第13話

文字数 4,643文字

 忌引き休暇が明けた初日。
 先生たちも生徒たちもこれまで通りに接してくれたが、腫れ物に触るような態度が垣間見えた。先生たちはもちろん、生徒たちは職員室で先生が話しているのを聞いたとか、保護者同士のネットワークなど、噂はどこからか漏れる。また藤木麻里亜は目を落とし、視線を泳がせ、一度として目を合わせようとしなかった。
 仕方がないと思った。しばらくすれば戻るだろうと。周囲も気を使うだろうが、こちらも気を使う。必死に笑って平静を装った。
 妙に長く感じた一日が終わり、茂は疲れた息をつきながら自宅の鍵を開け、玄関の扉を開いた。
「ただいま」
 いつも通りの、何気ない言葉。けれど、返ってくるはずの言葉はなかった。朝は気付かなかったのに。
 茂を出迎えたのは、耳が痛くなるほどの静寂と、ぽっかりと口を開けた深くて冷たい闇。人の気配も声も、物音も明かりもない。土間に入った足音と背後で閉まった扉の音が、虚しく響いた。とたん。
「――ッ」
 無意識に息が詰まり、これまで目を逸らして押し込めていた感情が一気に噴き出してきた。それは雪崩のように激しい勢いで全身を駆け廻り、頭を痺れさせ、心を食らった。
 脱力感に耐え切れず、提げていた鞄が手から滑り落ちて鈍い音を響かせ、茂はその場で崩れ落ちた。
 おはよう。
 行ってきます。
 行ってらっしゃい。
 ただいま。
 おかえり。
 おやすみ。
 そんな、何気なく交わされていた挨拶さえ、もうできない。告げる相手も、返してくれる人も、もういない。お前は一人なのだと、ここには誰もいないのだと、目の前に広がる闇が無情にもそう訴えているようで、強烈な寂寥感に襲われた。
 心が、押し潰されそうだった。
 感情を持って生まれたことを後悔するほど、寂しくて苦しくて仕方がなかった。
 笑顔で見送ってくれた人は、明かりを点けて待ってくれていた人は、温かい食事を作って一緒に食べてくれていた人は、他愛ない会話で盛り上がっていた人は、笑い合っていた人は、くだらない喧嘩をした人は、たくさんの時間と思い出を共有していた人は――恵美と真由は、もういない。
 やっと、実感した。
 一人なのだと。
 あの日から一粒も流れなかった涙は堰を切ったように溢れ出し、もう自分の意思では止められなかった。押し殺せない嗚咽が手の隙間から洩れ、自分の声ではないみたいだった。
 逃げ場のない孤独の中で、やっと考えた。何故、こんなことになってしまったのかと。
 少しのタイミングと選択が違えば、別の未来があったのだ。
 出発時間を早くしていれば、予定通り出発していれば、もし電話をもらっても間に合わなかった。井上と三浦で対応してくれただろう。あの時、行っておいでと言わなければ、報告書なんか書かずに行っていれば、今から行くから待っていてと言っていれば、彼が飲酒運転なんてしなければ――麻里亜が、万引きなんかしなければ。
 不意に、もう一人の自分がそう呟いた。
 麻里亜が万引きなんかしなければ、予定通り三人で出掛けていた。そうすれば運命が変わって、事故に遭わずにすんだかもしれない。例え事故は避けられなくても、後部座席に乗るはずだった真由だけは助かったかもしれない。
 そんな風に考えた自分に衝撃を受けた。
 ――最低だ。
 教え子に、責任をなすりつけようとするなんて。
 寂しさと虚しさと悲しみと後悔と、自分への失望と絶望と嫌悪。色んな感情が入り混じって、胸がどうしようもなく苦しくて痛んだ。けれど、一度浮かんだ考えは脳裏に深く染み込んで決して消えることはなく、麻里亜への後ろめたさや罪悪感でいっぱいになった。
 まるで、大きくて重い塊を胸に抱き、身動きの取れない沼にずぶずぶとはまっていくような感覚だった。
 ――教師失格だ。
