第7話

文字数 3,692文字

 扉が閉められると、下平はゆっくり立ち上がり、エアコンを切ってから榎本へ歩み寄った。肩を竦めて身じろぎ一つせず、じっと机に視線を落とす榎本の背後から肩に手を乗せる。
「榎本、ちょっと来い」
 言い置くと、榎本はしぶしぶといった様子で立ち上がった。
 沈黙したままの榎本を連れて会議室を出ると、下平はコーヒーとアイスミルクティーを自販機で購入し屋上へ向かった。いつもなら、一服してないで早く聞き込みに行きましょう、と急かすのに、今ばかりは黙ったまま後ろをついてくる。
 屋上のアルミ扉を開けたとたん、むっとした空気が押し寄せた。頭上といわず足元からも熱気が上がってくる。靴底を通して火傷しそうだ。
「まあ座れ」
 促すと素直に腰を下ろした榎本にアイスミルクティーを差し出す。反射のように手を出して受け取った。下平は向かいのベンチに座り、まずはプルタブを開けてコーヒーを喉に流し込んだ。ポケットから煙草を取り出し、使い捨てライターで火を点ける。深く吸い込んで、長く吐き出したところで榎本が我に返った。
「あ……、えっと……」
 気が付いたら手の中にありました、といった様子だ。アイスミルクティーと下平をせわしなく交互に見る。
「お金を」
「いい。大人しく奢られろ」
 駄目ですそんなの、と言い返してこないところを見ると、新井に言われたことが相当堪えたようだ。ありがとうございますと礼を言って、素直にプルタブを開ける。一口飲んで、静かに息を吐いた。
 細い指先でもてあそぶように缶の水滴をなぞり、榎本がぽつりと口を開いた。
「あたし……、刑事にむいてないんでしょうか……」
 力のない、思い詰めた声。下平は小さく息をついた。
「お前、うちに配属されて四カ月目だな」
 脈絡のない話題に榎本は視線を上げ、眉をひそめてええと頷く。
「ちょうど、自分にこの仕事はむいてないかもって思う時期だ。これまで色んな新人を見てきたが、結構多いぞ。そういう奴。新井もその一人だった」
「え?」
 榎本が目をしばたき、下平は背を持たれて視線をコンクリートの床に落とした。
「あいつな、お前と昔の自分を重ねてんだよ。あいつが警察官になったのは、お前と同じ理由だ。昔、父親が仕事帰りに若い連中に襲われたらしくてな。当時はおやじ狩りなんて呼ばれてた。中高年の男性を集団で襲って金品を奪う、路上強盗だ。父親は暴行されて入院を余儀なくされた。犯人は五人組の少年少女で、ちょうど新井と同じ年の奴らだったんだ。しかもそいつら全員補導歴があって、鑑別所送りになったらしい。それをきっかけに警察官を志したらしいんだが……」
 下平が言葉を切って視線を上げると、榎本は察してバツが悪そうに視線を逸らした。
「もしかして、新井さんも……?」
 ぼそりと尋ねられ、下平はああと肯定して煙草をくわえた。
 先日、喜多川に昔の失態を暴露された立場としては、人の失態を話すのは気が引ける。新井も知られたくはないだろうが、あの言葉を榎本に言ったということは、そういうことだと解釈してもいいのだろう。
 下平は長く紫煙を吐き出して言った。
「あいつがうちに配属されてすぐの頃にな、小学生を標的にした連れ去り事件が起きたんだよ」
 語り始めた下平に、榎本が顔を上げた。
 それは夕方頃、公園で遊んでいる少年少女が連れ去られるという事件だった。被害者は全員外傷もなく、近くの路上や神社で置き去りにされていたところを無事保護された。被害者は、相手は中・高校生くらいの少年だったと証言した。防犯カメラに犯人の顔は映っておらず、被害者の証言を元に似顔絵が作成された。後日、聞き込みを行うと一人の少年が被疑者として浮上した。彼には数度の補導歴があり、高校を中退後、自動車整備工場で働いていた。しかし、事件が起こった日時には工場にいたと複数の証言が取れ、アリバイが成立。彼は被疑者から外され、捜査はふりだしに戻った。
 だが、新井は彼を疑い続けた。
 結局、犯人は別の人物だと判明し事件は幕を下ろしたが、新井がしつこく周囲を嗅ぎまわったせいで彼は工場内で孤立。あらぬ噂を立てられ、自ら退職願を出した。
「アリバイが成立した時点で疑うことをやめていれば、彼は信頼を失うことも、仕事を辞めることもなかった。それまで築き上げてきたものを、彼は一度に失ったんだ。俺たちは、そういう仕事をしてるんだよ」
 眉尻を下げ、視線を泳がせて俯いた榎本を下平は煙越しに見やり、短くなった吸い殻を灰皿に放り込んだ。
