第5話

文字数 4,382文字

 そして、昴が三つ、紺野が高校三年生の時だった。
 週末のある日、両親が朱音を訪ねると、外にまで昴の泣き声が響き渡っていた。何ごとかと合鍵を使って駆け込んだ先には、虚ろな眼差しで空を見つめる朱音と、そんな朱音にすがりつく昴の姿があった。そして、テーブルの上には、離婚届。所々涙で濡れた跡が残る離婚届には、双方の署名と捺印がされており、三宅の荷物だけがなくなっていた。
 どう見ても異常な様子に、両親は朱音を連れて病院に駆け込んだ。部活動に参加していた紺野にも連絡が入り、大慌てで病院に駆け付けた。
 そして三宅は、どうやら実家に戻っていたらしい。慌ただしくする中、酷く動揺した三宅の父親から連絡が入り事情を説明すると、やがて引き摺られるようにして家族と共に病院に姿を見せた。両親は、あの子たちが一体何をしたって言うんだ、と三宅を激しく責め立てた。
 何度も何度も、涙ながらに頭を下げて謝罪する家族を横目に、ただ呆然と立ち尽くす三宅を見て堪忍袋の緒が切れた。紺野は力任せに殴り付け、胸倉を掴んで吐き捨てた。
「いい年こいて何が幽霊だ、ふざけんな。俺はお前を絶対に許さねぇからな」
 突き飛ばすようにして手を離すと、三宅は後ろへよろけ、足をもつれさせて尻もちをついた。怯える理由や離婚の理由があまりにもくだらなさすぎて、その分怒りも凄まじかった。
 それは紺野らだけでなく、三宅の家族も同じだった。情けない、恥ずかしい、臆病者、無責任。口々に責められながらもなお反論する素振りを見せない三宅に、愛想が尽きたと言わんばかりに成美が言い放った。
「いい加減にしなさいよ。蔵に閉じ込められた時のことまだ引き摺ってんの? そんなくだらないことで二人を追い詰めたって言うの? 情けない! あたし、あんたと縁切るから、二度とあたしの前に顔見せるなッ!」
 大粒の涙をこぼしながらまくしたてるなり、俯いた三宅の頭を殴り付けてその場を立ち去った。
 三宅は子供の頃、親戚の家にある蔵に一晩閉じ込められたことがあるらしく、幽霊嫌いになったのはそれかららしい。もしかして何か見たのかもしれない。
 怖いものや苦手なものは、誰にでもある。しかし、だからといって自分の妻子をその対象として恐れ、挙げ句の果てに離婚の理由にするなんて。
 両親は、何故もっと早く別れさせなかったのかと、自分たちを責め悔やんだ。また三宅の家族は、何かと理由を付けてあちらにはまったく顔を出していなかったらしく、朱音が気丈に振る舞っていたこともあり、三宅が戻ってくるまで一切事情を知らなかった。頻繁に連絡を取り合っていた成美はもちろん、三宅の両親も、何故気付かなかったのか、あまりにも情けないと言って自分たちを責めた。
 週末だったため専門医がおらず、しかしおそらく心因性疾患だろうと診断が下された。環境の変化や過多なストレス、ショックなどに心が追い付かず、上手く処理できずに躁鬱、無気力、閉じこもりなどと言った症状を引き起こす「心の病気」だそうだ。後日、改めて専門医の診察を受けても、同じ診断結果だった。
 その後、離婚が成立。三宅の両親は、慰謝料として入院費や昴の養育費を支払うと申し出たが、両親はそれを頑なに拒否した。あとから知らされたことだが、それでも三宅の両親は、月に一度、少しずつのお金を現金書留で送ってきていたらしい。迷惑だと受け取りを拒否し続け、次第に送られてくることはなくなったそうだ。
 しばらくして、朝辻夫婦が昴を引き取りたいと言ってきた。
「もちろん今すぐというわけじゃないよ。ゆっくり、昴くんの様子を見ながら、考えてもらえないかな」
 朝辻夫婦は足繁く紺野家に通い、ゆっくり時間をかけて昴と交流を深めていった。
 一方、朱音は入退院を繰り返し、紺野はといえば、高校卒業と同時に警察学校へ入った。入校して三週間は、週末の外出すら許されていない。理由ははっきり教えてもらえなかったが、ここで耐えるか逃げ出すか、ふるいにかけているのではないかともっぱらの噂だった。これ以降は毎週末の外出が許されているが、それも成績いかんによる。朱音や昴のこともあり、否が応でも気合いが入った。土、日のうち一日は友人らと会い、残り一日は朱音の見舞いに行って昴と遊ぶのが習慣になった。時折、看護師から成美が見舞いに来たと聞いた。わざわざ大阪からと思ったが、一度退院をして以降の再入院では聞かなくなった。入退院しているとは思わなかったのだろう。
 そして二年後、昴は朝辻家の養子となった。両親はもちろん、紺野も警察官として働きながらちょくちょく朝辻神社へ通った。
 さらに月日は過ぎ、今から六年前。昴が十四歳の時、朱音が入院先の病院で首を吊り自殺した。
 突然のことだった。それまで一切の反応を見せなかった彼女が、何故その時になって命を絶ったのか。医師や看護師も、そんな兆候はなかったと言った。理由は、誰にも分からなかった。
 その後、父の提案で動物保護施設からてまりを引き取った。すでに成犬だったてまりは穏やかな優しい性格で、気落ちした母を慰めるようにいつも寄り添っていた。
「あの頃は、くだらない理由で姉と昴を捨てた最低な奴だとしか思っていませんでした。ですが――多分、三宅も悩んだのではないかと。今は、そう思います」
 他人から見ればくだらなくても、本人にとっては真剣な悩みなどいくらでもある。
