第15話
文字数 5,167文字
現場は、依頼者が経営する中古楽器店。一階がピアノ専用フロアで、二階がその他弦楽器や管楽器、三階がピアノ以外の修理フロアになっている。さすがにピアノを三階まで運ぶのは困難なため、専用の修理場を別に借りているらしい。
到着すると、店の前にスーツ姿の中年の男性が一人立っていた。白髪交じりの髪は丁寧にセットされ、清潔感と品がある。いかにも接客業をしていそうな風体は、店主の江口だ。
店の前の駐車スペースに並んで停める。先に下りた怜司が江口に会釈をしながら挨拶を交わした。
「こんばんは。土御門家から依頼を受けて参りました。里見と申します」
「ああ……どうも……」
江口は戸惑った顔で四人を見渡した。
「貴方たちが……?」
先日の警備員と同じ反応だ。陰陽師だの霊能力者だのと聞くと、どうやらもっと年上を想像するらしい。そしてそんな反応をされるのは慣れているらしく、宗史と同じように怜司も「はい、何か」と尋ね返した。
「ああ、いえ。あ、こちらです」
怜司の冷めた口調は初対面では人を圧倒するようだ。江口は少々委縮しながら入口へと促した。
俺の時は初対面があれだったからなぁ、と大河はあの日のことを思い出しながら、先行する樹と怜司に続いて店舗に足を踏み入れた。
あの日以来、怜司に奇行を思わせる行動は見られないが、何せあの樹とコンビを組み言い負かすような人だ。油断は禁物だ。いっそ樹とコンビを組んでいること自体が奇行かもしれない。
明かりが灯った広い店内に入ると、一面に敷かれたベージュの絨毯を二分するように、幅広の赤い絨毯が入口から真っ直ぐ奥へと伸びていた。両脇には客を出迎えるようにピアノが整然と並んでいる。ピアノの並びから見て、通路は錨 の形になっているようで、壁とその隙間を埋めるようにピアノが展示されているようだ。ピアノの屋根の上にはメーカーや特徴、仕様、価格が印字されたポップが置かれている。
大河は赤い絨毯を踏みながら、ちらりと横目でポップを見やった。さすがに奥のものまでは見えないが、グランドピアノの価格に目が飛び出すかと思った。
270万、570万、600万、740万なんて物もある。目眩がしてきた。ピアノそのものに興味がない大河からすれば、一台にうん百万もかけるなんて信じられない。どこの金持ちだ。こういうものを使うのは、やはりプロを目指している人たちなのだろう。
ていうかもし悪鬼化して戦闘なんてことになったらどうすんだ、と先日の光景が脳裏に蘇った。あんな戦闘をこんな所で繰り広げたら、確実にピアノに傷が付く。やっぱり弁償するのだろうか。ピアノ一台の修理費はどのくらいするのだろう。
大河は嫌な想像をかき消すように頭を振った。樹も怜司もいる、華だって。きっと間髪置かずに速攻で調伏してくれる。はず。多分。
先を進むと、正面には壁に沿ってグランドピアノが並び、赤い絨毯は左右に折れている。
江口は左に足を進めた。向かう先には通路を挟んで衝立が左右二つ並んでおり、向こう側には木製のテーブルと椅子が設置してある。契約を交わす時に使用されるのだろう。そして突き当たりには「スタッフルーム」のプレートを貼られた扉が一つある。
その手前、壁側の衝立の手前には、光沢のあるベージュのカバーをかけられたピアノが一台、一線を画すように置かれていた。
江口はそのピアノの前で足を止めて振り向いた。
「こちらです」
「拝見しても?」
「はい」
怜司の要求に、江口はピアノをぐるりと回りながらゆっくりとカバーを引いて剥がした。
黒塗りのボディは指紋一つ見当たらないほど丹念に磨き上げられ、照明を反射して小さな光を放っている。脚柱 の細工にも埃一つ落ちていない。全体が、まるで黒い鏡のようだ。
「綺麗……」
ぽつりと華が呟いた。
「本来なら、売り物でないものは店舗に置かないのですが、修理場の方に置いておくのも気が引けまして」
そう言って江口は眉尻を下げた。
