第8話

文字数 3,719文字

 午後十一時。
 自室で最後のひと筆を描き終え、宗史は静かに息を吐いた。
 L字型のデスクには、同じ護符が数枚並んでいる。一般人なら、一人に数枚の護符を渡すことはない。しかし、結界や破邪の法、霊符を扱えるようになったとはいえ、いつ何時大河が無意識に護符を発動させるか分からないため、渡しておいて損はない。
 本音を言うと早く自分で描けるようになって欲しいところだが、陰陽術と体術だけでなく学校の宿題もこなさなければならない彼に、あまり無理強いはできない。この短期間であれほど成長したことだけでも、心強いと言えば心強いのだから。
 側に置いた硯の中には、まだ磨った墨が残っている。宗史はノートパソコンの側に置いてある卓上カレンダーに視線を投げた。
『お前は、気付いただろう?』
 試すようにそう問われ、洗いざらい喋った自分の推理。
 いくら宗一郎たちの推理とほぼ同じだったとしても、正解だとは限らない。あくまでも推理なのだ。けれど、もし当たっているのならば、おそらく数日のうちに事態は動く。樹と怜司が遭遇した事件も、その前兆だろう。となると、大河には常に霊符を携帯しておけと言っておかなければならない。
 地天を含めた全部の霊符を描いて渡しておくか。
 その前に、と宗史は一旦筆を硯に置き、両手を組んで伸びをした。
 部屋には墨の匂いが充満している。腰を上げて窓辺に立ち、ゆっくりと窓を開けた。エアコンで冷え切った空気と入れ替わるように、緩やかに真夏の湿気た風が流れ込んでくる。
 幼い頃から嗅ぎ慣れた墨の匂いは、嫌いではない。けれど、さすがに風呂を済ませた後に染みつくのは避けたいところだ。
 宗史は微かに漆黒の髪を揺らし、ついと視線を上げた。
 柴と紫苑に監視されている――見事に的中だ。とは言え、未だ彼らの思惑は読めない。宗史はわずかに眉を寄せ、窓枠についた手を握り締めた。
 彼らにどんな思惑があろうと、こちらに協力する意思があろうとなかろうと、大河はこれから先、きっと酷く傷付くことになる。それは、この事件がどんな結末を迎えても、変えられない運命。
 それでも、大河の力が必要だ。
『大河くんを連れてくるか否か、お前が判断しなさい』
 あの言葉を受け、自分が判断して京都に連れてきた。傷付けると分かっておきながら、ほんの数日で立ち直った強さと、略式を独学で会得した資質に頼った。だから、何としてでも守り抜かなくてはならない。
 一人の少年を犠牲にしなければ解決しないこの事件。敵の真の目的は、一体何だ。
 宗史はゆっくりと息を吐き、窓を閉めた。と、携帯が着信を知らせた。晴だ。椅子に腰かけ、通話する。ぬるくなった空気を冷やそうと、エアコンが低く唸って強く風を吐き出した。
「どうした?」
 開口一番そう尋ねると、長く息を吐き出す音が返ってきた。煙草か。
「あー、特に何ってわけじゃねぇんだけど」
「じゃあ何でかけてきた。切っていいか」
「待て待て待て。冷てぇな、お前は」
「今、霊符を描いてるんだよ」
「大河のか」
「そう――」
 宗史は一旦言葉を切り、机の上に並べた護符に視線を投げて言った。
「今日のこともあるし、霊符を携帯させておいた方がいいと思ってな」
 だな、と呟くような返事は、言葉の裏の意味を察した風に聞こえた。さすがに気付いたか。晴がどの程度推理しているかは知らない。けれどおそらく、同じように明から聞かれているはずだ。合格点だったのかどうかは微妙なところだが。
「それで?」
 こんな時間にわざわざ電話をかけてきておいて、何もないわけがない。一体何の用だ。
 宗史が促すと、長く紫煙を吐く息がして、しばらく間が開いた。
「平気か?」
 唐突に告げられた気遣う言葉に、宗史は目を丸くした。こいつは本当に。
 驚いているのか呆れているのか、自分でもよく分からない長い息を吐きながら肩の力を抜き、椅子の背にもたれる。
「大丈夫だ、心配ない」
 そうか、とそっけない返事は、けれどどこか安堵したような声だった。普段は粗暴なくせに、こんな時だけ妙に気が回る。ある意味厄介な男だ。
「覚えてたのか」
「俺あの時高校生だぞ、そりゃ覚えてるだろ。それに、おじさん大激怒だったからな。後にも先にも、あの人があんなに怒ったの見たことねぇから。正直、めっちゃ怖かったわ」
「普段あれだからな」
 言えた、と晴は低く喉を鳴らして笑った。
 昼間、大河の話を聞いて脳裏をよぎったのは、思い出したくもない忌々しい記憶だった。
