第5話

文字数 4,440文字

 大量発生した素早く飛び交う小さな虫や、黒々と光る頭にGが付く忌々しい虫と格闘し、色々な意味で四人全員が汗だくで掃除を初めて数時間。さすがに倒れると洒落にならないのでこまめに水分補給をしているが、この暑さではすぐに喉が渇く。一度、十字路に設置されている自動販売機へ走った。
「おーい、そろそろ休憩しようぜ」
 廊下の方から声がかかり、大河(たいが)はテレビを空拭きしていた手を止めた。冷凍庫を開けっ放しにしたまま何か見つめている香苗(かなえ)へ声をかける。
「香苗ちゃん、休憩しよう」
「あっ、うん」
 香苗は我に返り、手に持っていた塊をゴミ袋へ放り込んだ。
 綺麗に磨き上げられたキッチンで手を洗い、発掘したかろうじて使われていなさそうなタオルで手を拭く。キッチンカウンターに置いていたペットボトルを持って和室へ移動した。
「あっつ」
「ご、ごめんね。エアコンも汚くて」
「いいよ。窓開けてるからつけても意味ないし」
 現在エアコンは洗ったフィルターを乾燥中だ。崩れるように座り込んでペットボトルの蓋を捻ると、弘貴(ひろき)春平(しゅんぺい)が集まった。
「お風呂と洗面所終わったよ」
「玄関回りも終了。今寝室やってる。で、こんなもん見つけたぞ」
 腰を下ろしながら弘貴が差し出したのは、建設会社の名が印字された未開封の粗品タオル数枚と、折り畳まれた一枚の紙切れ。
「香苗、これ使っちまっていいよな」
「あ、はい」
 尋ねながらもすでに開けている。どのみち覚えていないだろうから構わないだろう。コンビニで調達してきたお菓子を中心に、車座になってそれぞれタオルを取り出して汗を拭う。新品のため吸収性は良くないが助かる。
「弘貴、これ何?」
 もう恥ずかしいとか言っていられない。大河は二つ折りにされた紙に視線を落とし、Tシャツの裾から手を突っ込んで汗を拭きながら尋ねた。
「あいつが香苗を連れ戻しに来た理由。見てみろよ」
 傾げた首にタオルをかけながら、大河は紙切れを開いた。隣から春平と香苗が覗き込む。弘貴は袋菓子を開けた。
「勧告書?」
 つらつらと文面を読み、なるほどと揃って納得した。
「要するに、片付けないと追い出すぞって言われたから、香苗ちゃんを連れて来たってこと?」
「みたいだな。このままだとまずいって思ってたところに香苗と会ったって感じじゃね?」
 だったら自分たちでやればいいのに。などという理屈は、ああいう輩には通用しないのだろう。香苗は肩身が狭そうに俯いてしまっている。
「香苗ちゃん」
 春平が顔を覗き込むようにして名前を呼ぶと、香苗はゆっくり顔を上げた。
「僕たちは、香苗ちゃんがなんで寮に来たのか聞いてる。だから、次同じことがあったら絶対に止めるし、香苗ちゃんも、もう遠慮しないで欲しい」
 その言葉に大河は虚をつかれ、香苗は目を丸くした。
 そうだ。ちゃんと事情を知っていたら、止められたかもしれないのだ。(はな)は知っていても香苗に気を使って止めたくても止められなかった。けれど、もし全員が事情を知っていたら、状況は変わっていた。
 とはいえ、あんな話を人に話すのは辛いだろう。
 聞けばその人に辛い思いをさせる。聞かなければ止められることも止められない。
 どちらが正解なのか。
「春、いいこと言うなぁ」
 弘貴が大きな手で春平の頭を乱暴に掻き回した。
「すぐそうやって茶化す。やめろって」
 春平が鬱陶しそうな顔で弘貴の手を払う。
「あ、あのっ、春平さん」
 じゃれ合っていた二人が動きを止め、大河も香苗に視線を向ける。香苗は頬を赤く染め、まるで蕾がほころぶようにふんわりと笑った。
「ありがとうございます」
