第17話

文字数 4,040文字

 光の中に、雅臣の姿が覗いた。横向きに倒れ、まるで何かに怯える子供のように体を丸めている。周りには、切り裂かれた擬人式神の残骸。バレることを警戒して、霊符代わりの擬人式神は調伏と結界の二体だけだったので、全て真っ白な擬人式神だけだ。
「う……」
 雅臣がぴくりと体を動かして、小さく呻き声を漏らした。
 悪鬼が雅臣の感情に反応するのなら、調伏されれば彼自身にも影響を及ぼす。邪気を浄化するよりも、はるかに苦しいだろう。だがそれは自業自得であり、雅臣も分かっていたはずだ。
 じゃり、と玉砂利を擦って、弘貴が一歩足を進めた。とたん、雅臣が弾かれたように我に返り、勢いよく体を起こした。独鈷杵を握って、しゃがんだまま後ろへ飛び退く。まだ調伏の後遺症が残っているのか、片膝を立てた体勢で苦しげに顔を歪め、全体で荒く呼吸をする。しかし、こちらを睨み上げる眼差しは鋭い。もう悪鬼はいないのに、この刺さるような敵意。まるで手負いの獣だ。
「お前さ」
 弘貴が一切怯むことなく口を開いた。
「悪鬼に頼ってるからこういうことになるんじゃねぇの?」
「弘貴、あんまり……」
 挑発するな、と言いかけた春平の言葉を遮るように弘貴が腕を上げ、びしっと指をさした。
「そういうのをな、虎のころもをかりるって言うんだぜ?」
 春平の思考と雅臣の動きが止まり、しん、と静寂が落ちる。どこから「ころも」が出てきたとか、もうひと言足りないんじゃないかとか、何でそんな間違った覚え方をしてるんだとか、突っ込みどころが満載だ。
 決まった、みたいなドヤ顔をしているところ悪いが。春平はすっと腕を持ち上げ、すうっと弘貴の腕を下ろした。
「それを言うなら、虎の威を借る狐……」
「そうそれ、狐!」
 弘貴には羞恥心というものがないのか。またしても堂々と言い放った弘貴に、春平は顔を覆って深く溜め息をついた。雅臣の憐みを含んだいたたまれない顔が見れない。敵に憐れまれてどうする。
「あのさ」
 春平の呆れ気味の溜め息も雅臣の憐みも意に介さず、弘貴は平然と続けた。このメンタルの強さは、羨ましいような羨ましくないような。微妙だ。
「もういいだろ。降伏しろよ」
 直球すぎる。それで降伏するならこんなに大ごとになっていない。春平は密かに遠い目をした。
「するわけないだろ」
 雅臣は口の端を吊り上げ、小馬鹿にするような笑みを浮かべた。弘貴が長い溜め息をつく。
「俺、ずっと聞きたいことがあったんだよ。お前、誰のためにこんなことしてんの?」
 率直な問いかけに、雅臣は答えなかった。
「いじめた奴らを恨むのは分かるけど、そいつらだけでよくね? 尊っつったっけ。あいつ以外は、もう全員いねぇんだろ。大河から聞いてるよな。尊もすげぇ反省してるみたいだし、あんたの彼女も、もう狙われることはねぇ。何でここまでする必要があるんだよ」
 弘貴らしい、真っ直ぐでシンプルな考え方だ。雅臣が堪え切れないといったふうに、はっ、と息を吐き出すように嘲笑した。
「それ、今は、だろ?」
「は?」
 端的な答えに、春平はなるほどと納得した。反対に弘貴は眉をひそめている。
「確かに、あいつらはもういない。河合尊も反省してるようだな。けど、今は、だろ」
 雅臣が、言いながらゆっくりと腰を上げた。
「日本の再犯率を知ってるか? 約四十九パーセント。二人に一人の受刑者が、出所後、懲りずにまた罪を犯してる。ああいう奴らは何度も同じことを繰り返すんだよ。今は反省してても、将来同じことをする確率が高い。それに、あいつらがいなくても奴らはウジ虫みたいに次から次に湧いてくる。この先、彼女が狙われない保障がない。この国の平和なんて上っ面だ。水面下で、何の罪もない人が何人も犠牲になってる。だから俺はこの計画に乗った。犯罪者や犯罪者予備軍がいなくなれば、犯罪はなくなる。悪鬼が支配する世の中になれば、皆、食われることを恐れて罪を犯さなくなる。これは、正しい者が正しく生きていくための世の中を作る戦いだ。例え、俺が犯罪者になったとしても」
 淡々とした語り口調とは裏腹に、その眼差しは驚くくらい真っ直ぐだった。これは、覚悟を決めた者の目だ。雅臣は、心の底からこの戦いは世の中を救うためのものだと信じている。
圧倒的な力に、人は成す術なく屈するだろう。どこにいるかも分からない、目には見えない悪鬼を恐れ、表立ってはもちろん、人目を避けてなんてこともできなくなる。犯罪件数は劇的に減少する。
 理屈は分かる。けれどそれは、恐怖政治そのものだ。ちょっとした嫉妬や怒りを感じることすらにも怯え、本来自由であるはずの自分の感情さえも抑圧されて生きていくことになる。力と恐れで支配された世の中が、本当に平和だと言えるのか。正しく生きていけるのか。そもそも、正しい者とは、正しい生き方とは、なんだ。
 春平はわずかに眉をひそめた。
 何だろう、この違和感。確かに、敵側の目的は実現可能だ。でも何故か腑に落ちない。他に何かが欠けているような、何かを見落としているような、そんなすっきりしない感じがある。
