第3話

文字数 3,200文字

 気が付けば、震えが収まっていた。少しだけ滲んだ涙が恥ずかしくて、大河はぎゅっと独鈷杵を握って俯いた。これ以上口を開くと、涙がこぼれそうだ。
「あと、風ちゃんのことだけどね」
 影唯が手を離し、苦笑いした。
「厳しいことを言うなら、これでしばらく大人しくしてくれるんじゃないかな。いい薬っていうには、かなり苦かっただろうけど」
「そうなのよねぇ。だからこれからのことを考えると、気にしなくていいのよって言えなかったわ。それに、前に沙知(さち)さんが言ってたの。もう少しおしとやかにならないかしらって」
 沙知は風子の母親だ。あの元気さは手を焼くだろうねぇ、大河も似たようなものだったけど、と言ってのんきに笑い合う二人に、大河たちから困ったような苦笑いが漏れた。
 これからのことを考えていたのは尊敬するけれど、殺されかけたというのに、この両親は。本当にどこまでのんきで、鋼鉄の心臓なのだろう。
 敵わないな。大河は口の中で呟いて、気を取り直すように大きく息を吐き出した。そうだ。
「宗史さん、大丈夫?」
「ああ、心配ない。少し休めばすぐに回復する。俺より、お前の方がよほどだと思うけど」
「え?」
「腕。悪鬼にやられたんだろ」
 晴に言われてやっと思い出し、大河は腕に目を落とした。逆さ吊りのまま下へ伸ばしたり、結界同士をぶつけたりと動かしたせいだ。肩から手首まで血の跡がべったりと残っている。しかも何度も枝葉に飛び込んだためあちこち擦り傷や切り傷がある上に、ものすごく腕が重い。
 アドレナリン大放出のおかげでほとんど痛みを感じていなかったのに、自覚したとたん、傷みが一気に腕全体に広がった。力が抜けて、今にも独鈷杵を落としそうだ。
「忘れてたのに……っ」
 言わないで欲しかった。これでもかと顔を歪めて、何とか腕を持ち上げて独鈷杵をポケットに押し込む。忘れるか普通といった溜め息と、雪子のあらあらとのんきな声が重なった。鈴に治癒してもらえるとはいえ、息子の怪我を見てその反応はのんきすぎる。
 うう、と苦悶の声を漏らす大河に、影唯が不憫そうな顔で「もう少し我慢しなさい」と背中を叩いた。
「色々聞きたいこともあるだろうけど、とりあえず家に戻ろうか。怪我の手当てもあるし、お風呂も沸かさないと」
 お風呂と聞いて、志季が血まみれの顔を輝かせた。それを見た紫苑が不気味そうに顔を歪め、刀の回収へ向かう。
「影唯さん、こんなあとに志季の我儘を聞かなくてもいいですよ」
「そうそう。薪で焚くのって大変そうだし」
「おま……っ」
 お前ら余計なこと言うな、とはさすがに言えないようだ。ぎりぎりと歯噛みして憎らしげに宗史と晴を睨みつけ志季を見て、影唯はいやいやと首を横に振った。
「もう水は溜めてるし、それに、こんなあとだからこそだよ。ゆっくりお風呂に入った方が、疲れも取れるから」
 ね、と言って笑った影唯に嘆息したのは鈴だ。
「そこまで言うのなら、仕方あるまい」
 一つぼやいて畑へ視線を投げると、様子を窺うようにふわふわと浮いていた火の玉が一斉にすいと宙を滑り、鈴を取り囲んだ。おそらく精霊だろう。
「お前たち、すまなかったな。犠牲を出してしまった」
 一つに手を添えて悲しげに眉を下げると、火の玉が慰めるように鈴の頬へすり寄った。瞳の紫と赤が混ざって、透明感のある綺麗な赤紫色に輝く。
「そうか、感謝する。悪いが、もうひと仕事頼めるか。影唯について、風呂を沸かしてやってくれ。他のものは戻ってよい。ご苦労だった」
 火の玉は返事をするように上下し、三つほど残して次々と消えていく。残った火の玉が影唯の回りをくるりと一周し、早く来いと言わんばかりに家の方へ飛び去った。
 それを見送る鈴の横顔は、とても穏やかで、優しい目をしている。
「いいのかい?」
 影唯が戸惑い気味に火の玉と鈴を交互に見比べる。
「ああ。普通に火をくべるより早かろう。薪だけは入れてやってくれ」
「分かった、ありがとう助かるよ。じゃあ、先に戻ってるね」