 大河と弘貴はつられて笑みを浮かべ、しかし春平は何故か息を詰めて顔を逸らした。
「や、そ、そんなお礼を言われるようなことじゃ、ないから……」
 口ごもる春平の横顔は、耳まで真っ赤だ。
 あれ? と大河が気付いた時、そうだと香苗が声を漏らした。
「あの、おにぎりとかは誰が……」
「あー、それな。春が出してくれたぞ」
「春平さん、お金お返しします。いくらでしたか?」
 言いながら立ち上がった香苗を、春平は慌てて上げた顔で追いかけた。
「あ、いいよ。大した金額じゃなかったし」
「そういうわけにはいきません。お返しします」
 鞄を漁る香苗に、春平は苦笑いをして腰を上げた。
 レシートを手に机の前でやり取りをする二人の背中を眺め、大河は弘貴にちょいちょいと小さく手招きをした。二人が前のめりになって距離を縮める。
「もしかして春って、香苗ちゃんのこと……」
 声をひそめて尋ねると、弘貴がにんまりと口角を上げた。
「気付いたか?」
「あ、やっぱりそうなんだ」
 二人は顔を見合わせ、にやりと笑い合った。
「二人でこそこそ何してんの?」
 降ってきた春平の呆れ声に、二人は弾くように離れた。
「いやっ、何でもないよっ」
「そうそう、何でもない何でもない」
 繰り返された言葉が逆に怪しくなった。春平から向けられる、怪訝というより疑いの眼差しが怖い。
「そ、それよりさ、俺そろそろリビング終わるけど、次はどうしたらいい? 隣の和室?」
 作り笑いで香苗を振り向く。
「じゃあ、お願いしてもいいかな?」
「了解。さっきゴミ片した時に畳が結構汚れてたけど、水拭きできないよね」
「畳み用の洗剤があるの。シート状のものを買ってきたから、それで拭いてもらっていい?」
「へぇ、そんなのあるんだ」
「うん」
「あのさ、前から気になってたんだけど」
 個包装された一口サイズの和菓子の袋を開けながら、弘貴が口を挟んだ。チョコ菓子は溶けるため、代わりに和菓子にしたのだ。
「香苗って、大河にはタメ口なのに、何で俺たちには敬語なわけ?」
 言われて気が付いた。そういえばそうだな、と他人事のように思いながら大河も和菓子を口に放り込む。
「弘貴、まだ言ってるの?」
「だってさぁ」
「あ……っ、あのっ、ごめ、ごめんなさい!」
 どうやら無意識だったらしい。勢いよく香苗に頭を下げられて、大河は動かしていた口を止めた。どうやら「大河にタメ口」の方に気を取られたらしい。すぐに首を横に振って飲み込む。
「いいよ、俺そういうの気にしないから」
 相手が年上の場合はもちろん気にするが、自分が年上の場合は気にしないタイプだ。
「ていうか、そこじゃないと思うけど」
「え……?」
 大河が苦笑すると、香苗はきょとんと目を丸くした。
「そう、俺が言いたいのはそこじゃねぇ。俺らにもタメ口でいいってところ」
「あ……」
 香苗は少し困った顔で視線を泳がせた。
「俺ら一緒に住んでて年も一つしか変わらねぇのにさ、なんか他人行儀だろ。前にもタメ口でいいって言ったのに直らねぇからもう言わなかったけど、大河には普通にタメ口だし。寂しくね?」
 拗ねたような顔で和菓子を口に放り込んだ弘貴に、大河と春平が噴き出した。
「寂しいって、弘貴可愛いとこあるね」
「大河くんが来てからずっと気にしてたんだよ。大河くんだけずるいって」
「あっ、お前また余計なことを!」
「弘貴可愛い!」
「可愛いとか言うな!」
 ずるいと来たか。大河は豪快に笑い声を上げた。弘貴は膨れ面で呆然としている香苗を見やった。
「別に無理強いするつもりはねぇけど、でも、やっぱちょっとずつでいいから変えて欲しいなとは思う。つーか、春もそう思うだろ。弘貴さんとか春平さんとか、なんか堅苦しいし」
「まあ、確かにそうかな」
