第17話

文字数 2,301文字

 向けられる、明らかな殺意。その禍々しさと迫力に気圧されて、腰が抜けそうになる。膝が小さく震え、美琴は机の天板に片手をついた。と、指に硬いものが触れた。本だ。さっきまで読んでいた本。
「ねぇ、美琴。お母さんのために、死んで?」
 この人は何を言っているのだろうと、素直に思った。
 一緒に遊んでくれたことも、出掛けたことも、褒めてくれたこともないのに。母親らしいことをしてくれたことなんて一度もなかった。自分のことばかりで、叱るどころか売春を容認した。娘の売春を容認する母親がどこにいる。楽しい思い出も、言葉も、笑顔も、愛情も。何も与えてくれなかった母のために、何故死ななければならない。
 急速に、頭が冷えた。
 美琴は細くゆっくり深呼吸しながら、自分に言い聞かせる。冷静に状況を把握しろ。今は、逃げることだけを考えろ。
 包丁を向けながらもなかなか近付いてこないのは、きっと霊符のおかげだ。不意をついて近付けば、驚いて勝手に避けてくれるかもしれない。もちろん確証はない。でも一か八か。このまま何もせずに殺されるなんてごめんだ。とにかく外に逃げて助けを――いや待て。助けを呼べば警察を呼ばれる。そのあとは? どうなる? これまでのことは児童虐待。今の状況は殺人未遂。逮捕されるのだろうか。そしたら児童相談所に連絡がいって、施設に入ることになる。でも、じゃあさらにそのあとは? そもそも、逮捕されなかったら?
 また、母との生活に逆戻りするのか?
 美琴はぐっと歯を食いしばり、手繰り寄せた本の背表紙を強く掴んだ。一拍置いて、弾かれたように素早く、かつ力任せに母へ向かって勢いよく投げつけた。同時に、持っていた生徒手帳をパーカーのポケットに押し込む。
「きゃ……っ」
 まさか反撃してくるとは思わなかったのだろう。母は悲鳴を上げ、とっさに腕で顔を庇った。一方美琴は、春休みの宿題の問題集や教科書やノートを両手で次から次へ投げつける。紙が煽られて、鳥が羽ばたくような音がいくつも部屋に響く。
「いた……っ、痛い! やめなさい!」
 教科書の角がどこかに当たったらしい。顔を庇ったまま声を荒げる母の声を聞きながら、美琴は掛けてあった制服をハンガーごとフックから外し、投げつけた。
「な……っ」
 ふわりと広がったスカートとブレザーが母の視界を覆うのを横目に、意を決して低い姿勢で駆け出した。
「待ちなさ、ひ……っ」
 制服を叩き落としながら、側を駆け抜けた美琴に向かって引き攣った悲鳴を上げた。大きく後ずさる。やっぱりだ。霊符で近付けない。美琴は部屋を飛び出し、居間の襖の前に置かれた電話台からコードレスの受話器をすり抜けざまに引っ掴んだ。数年前、当時使っていた物が壊れたのを機に、場所を取らないコンパクトで安価なコードレスタイプに変えたのだ。
 キッチンへ出て、母の部屋へ向かう。あそこは鍵が付いている。
「ま、待ちなさい!」
 我に返ったようだ。怒声を背中で聞きながら母の部屋へ飛び込み、勢いよく閉めて素早く鍵を掛ける。これで安心はできない。そう簡単に壊せないだろうが、念には念を。
「美琴、出てきなさい! 美琴!」
 どんどんと叩かれる扉の音を聞きながら、美琴は部屋を見渡した。母が出入りする時にちらりと中が見えるくらいで、一度も入ったことがなかった。
 六畳ほどのフローリング。奥の腰高窓はカーテンが閉められたままで薄暗い。窓際にシングルサイズのパイプベッドが置かれ、鏡台や小ぶりのタンスにハンガーラック、クローゼット。たくさんの化粧品やアクセサリーが鏡台を埋め尽くし、タンスの上には積み上がった靴の箱。ハンガーラックにはぎっしりと服が吊るされ、さらにその上には無造作に服が引っかけられ、下にはずらりと鞄が置かれている。クローゼットもあるのにこの様子なら、かなりの数の服や靴を持っているのだろう。店の客からの贈り物もあるだろうし、仕事で必要なのは分かるけれど。
 こっちは我慢しているのに、なんて恨み事を考えている場合ではない。美琴は言葉を飲み込んで、ひとまず受話器をポケットに突っ込んだ。扉は内扉だ。パイプベッドをずるずると引きずって扉と平行になるように移動させ、次はタンス。五段の木製だが、動かせないことはない。引き出しを少し出し、枠組みに手を掛けて引っ張り、壁から離す。積み上がった靴の箱が音を立てて崩れ落ちた。中身が入っているものもあったが、構っていられない。反対側に回り込んで両手で押すと、意外と簡単にフローリングの床を滑ってくれた。最後はハンガーラックだ。びっしり服が吊るされている分それなりの重さだが、キャスター付きなので気休めにしかならない。でも、ないよりはマシだ。息が切れ、額には汗が滲む。
 そうしている間にも扉は激しく鳴り続け、ドアノブはガチャガチャと金属音を鳴らす。
「言っとくけど警察なんて呼んだら承知しないわよ。開けろッ!」
 電話を持ち込んだことがバレている。早く、早くしなければ。この勢いだと本当に壊しかねない。パイプベッドを扉とタンスで挟む形でバリケードを作り終えると、美琴は全身で荒く息をした。鏡台は動かすと物が転げ落ちそうだから、他に動かせる物がない。
 仕方ない、これで何とか。早々に判断し、ポケットから受話器を引っ張り出しながら窓際へと下がる。
 自分では冷静だと思ったのに、体は素直だ。受話器を握った両手が震えて、上手く番号を押せない。落ち着け、落ち着け、落ち着け。大丈夫、何とかなる。何とかなるから。そう自分に言い聞かせ、暗記した番号をゆっくりでも確実に押していく。
 最後の一桁を押すと、呼び出し音が鳴った。
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