑ってた俺が言えたことじゃねぇけど、誰に言ってんだっつーの。そんなヤワじゃねぇし」
 素直に不満を口にする晴を横目で見やり、宗史はふっと口角を緩めた。心外だと思わなかったわけではないけれど、もう留飲は下がっている。
 少年襲撃事件において、事前に哨戒ルートが分かるのは寮の者たちに限られる。ならば、両家には報告をするべきだ。一人で抱え込んで疲弊していたのは自分の方ではないのか。
 あの時、そう告げようとしてやめた。自分は樹のことを疑っておいて、樹は自分たちのことを信じろというのは、あまりにも身勝手すぎる。それなのに、志季にさらりと言われてしまった。
 言い回しはかなり違っていたが、志季のストレートな物言いは刺さったようだ。
「まあそう言うな。可哀相だろ、これから試練が待ってる人に」
「……試練?」
 晴は眉を寄せ、
「あ――――」
 察した声を長く吐き出し、にやりと唇を歪ませた。
「ま、そうなるよな」
「それしかない」
 宗史と晴は前を見据えたまま、声を揃えて言った。
「甘味禁止」
 報告を怠った樹への処分はそれ一択だ。
「一週間くらいか?」
「陽の誘拐が絡んでるからな、十日か二週間くらいじゃないか?」
「いやぁ、無理だろ。あいつの甘党異常だぞ」
「寮から死人が出るかもな。特に大河が危険だ」
「ほんっと、不憫な奴……。ああでも、怜司さんも知ってたんだろ。連帯責任で処分……え、怜司さんの処分って、何だ?」
 晴の困惑気味の質問に、宗史は虚をつかれた顔をした。
 酒は嗜む程度で煙草も吸わない。そういえば、特に趣味があると聞いた覚えがない。本は読むようだが、本の虫というほどでもなさそうだし、樹のように食べ物にこだわりがあるようでも、大河のように訓練に苦手分野があるようでもない。
 車内が沈黙に包まれた。
「……事件以上に難解だな」
 しばらくして神妙な面持ちでぽつりと呟いた宗史に、晴が低い唸り声を返す。当主陣がどんな処分を下すのか見物だ。
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