 その日からあまり眠れず、食欲も減り、みるみるうちに体重が減った。機械的に仕事をこなしつつやつれていく茂を、先生や教え子たちは心配してくれた。だから心配かけまいと無理矢理食べようとしたけれど、どうしても喉を通らない。
 そしてある日、とうとう学校で倒れた。
 目覚めたのは翌日。病院のベッドの上だった。栄養と睡眠不足だと診断された。校長と教頭、学年主任の先生たちと話し合った結果、休職することになった。
 点滴を打ってその日のうちに自宅へ戻り、着替えもそこそこにソファに横になる。体は鉛のように重く、頭はぼんやりとして上手く回らない。
「……もう、辞めてしまおうか……」
 天井を眺めながら長く息を吐き、ぽつりと呟く。気だるさに任せて目を閉じると、自然と意識が遠のいた。
 まどろみの中で、愛しい声を聞いた。
『すっごい熟睡してる』
『起こしちゃ駄目よ。疲れてるみたいだから、寝かせてあげなさい』
 包丁がまな板を叩く音、コトコトと音を立てる鍋。夕餉の香りがする。音量が下げられたテレビの音に混じった、ひそやかな笑い声。
 ああ、やっぱり夢だったのか。
 目覚めたら、きっとそこには休日のまったりとした時間が流れているのだ。恵美と真由の笑顔があって、夕方のニュースが流れていて、窓からはオレンジ色の夕日が差し込んでいる。酷い夢を見たよと言って話してやれば、勝手に殺さないでよ、と文句を言われて笑い合う。
 そんな、平凡で平和な日常が待っている。
 けれど、ゆっくり瞼を開けて見えた現実は、まったく逆のものだった。
 人の気配がない、静まり返った我が家。夕餉の香りを嗅ぐことも、ひそやかな笑い声も聞こえない。唯一、窓からオレンジ色の夕日が差し込んでいたけれど、それが余計に虚しかった。多少荒れていても、家具の位置もカーテンも観葉植物もあの日からずっと変わらない。部屋の光景は変わらないのに、恵美と真由の姿だけが見当たらない。いつ、どこで、誰が、どんな風に死んでも世の中は回り続けるし、時間は進むのだ。
 自分の時間さえも。
 茂は緩慢な動作で立ち上がり、引き寄せられるように和室へと入った。二間続きの和室の一室には、両親の仏壇の脇に設置された祭壇。並んで飾られた遺影の中の恵美と真由は、穏やかに微笑んでいる。二人の遺品は、さすがにお団子は腐るからと義母が廃棄したけれど、お土産のお茶は祭壇に、二つの鞄は側に置いたままだ。
 ゆっくりと祭壇の前に腰を下ろし、鞄に手を伸ばす。財布に化粧ポーチ、ハンカチ、ティッシュ。真由の鞄には携帯用のウェットティッシュが入っており、某ブランドのキーケースは、車の免許を取得したお祝いに贈ったものだ。そして、携帯電話。
 二人の交友関係を調べるために電話帳を開いた以降、触れられなかった。充電をしていなかったから切れてるかなと思ったけれど、ボタンを押すと起動した。待機状態だったとはいえ、最近の携帯の電池は持ちが良い。開いたのは、恵美のアルバムのアプリだ。いくつかあるフォルダの中に、あの日の日付の動画を見つけた。写真は撮ったと言っていたが、動画も撮っていたのか。これまで、家族旅行や庭に咲いた花々、友人と出掛けた時の写真を見せられたことはあるが、動画を撮ることはなかったのに。
 再生すると、天空カフェでのものだった。
 画面に映ったのは、灰色の空の下、眼下を流れる和束川と和束町市街地。山の斜面に見える整然とした茶畑はいっそ芸術だ。美しく整えられ、快晴の日は青と緑の見事なコントラストを見せてくれるだろう。
『お父さんに連絡をしたあとの風景です』
 不意に恵美の声が入った。画面はゆっくり左へと流れ、途中で止まって戻る。
『天気は悪いですが、これはこれで風情があっていいと思います』
 撮り慣れていないせいか、ぎこちない喋り方にふと笑みがこぼれた。まるで台本の台詞を喋っているみたいだ。