「うん、分かる」
 ぽつりと聞こえた肯定に、春平はぎょっとして弘貴を見上げ、雅臣は目を丸くした。
「お前の気持ち、俺もすげぇ分かる」
「ちょ……っ」
 何を言い出すんだ。春平が腕を掴むと、弘貴は「いいから、大丈夫」と微笑んだ。その顔がやけに落ち着いていて、春平は戸惑いながらも掴んだ腕を離した。
「俺馬鹿だからさ、お前が言う正しい人とか生き方とか、そういう難しいことは分かんねぇ。でも思うんだよ。紺野さんたちって、俺らみたいに術が使えるわけじゃない。刑事だからってのもあるんだろうけど、それでもさ、危ないって分かってて、自分たちができることを必死にやってる。多分、ほとんどの人がそうなんだよな。嫌なこととか悲しいことがあっても、皆、一生懸命生きてる。それって、強さだなって。すげぇ強くて、めっちゃかっこいいことなんだよ。その理屈で言ったら、お前もすげぇ強くて、かっこいいんだ」
 突然敵に褒められればそんな顔になるだろう。ぽかんと口を開けて呆気に取られていた雅臣が、怪訝そうに、というより気味悪そうに眉をひそめた。
「あ、もちろん自殺した人が弱いって言ってるんじゃないからな。俺は、自殺って最後の選択肢だと思ってるから、きっとそれまで頑張ってたんだよ。でも、最後の最後でぽきっと折れちゃって……」
 どう言っていいのか分からないらしい。えーと、と弘貴が頭を掻いた。
「何が言いたい」
 苛立たしげに雅臣が口を挟んだ。弘貴が気を取り直すように咳払いをする。
「お前は確かに強いよ。それは認める。でも、やってることはすげぇかっこ悪い」
 何でもないことのようにさらりと否定され、雅臣の眉間にますますしわが増えた。
「だってそうだろ。元々彼女を守るために強くなったんだろ。あと家族とか友達とか。それなのに悲しませてどうするんだよ」
 ぐ、と独鈷杵を握る雅臣の手に力がこもる。
「展望台でのこととか、お前の家族のことも全部聞いてる。会ったことはないけど、俺は、お前が犯罪者になって変えた世界をあの人たちが喜ぶとは思えねぇ。お前、ほんとに信じてんのかよ。悪鬼が支配すればあの人たちが幸せになれるって、本気でそう思うのかよ。大体、罪のないたくさんの人が犠牲になってるって言ったけど、影正さんと矢崎さんを殺したのお前らだろ。矛盾してんだよ、お前らがやってること」
 一気に言って、弘貴は息を吐いた。
 多分、弘貴の持論は過去や現在、全ての戦争に言えることだ。誰かのため、国のためと大義を掲げ、力を得ても、その裏で大勢の人が犠牲になり、悲しみ苦しんでいる。計り知れない犠牲を払ってでも成し遂げたい大義とは、一体どれほどのものなのか。どれほどの価値があるのか。
 弘貴の問いに、雅臣はすぐには答えなかった。何か考え込むように沈黙し、やがて、ふいと神苑へ視線を投げた。あちらの方が外灯で明るいため、華たちのあちこち動く姿がちらちらと木々の隙間から窺える。
「お前に言われなくても分かっている。それでも、俺たちはやり遂げなきゃいけない。正しく生きる者のために。だから――」
 雅臣は視線をこちらへ戻し、言った。
「多少の犠牲は必要だ」
 返す言葉を失った。――多少、と言ったか。
「お前……っ」
「弘貴!」
 もう条件反射だ。春平は我に返り、掴みかかろうとした弘貴の腕をとっさに掴んだ。雅臣が霊刀を具現化する。
「人の命を何だと思ってんだ! それが医者目指してた奴の言うセリフかよ、ふざけんなッ!」
「何とでも言え」
 冷ややかに返されて、弘貴が愕然として目を瞠った。
 かつては人の命を救う医者を目指していたのに、今では人一人の命を「多少」と言う。これはもう、何を言っても無駄だ。
 弘貴は目を見開いたまま、視線を地面に落した。やがて、怒りで強張っていた腕からすっと力が抜けた。
「そうかよ、分かった」
 落ち着いた低い声で、弘貴が呟いた。ゆらりと顔を上げ、真っ直ぐ雅臣を見据える。まるで別人のように落ち着いた眼差し。けれど強い意思がこもっている。これは、吹っ切れた顔だ。
「そこまで覚悟決めてんなら、こっちも手加減なしだ。いいな、春」
 弘貴も雅臣も、覚悟を決めている。短く問われ、春平は掴んだままの腕から手を離し、ゆっくりと深く息を吸い込んだ。
 思い出せ。
『私たちの許へ来ないか。君の力を貸して欲しい』
 宗一郎の言葉は、存在意義を与えてくれた。生きる意味を与えてくれた。
『俺はさ、春は陰陽師に向いてると思うぜ』
 昨夜、弘貴は部屋に来てそう言った。何故そう思うのか、答えは聞けていない。迷いも弱さも、まだ自分の中でくすぶっている。でも今は信じる。いつも側にいてくれた、親友の言葉を。
「うん」
 雅臣を正面から見据え、強く頷いた春平に、弘貴が満足げに口角を上げた。突如、神苑から犬神の遠吠えが一帯に響き渡り、雅臣がにっと歪な笑みを浮かべた。
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