第13話

文字数 2,551文字

「話をする前に、着替えておいで。ああ、紅茶とコーヒー、どちらが好きかな」
「え? えっと、紅茶、です」
 分かった。そう微笑んで、明はあの白い人形を回収して洗面所から出た。ぼんやりする頭を抱えて着替えを済ませて顔を洗い、何故か濡れている床をタオルで手早く拭いてから部屋へ戻った。
「座って」
「あ、はい」
 テーブルの上には、紅茶の入ったマグカップと、明の前にコーヒーと例の白い人形が置かれている。
「砂糖は?」
「いえ……。ありがとうございます」
 祖母は、コーヒーよりも紅茶が好きだった。朝食がパンの時は必ず淹れてくれて、ティーバッグも茶葉を使った淹れ方も、祖母から教わった。亡くなってから何度か自分で淹れたが、切らして以降はお金がないこともあって、一度も淹れていない。
 促されるがまま明の隣に腰を下ろし、湯気が立つマグカップを持ち上げる。湯気と共に上がってくるのは、祖母が好んで飲んでいたメーカーのオリジナルブレンドだの香りだ。ゆっくりとカップに口を付け、一口だけ含む。懐かしい香りと味に、ふと肩の力が抜けた。
 細く息を吐き出したところで、明が静かに口を開いた。
「落ち着いた?」
 こくりと頷くと、明は微笑んで頷き返した。
「さっそくで申し訳ないが。先程の、陰陽師だという僕の言葉、信じるかい?」
 ああ、そうか。脳みそがゆっくりと回り始める。美琴は両手でマグカップを包み込んだまま、濃い赤褐色の液体に目を落とした。
 陰陽師。歴史の授業で習っているけれど、だからといってはいそうですかと信じるほど子供ではない。しかし、ならばあの白い人形はどう説明する。糸で操っている様子はなかった。そもそも、彼が嘘をつく理由が分からない。まさか、陰陽師を語った宗教の勧誘? 何かしらの方法で白い人形を操って見せて、あれは神の力ですとか何とか言って信じ込ませる。とか? では、何故白い人形は濡れていた? テーブルに置かれた白い人形は、もう動いていない。信じ込ませたいのなら、こちらが確認した時点で説明した方が効果的なのではないか。そもそも、子供を勧誘などするだろうか。
 分からない。目的も、彼が本当は何者なのかも。ただ、疑問はあるけれど、心のどこかで彼を信じたいと思う自分がいる。そうでないと、こんなわけの分からない状況でのんきに紅茶なんて飲んでいられない。
 ゆらゆらと揺れる液体は、自分の心を映し出したようだ。覚悟を決めたはずなのに迷い、信じたいのに信じられない。信じるにせよ信じないにせよ、もっと決定打があれば。
 じっと俯いたままの態度を答えと取ったのだろう。明が「では」と言って内ポケットに手を差し入れ、細長い紙切れを一枚、テーブルの向こうへ放り投げた。
「閃」
 そうひと言口にしたとたん、紙切れの周りに渦を巻いた真っ白な煙が現れた。ぎょっとして身を引く。マグカップの中で、紅茶が波を立てた。
 白い煙はあっという間に質量を増しながら縦に伸び、やがて隙間からちらりと紺色の布が覗いた。と思ったら、煙が下から上へ一気に引いて跡形もなく消えた。姿を現したのは、紺色の着物を纏った長身の男。
 一体何が起こったとか、どこから来たとか、どんな仕掛けがとか、そんなことを考える余裕などなかった。完全に思考が停止した。
 男が、閉じていた瞼をゆっくりと持ち上げた。見えた深い紫色の瞳と視線が合って、思わず体が硬直した。透き通るような美しい瞳。胸の奥まで見透かされそうだ。
「閃、使いを」
 明の声ではっと我に返る。閃はこの男の名前らしい。
 彼は心得たようにすっと腕を持ち上げ、手のひらを上へ向けた。すると、どこからともなく透明な液体が集まり、驚く暇もなく形を成した。手のひらサイズの、青い龍。
 もう頭が追いつかない。一体、目の前で何が起こっているのだ。
 目を丸くして、ぽかんと口を開け、文字通り呆然とする美琴へ、閃がゆっくりと指先を向けた。龍がするりと離れ、空中を滑る。
 目が離せなかった。尾を揺らしながら近付いてくるのは、紛れもなく龍。美琴は無意識にマグカップをテーブルに置き、両手を掲げた。手のひらの上で止まった龍を、観察するようにじっと見つめる。
 ぱっと見は可愛らしいが、髭も角も鋭い爪もたてがみも、鱗の一つ一つまで。細部にわたって見事に再現されて、手のひらサイズでも雄々しい。しかもこれは、水だ。水の塊で作られている。
 美琴は閃へ視線を投げた。煙の中から現れて、どこからともなく水龍を作りだした。こんなの、人ができることではない。
 と、いうことは――。
「あの……っ」
 興奮気味に振り向くと、明はにっこり微笑んで頷いた。
「紹介しよう。彼は水神の眷族で、僕の式神だ。名は閃」
「しき、がみ……」
 不意に、関谷の話を思い出した。一年生の時、平安時代の単元で安倍晴明の逸話を話して聞かせてくれたのだ。式神を操っていただの妖狐の子だの死人を生き返らせただの、そんな話し教科書には載っていない。あくまでも逸話として語り継がれているだけだ。でも。
「本物の陰陽師と、神様……?」
 今まさに、目の前で陰陽術を見た。神の力を目にした。これで信じられないわけがない。
 美琴は視線を水龍へ戻し、気を取り直すように何度も瞬きをした。まさか現実で、しかも現代に陰陽師が存在するなんて。しかもそれを自分が目撃するなんて。
 驚きと興奮で水龍を眺めていると、明がいたたまれない声で言った。
「閃。無言で非難するのはやめてくれないか。これでも反省しているんだ」
「……そうか」
「そうだよ」
 間があったな、と嘆息する明と、無表情で彼を見据える閃。交互に見やると、明が視線に気付いて苦笑いを浮かべた。白い人形に目を落とす。
「これは擬人式神と言って陰陽術の一つなんだが、三体はやり過ぎだと言いたいんだよ。確かに、一体でも十分かなとは思ったけど」
 明は一旦言葉を切って、美琴へ視線を戻した。
「きちんと、君の力を確認しておきたかった」
「力……?」
 反復すると、閃が再び手のひらを上へ向けた。水龍が美琴から離れ、閃の元へ飛んだ。
「ご苦労だった。戻ってよい」
 水龍にそう話しかけたとたん、全身から水蒸気が立ち、形が失われていく。完全に消えてから閃がテーブルの向こうに正座し、さてと明が改めて口を開いた。
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