 そのままぐるりと半周したところで、真由が映った。和束茶カフェで購入したのだろう、真ん中に造り付けられた八角形の腰掛けに座って、透明なプラスチックのカップに刺さったストローをすすっている。深い緑色をしているところを見ると、アイスグリーンティだろう。向けられた携帯に気付き、笑みを浮かべてひらひらと手を振った。
『真由、美味しいですか?』
『うん、美味しいです』
『来て良かったですか?』
 うーん、と真由が難しい顔で首を傾げた。天気も悪いし、満足とは言えないかな。
『天気は悪いけど景色はいいし、お団子もお茶も美味しいけど、やっぱりお父さんが一緒だったら良かったなと思います』
 恵美が呆れた息をついて、茂は照れ臭そうにはにかんだ。
『ほんとにお父さん子ねぇ』
『いいでしょ別に。お父さん、次は絶対一緒に来ようね』
『次は彼氏と一緒に来ますって言わないところがね』
 茶化すような恵美の声に、真由がぐっと声を詰まらせて膨れ面をした。
『もう、お母さん一言多い! あたしに彼氏ができたら、お父さん構ってあげられないでしょ! そしたら寂しがるもん!』
 あはは、と思わず漏れた笑い声が、恵美と重なった。
「構ってくれないのかぁ。それは寂しいなぁ」
『何言ってるのよ、真由の方が構ってもらってるんでしょ』
『そ……っ、そんなことないよっ』
 ふいと顔を逸らし、子供のように唇を尖らせてストローに口を付ける。拗ねた横顔を映したまま、恵美のくすくすと笑う声が届いた。と、画面がぶれて床を映し出し、これだったかしら、と言う恵美の声と共に切り替わった。下からのアングルで恵美が映る。インカメラにしたようだ。恵美がほっとした顔で持ち上げて腕を伸ばし、後ろに真由が映るようにして固定する。
『このあと実家に行って、それから帰ります』
 真由が飛び跳ねるように立ち上がって小走りに寄った。恵美の肩越しにカメラを覗き込む。
『お父さん、お疲れ様。お土産あるから、楽しみにしててね』
 二人でひらひらと手を振って、
『じゃあまたあとで』
 恵美の一言を最後に指が近付き、一瞬画面がぶれると動画は止まった。
 液晶画面にぽたりと雫が落ちて、斜めになった画面を滑り落ちた。次から次に雫がこぼれ落ち、画面を滑って水跡を残す。
 茂は携帯を胸に抱いて、うずくまるように背中を丸めた。
 ただ、自分たちが幸せだと思えれば、それで良かった。誰かからすればつまらなくて平凡な人生でも、自分たちが幸せだと思える人生が、一番の幸せだと思っていたから。
 でも、それはもう、潰えてしまった。
 恵美と出会った時からの何十年分もの記憶が、一気に脳裏に蘇る。同時に描くのは、これから先の未来。
 真由の恋人に会うことも、結婚させてくださいなどと言われることも、新婦の父親になることも、孫をこの腕に抱くこともできない。真由が一人立ちしたあと、恵美と何十年ぶりに二人で旅行に行くことも、のんびりとした老後を送ることも、看取ることも看取られることもできない。
 いつか来るはずだった未来は、全て夢として終わってしまった。
 この手の中にはもう、何も残っていない。
 ならば、生きる意味はどこにある?
 守りたいものも守るべきものも、何もないのに。それなのに、生きる意味なんてあるのだろうか。
 誰かが言った。大切な人を亡くしても、自分たちは生きなければいけないと。何故? どうして生きなければいけない? そんなこと誰が決めた? では何を支えに生きて行けばいい。生きる意味を与えてくれるわけでもないのに、よくもそんな無責任なことが言える。
 ――二人がいない人生なんて、生きる意味はない。
 虚ろと言うには生ぬるい。体から、心から、細胞全てから魂が抜けるような感覚を覚えた。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み