正直言って、大河の目には他のピアノとなんら変わりないように見える。確かに綺麗だが、ピアノ自体ではなく単純に磨かれているからだ。
華の目には、どんなふうに映っているのだろう。
「怜司くん、見える?」
不意に樹が口を開いた。
「いや、今のところは。待機か?」
「そうするしかないねぇ」
溜め息交じりに樹が判断を下した。
「どこか待てる場所はありますか」
「あ、はい。スタッフルームでしたら」
「十分です、お願いします。それと、店内の照明を落としていただけますか」
「分かりました。では、こちらへ」
江口は衝立の向こう側にある扉へと足を向けた。先に行く樹と怜司とは違い、華はどこか名残惜しそうにピアノに視線を投げたまま、後に続いた。
やっぱり、ピアノ弾けるんだろうな。そうでないと、こんなに後ろ髪を引かれるような顔はしない。大河は華の後ろに続きながら、扉をくぐった。
「どうぞ、奥へ」
江口はそう促し、自分は右手の壁に取り付けてあるブレーカーの扉を開いて店舗の照明を落とし、持っていたカバーを丁寧に畳んで事務机に置いた。
スタッフルームは、縦長の空間を二つに仕切った、事務所兼休憩室になっているらしい。入ってすぐには、事務机が四台にスチール製の棚、コピー機、タイムレコーダーと普通の事務所だ。その奥のスペースには、長机が二つとパイプ椅子、小型の冷蔵庫と流し台、背の低いレンジ台には電気ポットにインスタントコーヒー、カップなどが収納されている。
しかし何よりも一番に目に飛び込んでくるのは、休憩スペースの奥の壁に設えてある、びっしりと楽譜が詰め込まれた天井まで届く巨大な棚だ。
「コーヒーでよろしいでしょうか。インスタントですが」
「ありがとうございます、いただきます」
怜司が礼を告げ、各々が腰を下ろした。このまま彼女が姿を現すまでじっと待つしかないのか。しかし、店舗では目撃されていないし、時間も定まっていない。
どうするんだろう、と考えながらも気になるのは、隣に座った華だ。しきりに巨大な棚にちらちらと視線を投げている。しかも棚側に大河が座ったものだから、自分が見られている気になってしまい、どうにも落ち着かない。
「ちょっと華さん、そんなに気になるなら見せてもらいなよ。こっちが落ち着かないでしょ」
腕を組んだ樹が、鬱陶しそうに眉をひそめて言った。えっでも、と華が戸惑いの声を漏らした。
樹の言葉を受けて、流しに立っていた江口が振り向いた。
「ああ、どうぞご覧になってください。古いものばかりですが面白いですよ」
笑顔で勧められ、華は恐縮しながらもじゃあと言って席を立った。棚の前に立つと、左端からゆっくりと首を動かし始めた。
「まったく、らしくないの」
湯が湧く音を聞きながら、樹がぼやいた。いつもの華と様子が違うことに、二人も気付いているようだ。気になる楽譜を見つけたのか、華が棚に手を伸ばし、丁寧にページをめくる音がした。
「あ、そうだ。樹さん、怜司さん」
口を開いた大河に二人が視線を向けた。
「さっきの、怜司さんに見えるかって聞いてたのって、何なんですか?」
見えるだけなら皆同じだ。けれど樹は、わざわざ怜司に尋ねた。
「そうか。大河くんは知らないんだっけ。怜司くんね、異常に見えるんだよ」
端的過ぎてよく分からない。首を傾げた大河に、怜司が補足した。
「霊力をコントロールしてもやたらと見えるんだよ。大河は悪鬼の影響を受けやすくて、俺は全般的に見えやすい」
「あ、なるほど。怜司さんはどうやって防いでるんですか?」
「これ」
樹が指をさした。
「眼鏡?」
眼鏡が護符の代わりということだろうか。でもどうやって。大河が首を傾げると、怜司は眼鏡を引き抜いてつるの部分を見せた。
「よく見てみろ」
そう言われてじっと見つめると、文字には見えないが、かろうじて図形には見えるものが印字されているのが分かる。
「何ですか? これ」
「サンスクリット語だ」
「え?」
影正のノートに書いてあった。真言の前半は、インドや南、東南アジアにおいて用いられていた古代語のサンスクリット語で、ヒンドゥー教の礼拝用言語でもあると。