 くすくすと笑いながら同意した春平と、だろと相槌を打った弘貴から窺うような目を向けられ、香苗は戸惑ったように畳に目を落とした。
「えっと、あの……」
 やがて、香苗は使命感満載の顔を上げた。
「が、頑張ります!」
 そんなに気合がいるようなことなのか、と突っ込みたいが、香苗にとってはそうなのだろう。嬉しそうにはにかむ弘貴と春平を見て、大河も相好を崩した。
「タメ口っていえば、美琴(みこと)ちゃんはどうなの? 俺にはタメ口だけど、弘貴たちと喋ってるとこ挨拶以外で見たことないんだよね」
「あいつは初めからタメ口ききやがったぞ」
「弘貴、また」
 溜め息交じりに春平が釘を刺す。なんて言い草だ。もうこの際だし、このくらい聞いても構わないだろう。
「ねぇ、弘貴と美琴ちゃんって、何がきっかけでそんなに仲が悪くなったの? 美琴ちゃん、悪い子じゃないと思うけど」
「そりゃ、俺だって別に悪い奴だとは思ってねぇよ」
 弘貴はむっつりとした顔で息をついた。
「俺、あいつが寮に入ったばっかの頃に色々話しかけてたんだ。そしたらウザいっつったんだぞウザいって!」
 あー、と大河は残念な声を漏らした。弘貴としては気を使ったつもりが、美琴にとっては鬱陶しかったのだろう。一蹴したに違いない。
「ムカついたけど、春に言われて確かに構い過ぎだったかなって反省して謝った。でもあいつなんて言ったと思う? 今頃気付いたの? っつったんだよ! 何様だあいつ!」
 大河は二度目の残念な声を漏らす。確かに、あの無表情でその台詞は小馬鹿にしているようにも聞こえる。その後に何かしらのフォロー、例えば樹のように、別にもう気にしてない、などの一言があればまた違ったのだろうが。
「でもそれってさ、弘貴が気付いたのは分かったってことで、謝罪を受け入れたってことじゃないの?」
「もっと他に言い方があんだろうが!」
 それを言われると反論できない。大河は困り顔になった。
「とにかく可愛気がねぇんだよあいつは!」
 弘貴は憎らしげな顔をして、持ち上げたペットボトルをベコッとへこませた。
「ただ……っ」
 弘貴は俯いて息を吐き、へこませたペットボトルの形を直しながら言った。
「この前のことは、正直……すげぇなって思った」
 独鈷杵(どっこしょ)のことだ。あの日のことは、翌日の早朝訓練で参考になればとその場にいなかった香苗たち哨戒組にも伝えられた。ぼそりと呟いた言葉に、大河と春平と香苗は顔を見合わせて笑いを噛み殺した。相当悔しいだろうに、こういう素直なところは弘貴だなと思う。
「でも可愛気がないって思ってんのは変わんねぇしっ。そろそろ休憩終わり、始めようぜ」
 照れ隠しか、弘貴はさっさと腰を上げて和室から出て行った。
 やれやれといった様子で三人はお菓子を片付ける。
「美琴ちゃん、多分物凄い照れ屋で素直に言えないだけだと思うんだよなぁ」
「僕もそう思うんだけど、初めがあれだったから、二人とも意固地になってるって感じなんだよね」
「あたしもそう思いま、思う。美琴ちゃん、本当はすごく優しいの。クラスが違うのに、先生に頼まれた授業の道具運んでたら手伝ってくれたんだよ」
「そうなんだ。……勿体ないなぁ」
 揃って溜め息をつくと、寝室の方から弘貴の声が響いた。
「お前ら何やってんだよ早くしろよ! 終わんねぇだろ!」
 はーい、と声を揃えて返事をし、また顔を見合わせて苦笑した。残ったお菓子をビニール袋に入れ、各々持ち場に戻る。
 ついこぼしてしまった本音が恥ずかしくて自己嫌悪しているらしい。分かりやすい八つ当たりに、大河は小さく笑いながら掃除を再開した。
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