 宗史が中学三年、桜が小学六年生の時だ。彼女たちは、いじめではなく嫌がらせのつもりだったらしい。ちょっと困らせようと思ったと。しかしその軽い気持ちが、桜の命を危険に晒した。家族を、奪われかけた。
 病院に到着すると、主治医は言った。覚悟をしておいてください、と。そう告げられた時の、一瞬にして視界が暗闇に覆われたような絶望感は、まだ心の奥底でくすぶっている。
「晴」
 宗史は俯き、抑揚のない口調で言った。
「今からでも全力で呪詛をかけてやろうかと思うんだが」
「ぜんっぜん大丈夫じゃねぇじゃねぇかお前!」
「駄目か」
「駄目に決まってんだろ! やめろ馬鹿!」
「そうか……」
 残念そうに呟いた宗史に、電話の向こうで晴が盛大に溜め息をついた。
「お前、ほんっと桜のことになると見境無くなるな」
「悪いか」
「悪いっつーか、限度があるだろ」
「知るかそんなこと。桜に手を出した奴らに仏心は必要ない」
「お前が言うと洒落に聞こえねぇからやめろっつってんだよ!」
「洒落じゃない、本気だ」
「物騒なこと言い切るんじゃねぇ!」
 お前はほんとに、と再度盛大な溜め息と共に聞こえた晴のぼやきに、宗史はわずかに口角を上げた。
「晴」
「あ!?」
「お前の方、最近調査の指示出てるか」
 脈絡なく変えた話題に、ゆっくりと紫煙を吐く息が返ってきた。
「いや、出てねぇ。お前は」
「俺もだ。紺野さんたちからの報告は?」
「滋賀の件以降は聞いてねぇな」
「やっぱりか……」
 宗史は再度カレンダーに視線を投げる。ずっと違和感を覚えていた。大河が京都へ戻って一週間、一度として調査の指示が出ていないのだ。
 鬼代事件が起こってから向小島へ行くまでの間、宗史と晴には千代(ちよ)の骨を探せとの指示が出ていた。何の手がかりもなくただ探せと言われてもな、と不満を抱えつつ手始めに京都市内を駆けずり回った。
 犯人が絞り込めない状況で、調査は困難を極めた。
 使える伝手を最大限に使い、式神らの手を借り、時間と足を使い、有り得ないという考えを捨てありとあらゆる場所を捜索した。刑事って大変だよな、と晴がしみじみ言った。
 一方で、寮の皆にも指示が出ていた。哨戒中、異常な邪気や大量の悪鬼が漂っていないか注意を払うようにと。さらに氏子代表らも、その立場から持つ情報網を駆使したが目ぼしい情報は得られなかった。
 加えて、滋賀の件の報告以来、紺野たちからの情報は何も聞いていない。しかも目新しい情報はこれと言ってなかった。もちろん、犬神の件についてもだ。警察とは言え、証拠物件がなければ後にも先にも進めない。ということは、通信機器や防犯カメラなどから何も出てこなかったのだろうか。
「まあ、犬神の件はともかく、今さら骨の行方を追っても意味ないか」
「もう復活してんだろうしな」
 そもそも、千代の骨を追えという指示は、千代の復活阻止が目的だった。樹と怜司が遭遇した事件から、千代が復活していると判明した以上、手遅れだ。もう一冊の文献に関しても、一年、ないしはそれ以前に盗まれていたのなら、すでに証拠隠滅で処分されているかもしれない。
 ただ、千代が復活していると判明したのはつい先日。それまでも指示が出ていないということはつまり、公園襲撃事件以降、宗一郎たちは後手に回ることを選んだことになる。白い鬼の出現がそうさせたのか、そうせざるを得なかったのか。あるいは――。
「それにしてもさぁ」
 晴が訝しげな声で口を開いた。
「お前、あれ気付いただろ。そろそろ手ぇ打たねぇとヤバいんじゃねぇの?」
「ああ、気付いたか」
「さすがにな」
「俺たちには今のところ何も指示が出ていないからな。何か考えがあるんだろうとしか言えない」
 あの宗一郎と明のことだ、むしろすでに手を打っている可能性の方が高い。
 これまでで一番長い息を吐いて、晴は重苦しい口調で言った。
「俺さぁ、調査の仕事もそうだけど、すっげぇ嫌ぁな予感すんだよなぁ……」
 あえてはっきり口にしない晴の心境は分かる。
「この状況で好き嫌い言ってる場合じゃないだろう」
「そういうお前が一番危ねぇだろ」
「やめろ、考えたくない」
 今度は二人同時に長い溜め息が漏れた。気を取り直すように晴が一服した。
「んじゃ、邪魔して悪かったな。また明日な」
「ああ、おやすみ」
 おお、と軽い返事が届き、すんなり通話が切れた。
 宗史は待ち受け画面を眺めて携帯を机に置くと、一呼吸置いて筆を手に取った。

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