「これがそうなんだ……じゃあ、これ真言?」
「そう。明さんが贔屓にしてる眼鏡屋で作ってもらったんだ」
言いながら怜司は眼鏡をかけ直した。
「印字でも効果があるんですね」
「完全に見えなくなると仕事にならないから、簡易的な印字で十分なんだよ」
「へぇ。てことは、もしかしてその眼鏡伊達ですか?」
「いや、俺は元々視力が弱いから度が入ってる。でも、明さんは伊達だ」
「ふーん……えっ!」
突然叫んだ大河の声に驚いて、コーヒーを運んできた江口がびくりと体を震わせて立ち止まった。華の方は楽譜に夢中だ。
「すみません大丈夫ですかっ」
「ああ、大丈夫ですよ。ちょっとびっくりしましたけど。どうぞ」
「すみません、ありがとうございます」
二度目の謝罪をしながら、華の分も受け取った。オフィスでよく使われている、黒のカップホルダーに白のインサートカップをセットしたカップを四つ、テーブルに並べていく。一緒にフレッシュと砂糖、使い捨てのマドラーが置かれ、樹が手を伸ばした。
「華さん、コーヒー入りましたよ」
大河がそう声をかけたが、華から返事はない。よほど夢中なのか。
「放っておきなよ。どうせ時間あるんだし、華さんが一つのことにあんなに集中するの珍しいし。よっぽど楽しいんでしょ」
言いながら樹は二本目の砂糖を投入した。
「そう、ですね……」
依頼書の時間を参考にするなら確かに時間はある、たっぷり。だが、砂糖はたっぷりすぎやしないか。三本目の砂糖を投入した樹を、大河と江口が唖然とした顔で眺める。
「ちょ、樹さん、いくらなんでも入れ過ぎじゃ……」
「そう?」
首を傾げながらもまた手を伸ばした。甘党というより中毒なんじゃないかこの人。
「お前、将来絶対糖尿になるな」
「訓練で全部消費してるから大丈夫だよ」
そういう問題なのか。江口が空笑いを漏らした。依頼者に気を使わせてどうするんだ。
「明さん、伊達眼鏡なんですね」
伊達眼鏡なんてお洒落アイテムだとばかり思っていたが、そんな使い道があるとは新発見だ。
本当は砂糖を入れたかったのだが、樹の奇行ですでに口の中が甘い気がする。大河はブラックのままコーヒーに口をつけて話を戻した。江口が自分の分のコーヒーを持って一番近い事務机の椅子に腰を下ろす。
「ああ。あの人は俺以上に見えてるんじゃないか?」
「やっぱり当主ってなるとレベルが違うんですね」
「お前が言うと説得力ないな」
「同感。あんな結界張れるくらいの霊力量だもんね。ねぇ、またやって見せてよ」
「嫌ですって。俺が宗史さんと晴さんに叱られるんですよ」
「いつものことでしょ」
「どういう意味ですかっ」
間違ってないでしょ、とにやけ顔でコーヒーをすする樹をひと睨みし、大河はカップを置いた。いつもではない、たまにだ、たまに。
それにしても、今朝の早朝訓練の時とはえらく雰囲気が違う。あの静かに放たれていた刺々しい空気は一体何だったのか。
まああれで機嫌が直ったのならいいけど、と大河は背もたれに背を預けた。休憩なしで二時間の訓練は確かにきつかったが、指導そのものはいつも通り的確だった。おかげで、独鈷杵はまだまだだが、破邪の法はほぼできるようになった。死ぬかと思ったが。
「それにしてもさぁ」
樹が頬杖をつきながら言った。
「出る条件って、結局何なの?」
仕事の話題に反応した華が振り向いた。
問題はそこだ。こうして待つのは構わないが、時間も定まらず姿を現す条件も分からない。打つ手がない。大河はボディバッグから依頼書を引っ張り出してテーブルに置いた。
「何度か読み直したんだが分からない」
顎に手を添えて怜司が唸るように呟いた。
「ピアノに憑いてるのに、ここでは目撃されてないんだよね。他に何か情報があればいいんだけど……」
そう言いながら江口へ視線を投げた樹に倣い、大河たちも顔を向けた。江口は困った表情を浮かべ、うーんと唸って腕を組んだ。
「待つしかないかぁ」