 たかが補導歴とは言えない。そのまま道を踏み外してしまう者もいる。けれど、少なくとも彼は真面目に働き、職場での評判も良かったのだ。 反省し、更生しようとしていた少年の人生を変えてしまった。
「彼が仕事を辞めたと知った新井は、散々悩んで警察官を辞めようとしていた。その前に、奴なりのけじめだったんだろうな。彼の元へ行って何度も頭を下げた。その時、彼は言ったそうだ。これは親や他人に散々迷惑かけた報いだ。自業自得かもしれない。でも、今の俺を見てくれる人はどのくらいいるのかな、ってな」
 榎本は両手で強く缶を握り締めた。
「それと、こうも言ってたらしい。悪いと思ってるなら、俺みたいな奴をたくさん助けて、次は信じてやって欲しい」
 新井は、彼はまるで自分が警察官を辞めようとしていることを知っているようだったと言った。彼がそんなことを知る術はない。おそらく、これから先、自分と同じ境遇の奴らに同じ思いをさせたくないと、そんな気持ちで言ったのだろう。けれど新井には、警察官を辞めるなと言われているように聞こえた。
 目を丸くして、榎本はゆっくり顔を上げた。
「お前の気持ちは分かる。繰り返し罪を犯す奴がいるのも事実だ。それに警察官っつっても人間だ、ロボットじゃねぇ。完全に私的な感情をなくすことはできん。犯罪への憎しみが原動力になってるのも否定しない。だがな榎本」
 ふと、昨日の話が脳裏をよぎり一旦言葉を切ると、下平は改めて榎本を真っ直ぐ見据え、力強く告げた。
「絶対に使いどころを間違えるな。憎しみに囚われて、目を曇らせるな。いいな」
 榎本が、頬を引っ叩かれたような顔をした。そして何か考え込むように、呆然としたままの顔で目を床に落とした。
 一方、下平は新しい煙草に火を点けた。上空に向かって吐き出した煙は、晴れ渡った夏空へ吸い込まれるようにゆらゆらと昇り、次第に消えていく。
 雅臣や健人と同じように、榎本も憎しみに囚われている。ただ違うのは、榎本が向こう側に行くことは決してないという部分だ。襲われた時、助けに入った彼らの優しさに触れ、感謝し、今なおそれを覚えているのなら心配ない。
 だからこそだからこそ、目を曇らせてしまうのはあまりにも勿体ないのだ。犯罪を憎みつつも人の優しさを知り、誰にも傷付いて欲しくないと思う彼女は、これからもっと成長する。人としても、刑事としても。
 下平が横に置いていた缶コーヒーを手に取ると、時間が止まったように静かだった榎本が、おもむろに一気にアイスミルクティーを煽った。ごくごくと喉を鳴らして飲む様子を、目をしばたきながら眺める。
 榎本はぷはっとオヤジよろしく息を吐き出して唇を結ぶと、勢いよく立ち上がった。そして下平を見下ろし、がばりと頭を下げた。
「ありがとうございます!」
 屋上に気合いの入った声が響いた。勢いに気圧されて滑り落ちそうになった缶コーヒーを慌てて持ち直す。
「お、おう」
 下平がそれだけ答えると、榎本は体を起して、少し気まずそうに俯いて言った。
「顔、洗ってきます」
「ああ……行って来い」
「失礼します」
 泣いてはいなかったようだが、気を立て直すためだろう。会釈をして身を翻した榎本を見送り、下平は息をついた。と、榎本が思い出したように振り向いた。
「下平さん、先に車で待ってます。早く来てくださいね。もう一本吸っちゃ駄目ですよ!」
 しっかり釘を刺し、ひらひらと手を振った下平を確認すると、榎本は少々不安顔を残して屋上から出て行った。
 一人残された下平は、コーヒーを飲んで煙草をくわえた。煙を吸い込みながら背をもたれ、吐き出した煙を目で追いかける。
「……憎しみに、囚われるな」
 ぽつりと口の中で呟く。
 刀倉影正が大河に残した言葉は、どうやら自分の中でも一つの大きな指針となりそうだ。彼は、どんな人だったのだろう。
「会ってみたかったな」
 会って、直接話しを聞いてみたかった。
 下平は目を伏せ、息を吐き出すと体を起こした。あまり悠長に吸っていると電話がかかってきそうだ。
 立て続けに吸って吸い殻を灰皿に放り込み、残りのコーヒーを飲み干して腰を上げる。今頃、新井たちは聞き込みに精を出している頃だ。できるだけ広範囲でと言った手前、班長である自分がサボるわけにはいかない。
「つーかあいつ、俺が言った言葉そのまま言いやがった」
 新井が榎本に言った言葉は、かつて下平が新井に言ったのだ。
「……まあいいか」
 覚えていてくれただけでも光栄だ。ここは新井の顔を立てるとするか。
 下平は喉の奥で笑いながら、屋上をあとにした。
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