 周囲からくだらないと責められ、そうかもしれない、自分が弱いから、情けないからだと自身を責めた。だから三宅は、あれほど二人を怖がっていたわりには、すぐに離婚に踏み切らなかった。また病院に来た時の三宅はまさに茫然自失で、抜け殻のようだった。結婚の許しを得るために挨拶に来た時、三宅は何度も何度も頭を下げた。真摯な態度で、聞いているこちらが恥ずかしくなるほど、朱音への想いと、共に人生を歩む決意を熱く語った。昴が生まれた時は泣いて喜び、とても慈しんでいた。それは間違いない。
 昴の名は、三宅が付けたと聞いている。「昴」は何百個の星がまとまってできた星団で、元々は「()ばる」という言葉が使われており、一つになるという意味があるらしい。偉大な人にならなくていい、有名にならなくていい、大勢の中の一人でも、ただたくさんの人に囲まれて、輝くような笑顔で幸せな人生を歩んで欲しい。そんな願いが込められているのだと、朱音は嬉しそうに話してくれた。
 三宅は確かに、朱音と昴を愛していた。
 だからこそ、悩んだのではないか。自分の弱さと、妻子への愛情の狭間で。けれど結局、弱さに勝てなかった。
「ですが、だからと言って許せるかと聞かれれば、許せません。許す気もありません」
 許すことは強さだと言うけれど、それが真実なら、三宅を許せない自分は弱いのだろう。その弱さに勝てない自分は、三宅と同じだ。だが、彼を許すくらいなら、弱くても構わないと思う。
 こんな自分は、憎しみに囚われているのだろうか。
「正直、成美さんたちや今の家族から疑われても仕方がないと思っています。でも、あんなことがあって、三宅とはもちろん、成美さんたちとも一切連絡を取っていないですし、再婚していたことも、今初めて知りました。うちの両親もそうだと思います。憤慨ぶりはかなりのもので、二度と関わりたくないと言っていましたから。豊さんたちは、祖父の葬儀に参列していましたし、昴のことは祖母から多少聞いていたようですが、三宅のことはほとんど話していません。昴にいたっては顔すら覚えてないでしょう。俺たちも話しませんでしたし、写真なども全部処分したと聞いています」
 再婚していてもおかしくないとは思うが、こうして実際耳にすると、どんな理屈を捏ねても腹立たしくないわけがない。くだらない理由で朱音と昴をあんなに追い込んでおいて、自分はのうのうと再婚し、子供まで作っている。もちろん相手の女性や子供は何も悪くない。だが、三宅は一体どんな気持ちで再び家庭を持ち、また三宅の家族、特に成美はそれをどう思ったのだろう。それとも、もう過去の苦い思い出として忘れ去ってしまったのだろうか。
 紺野はすっかり冷めた残りのコーヒーを飲み干し、長く息を吐いた。
「紺野さん、それは違います」
 北原の強い口調に、紺野は瞬きをした。
「三宅のご家族は、朱音さんのことがあったとはいえ当たり前、だと思うんですけど、三宅が殺されたと聞いてかなりショックを受けていたそうです。でもそれ以上に、特に成美さんが、昴くんと朱音さんのことを聞いて号泣し、取り乱したらしいです。その様子から、本当に連絡を取っていなかったと判断したみたいです」
「……そうか」
 あんなに責めて、酷い関係の絶ち方をして十五年以上。それでも、まだ泣いてくれるのか。
「それと、捜査員に何か吹き込まれたんでしょう。紺野さんや昴くんが疑われていると知って、激しく反論したそうです。あの人たちはそんなことはしないと」
 紺野は目を丸くした。三宅自身がトラブルを抱えていないのなら、疑ってもいいはずなのに。むしろ、他にいないと言われても仕方がないのに。
「紺野さん。成美さんたちは、紺野さんたちのことをこれっぽっちも疑っていませんよ」
 諭すような優しい声色に、紺野は唇を結んだ。北原のくせに生意気な。
 大きく息を吸って、ゆっくりと吐き出す。気を立て直して話題を変えた。
「成美さんたち、今どうしてるんだ」
「ご両親ともご健在です。成美さんはご結婚されて、三人の男の子がいるそうです」
「男ばっかり三人か。大変だろうな」
 思わずふっと噴き出し、昴がやんちゃな子供たちを相手に四苦八苦している姿を想像してしまった。本来なら、そんな未来があったはずなのに。成美が夢見た未来が、夢で終わらなかったはずなのに。
 北原が続けた。
「成美さんたちは、離婚の理由を、身内の恥を晒すようで言えなかったのか、あるいは紺野さんたちに余計な疑いをかけたくなかったのか分かりませんが、紺野さんのお母さんと同じで、価値観の不一致だと証言したそうです。その内容についても、夫婦間のことを根掘り葉掘り聞くほど野暮じゃない、知らないと突っぱねたらしいです。成美さんが」
 念を押すように付け加えられた一言に、思わずふっと噴き出した。三宅と違って気が強い女性だと思っていたが、刑事にも臆さなかったか。彼女らしい。
 そうか、と紺野は息をつき、自ら口にした。
「これから先、昴への疑いは濃くなるな」
 ええ、まあ、と北原がぎこちなく同意した。三宅はトラブルを抱えておらず、過去に因縁があった家族とは一切の連絡を取っていない。となると、所在が分からない昴が疑われるのは当然だ。だが、昴がどうやって三宅のことを知ったのか疑問は残る。この先の捜査はそこに重点が置かれるだろう。
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