何も出てこないと察したのか、頬杖をついていた腕を枕にし、樹はテーブルの上に突っ伏した。
深夜の時間帯に、ピアノの前に現れる真っ赤なワンピース姿で泣く女性。そもそも若くして亡くなった原因は何なのだろう。どこの誰なのかさえ分かれば何か手立てがあったかもしれないが。
到着すると、店の前にスーツ姿の中年の男性が一人立っていた。白髪交じりの髪は丁寧にセットされ、清潔感と品がある。いかにも接客業をしていそうな風体は、店主の江口だ。
店の前の駐車スペースに並んで停める。先に下りた怜司が江口に会釈をしながら挨拶を交わした。
「こんばんは。土御門家から依頼を受けて参りました。里見と申します」
「ああ……どうも……」
江口は戸惑った顔で四人を見渡した。
「貴方たちが……?」
先日の警備員と同じ反応だ。陰陽師だの霊能力者だのと聞くと、どうやらもっと年上を想像するらしい。そしてそんな反応をされるのは慣れているらしく、宗史と同じように怜司も「はい、何か」と尋ね返した。
「ああ、いえ。あ、こちらです」
怜司の冷めた口調は初対面では人を圧倒するようだ。江口は少々委縮しながら入口へと促した。
俺の時は初対面があれだったからなぁ、と大河はあの日のことを思い出しながら、先行する樹と怜司に続いて店舗に足を踏み入れた。
あの日以来、怜司に奇行を思わせる行動は見られないが、何せあの樹とコンビを組み言い負かすような人だ。油断は禁物だ。いっそ樹とコンビを組んでいること自体が奇行かもしれない。
明かりが灯った広い店内に入ると、一面に敷かれたベージュの絨毯を二分するように、幅広の赤い絨毯が入口から真っ直ぐ奥へと伸びていた。両脇には客を出迎えるようにピアノが整然と並んでいる。ピアノの並びから見て、通路は
大河は赤い絨毯を踏みながら、ちらりと横目でポップを見やった。さすがに奥のものまでは見えないが、グランドピアノの価格に目が飛び出すかと思った。
270万、570万、600万、740万なんて物もある。目眩がしてきた。ピアノそのものに興味がない大河からすれば、一台にうん百万もかけるなんて信じられない。どこの金持ちだ。こういうものを使うのは、やはりプロを目指している人たちなのだろう。
ていうかもし悪鬼化して戦闘なんてことになったらどうすんだ、と先日の光景が脳裏に蘇った。あんな戦闘をこんな所で繰り広げたら、確実にピアノに傷が付く。やっぱり弁償するのだろうか。ピアノ一台の修理費はどのくらいするのだろう。
大河は嫌な想像をかき消すように頭を振った。樹も怜司もいる、華だって。きっと間髪置かずに速攻で調伏してくれる。はず。多分。
先を進むと、正面には壁に沿ってグランドピアノが並び、赤い絨毯は左右に折れている。
江口は左に足を進めた。向かう先には通路を挟んで衝立が左右二つ並んでおり、向こう側には木製のテーブルと椅子が設置してある。契約を交わす時に使用されるのだろう。そして突き当たりには「スタッフルーム」のプレートを貼られた扉が一つある。
その手前、壁側の衝立の手前には、光沢のあるベージュのカバーをかけられたピアノが一台、一線を画すように置かれていた。
江口はそのピアノの前で足を止めて振り向いた。
「こちらです」
「拝見しても?」
「はい」
怜司の要求に、江口はピアノをぐるりと回りながらゆっくりとカバーを引いて剥がした。
黒塗りのボディは指紋一つ見当たらないほど丹念に磨き上げられ、照明を反射して小さな光を放っている。
「綺麗……」
ぽつりと華が呟いた。
「本来なら、売り物でないものは店舗に置かないのですが、修理場の方に置いておくのも気が引けまして」
そう言って江口は眉尻を下げた。
正直言って、大河の目には他のピアノとなんら変わりないように見える。確かに綺麗だが、ピアノ自体ではなく単純に磨かれているからだ。
華の目には、どんなふうに映っているのだろう。
「怜司くん、見える?」
不意に樹が口を開いた。
「いや、今のところは。待機か?」
「そうするしかないねぇ」