「待ってお父さん。あたしも戻るわ。皆、小腹空いてるでしょ。何か用意するわね」
 何がいいかしらと言いながら、小走りに去っていく二人の背中を見送る。
 なるほど。徐々に火力を上げるより、火の玉に一気に燃やしてもらった方が確かに早いだろう。こんなあとで手間と時間のかかる作業をやらせるのは忍びないと――思ったのかどうかは正直分からない。何せ、神は総じて風呂好きらしいのだから。鈴も薪の風呂の方が好きなのかもしれない。
 半々かな、と思いつつこっそり鈴の横顔を盗み見ていると、志季がうーんと伸びをした。
「んじゃ、俺らもぼちぼち戻るか。晴、宗史貸せ。運んでやるよ」
「貸せとか言うな。俺は物じゃない」
「へーへー、失言でしたー」
 これっぽっちも反省が見えない棒読みだ。渋面を浮かべつつも、素直にお姫様だっこをされるところを見ると、よほど辛いらしい。
 誰ともなしに、全員がゆっくりと足を進める。鈴が先行し、大河、柴、紫苑。後ろに宗史ら三人が続く。
 大河は、隣を歩く柴をちらりと一瞥した。
「柴、さっきは怒鳴ってごめん。気を使ってくれたのに」
 俯きがちに告げた大河を、今度は柴が一瞥した。
「気にするな。仕方のないことだ」
 ほっと息をつき、今度は柴の向こう側にいる紫苑に目をやる。
「紫苑も、ごめん……」
 紫苑は、柴の気遣いに気付いていたのだ。怒るのも無理はない。情けない顔の大河に、紫苑はふんと鼻を鳴らした。
「分かったのなら良い」
 尊大な口調だが、ひとまずほっとする。と、しまった。すっかり忘れていた。
「文献!」
 唐突に叫んではたと足を止め、慌てて畑を見渡す。どの辺りに落としたのかさっぱりだ。
「おいおい、落としたのか? せっかく回収したのに何やってんだよ」
 全員が足を止め、晴の苦言を聞きながらぐるりと見渡す。
「それなら、ここに」
 そう言って、柴が懐から文献を取り出した。そんなところに。一斉に安堵の息が漏れる。
「よかった。ありがと」
 大河は受け取ろうと腕を上げかけて、諦めた。腕だけブリキになったように動きが悪い。これは筋肉疲労どころか筋肉痛だろうか。しばし見つめ合い、
「……持っててもらえる?」
 大河の悲哀に満ちた目を見て察したのか、柴は小さく頷いて懐にしまった。隣で呆れ顔の紫苑が溜め息をつく。
「その様子じゃあ、また筋肉痛かぁ?」
「今度こそ樹さんにどやされるな」
「ちょっ、報告しないでよ!? 鈴、前も思ったんだけど、治癒って筋肉痛に効く? 効くよね?」
 ぜひとも効いて欲しいと顔に書いた大河を無表情で見下ろし、鈴は首を傾げた。
「さて、どうだろうな。試したことがないので分からん」
「じゃあやって、試しに! あっ!」
 落としたといえば。
「騒がしい奴だな。今度は何だ」
 顔をしかめたのは紫苑だ。
「独鈷杵! 独鈷杵も落とした!」
「お前はあれこれ落としているな」
 鈴が溜め息をつく。
「それもさっき拾ってきたぞ」
 低く笑って晴がポケットから取り出した独鈷杵を見て、何度目かの安堵の息をつく。
「ありがとう」
「でも、もういらねぇだろ。影綱の独鈷杵あるんだし」
 ほら、と言って宗史に渡される独鈷杵を目で追いかける。確かに、驚くほど使い心地がよかった。けれど。
「宗史さん」
「うん?」
「それ、まだ借りててもいい?」
 思いがけない申し出に、宗史と晴と志季が小首を傾げた。
「構わないが……、どうした?」
「うん……」
 歯切れ悪く答えて視線を泳がせた大河に、三人は鈴と柴と紫苑を見やる。鈴が短く息をついた。
「その辺りのことも、戻ってからだ」
 行くぞと促され、ひとまず揃って坂を登る。志季が畑を見渡して言った。
「それにしてもあいつら、寮の庭といいここといい、好き勝手やってくれるよなぁ」
「まったくだ。影唯と雪子が丹精込めて育てたというのに。罰当たりな」
 しかめ面でぼやいた二柱に、大河は何度も大きく頷いた。
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