溜め息交じりに樹が判断を下した。
「どこか待てる場所はありますか」
「あ、はい。スタッフルームでしたら」
「十分です、お願いします。それと、店内の照明を落としていただけますか」
「分かりました。では、こちらへ」
江口は衝立の向こう側にある扉へと足を向けた。先に行く樹と怜司とは違い、華はどこか名残惜しそうにピアノに視線を投げたまま、後に続いた。
やっぱり、ピアノ弾けるんだろうな。そうでないと、こんなに後ろ髪を引かれるような顔はしない。大河は華の後ろに続きながら、扉をくぐった。
「どうぞ、奥へ」
江口はそう促し、自分は右手の壁に取り付けてあるブレーカーの扉を開いて店舗の照明を落とし、持っていたカバーを丁寧に畳んで事務机に置いた。
スタッフルームは、縦長の空間を二つに仕切った、事務所兼休憩室になっているらしい。入ってすぐには、事務机が四台にスチール製の棚、コピー機、タイムレコーダーと普通の事務所だ。その奥のスペースには、長机が二つとパイプ椅子、小型の冷蔵庫と流し台、背の低いレンジ台には電気ポットにインスタントコーヒー、カップなどが収納されている。
しかし何よりも一番に目に飛び込んでくるのは、休憩スペースの奥の壁に設えてある、びっしりと楽譜が詰め込まれた天井まで届く巨大な棚だ。
「コーヒーでよろしいでしょうか。インスタントですが」
「ありがとうございます、いただきます」
怜司が礼を告げ、各々が腰を下ろした。このまま彼女が姿を現すまでじっと待つしかないのか。しかし、店舗では目撃されていないし、時間も定まっていない。
どうするんだろう、と考えながらも気になるのは、隣に座った華だ。しきりに巨大な棚にちらちらと視線を投げている。しかも棚側に大河が座ったものだから、自分が見られている気になってしまい、どうにも落ち着かない。
「ちょっと華さん、そんなに気になるなら見せてもらいなよ。こっちが落ち着かないでしょ」
腕を組んだ樹が、鬱陶しそうに眉をひそめて言った。えっでも、と華が戸惑いの声を漏らした。
樹の言葉を受けて、流しに立っていた江口が振り向いた。
「ああ、どうぞご覧になってください。古いものばかりですが面白いですよ」
笑顔で勧められ、華は恐縮しながらもじゃあと言って席を立った。棚の前に立つと、左端からゆっくりと首を動かし始めた。
「まったく、らしくないの」
湯が湧く音を聞きながら、樹がぼやいた。いつもの華と様子が違うことに、二人も気付いているようだ。気になる楽譜を見つけたのか、華が棚に手を伸ばし、丁寧にページをめくる音がした。
「あ、そうだ。樹さん、怜司さん」
口を開いた大河に二人が視線を向けた。
「さっきの、怜司さんに見えるかって聞いてたのって、何なんですか?」
見えるだけなら皆同じだ。けれど樹は、わざわざ怜司に尋ねた。
「そうか。大河くんは知らないんだっけ。怜司くんね、異常に見えるんだよ」
端的過ぎてよく分からない。首を傾げた大河に、怜司が補足した。
「霊力をコントロールしてもやたらと見えるんだよ。大河は悪鬼の影響を受けやすくて、俺は全般的に見えやすい」
「あ、なるほど。怜司さんはどうやって防いでるんですか?」
「これ」
樹が指をさした。
「眼鏡?」
眼鏡が護符の代わりということだろうか。でもどうやって。大河が首を傾げると、怜司は眼鏡を引き抜いてつるの部分を見せた。
「よく見てみろ」
そう言われてじっと見つめると、文字には見えないが、かろうじて図形には見えるものが印字されているのが分かる。
「何ですか? これ」
「サンスクリット語だ」
「え?」
影正のノートに書いてあった。真言の前半は、インドや南、東南アジアにおいて用いられていた古代語のサンスクリット語で、ヒンドゥー教の礼拝用言語でもあると。
「これがそうなんだ……じゃあ、これ真言?」
「そう。明さんが贔屓にしてる眼鏡屋で作ってもらったんだ」
言いながら怜司は眼鏡をかけ直した。
「印字でも効果があるんですね」
「完全に見えなくなると仕事にならないから、簡易的な印字で十分なんだよ」
「へぇ。てことは、もしかしてその眼鏡伊達ですか?」
「いや、俺は元々視力が弱いから度が入ってる。でも、明さんは伊達だ」
「ふーん……えっ!」
突然叫んだ大河の声に驚いて、コーヒーを運んできた江口がびくりと体を震わせて立ち止まった。華の方は楽譜に夢中だ。
「すみません大丈夫ですかっ」
「ああ、大丈夫ですよ。ちょっとびっくりしましたけど。どうぞ」
「すみません、ありがとうございます」
二度目の謝罪をしながら、華の分も受け取った。オフィスでよく使われている、黒のカップホルダーに白のインサートカップをセットしたカップを四つ、テーブルに並べていく。一緒にフレッシュと砂糖、使い捨てのマドラーが置かれ、樹が手を伸ばした。
「華さん、コーヒー入りましたよ」
大河がそう声をかけたが、華から返事はない。よほど夢中なのか。
「放っておきなよ。どうせ時間あるんだし、華さんが一つのことにあんなに集中するの珍しいし。よっぽど楽しいんでしょ」
言いながら樹は二本目の砂糖を投入した。
「そう、ですね……」
依頼書の時間を参考にするなら確かに時間はある、たっぷり。だが、砂糖はたっぷりすぎやしないか。三本目の砂糖を投入した樹を、大河と江口が唖然とした顔で眺める。
「ちょ、樹さん、いくらなんでも入れ過ぎじゃ……」
「そう?」
首を傾げながらもまた手を伸ばした。甘党というより中毒なんじゃないかこの人。
「お前、将来絶対糖尿になるな」
「訓練で全部消費してるから大丈夫だよ」
そういう問題なのか。江口が空笑いを漏らした。依頼者に気を使わせてどうするんだ。
「明さん、伊達眼鏡なんですね」
伊達眼鏡なんてお洒落アイテムだとばかり思っていたが、そんな使い道があるとは新発見だ。
本当は砂糖を入れたかったのだが、樹の奇行ですでに口の中が甘い気がする。大河はブラックのままコーヒーに口をつけて話を戻した。江口が自分の分のコーヒーを持って一番近い事務机の椅子に腰を下ろす。
「ああ。あの人は俺以上に見えてるんじゃないか?」
「やっぱり当主ってなるとレベルが違うんですね」
「お前が言うと説得力ないな」
「同感。あんな結界張れるくらいの霊力量だもんね。ねぇ、またやって見せてよ」
「嫌ですって。俺が宗史さんと晴さんに叱られるんですよ」
「いつものことでしょ」
「どういう意味ですかっ」
間違ってないでしょ、とにやけ顔でコーヒーをすする樹をひと睨みし、大河はカップを置いた。いつもではない、たまにだ、たまに。
それにしても、今朝の早朝訓練の時とはえらく雰囲気が違う。あの静かに放たれていた刺々しい空気は一体何だったのか。
まああれで機嫌が直ったのならいいけど、と大河は背もたれに背を預けた。休憩なしで二時間の訓練は確かにきつかったが、指導そのものはいつも通り的確だった。おかげで、独鈷杵はまだまだだが、破邪の法はほぼできるようになった。死ぬかと思ったが。
「それにしてもさぁ」
樹が頬杖をつきながら言った。
「出る条件って、結局何なの?」
仕事の話題に反応した華が振り向いた。
問題はそこだ。こうして待つのは構わないが、時間も定まらず姿を現す条件も分からない。打つ手がない。大河はボディバッグから依頼書を引っ張り出してテーブルに置いた。
「何度か読み直したんだが分からない」
顎に手を添えて怜司が唸るように呟いた。
「ピアノに憑いてるのに、ここでは目撃されてないんだよね。他に何か情報があればいいんだけど……」
そう言いながら江口へ視線を投げた樹に倣い、大河たちも顔を向けた。江口は困った表情を浮かべ、うーんと唸って腕を組んだ。
「待つしかないかぁ」
何も出てこないと察したのか、頬杖をついていた腕を枕にし、樹はテーブルの上に突っ伏した。
深夜の時間帯に、ピアノの前に現れる真っ赤なワンピース姿で泣く女性。そもそも若くして亡くなった原因は何なのだろう。どこの誰なのかさえ分かれば何か手立てがあったかもしれないが。