第1話

文字数 6,141文字

 寮で集団生活をする以上、避けられないのは日々の雑用の分担だ。
 学校がある間は成人組で回しているが、学生組が長期休暇に入ると、弘貴(ひろき)春平(しゅんぺい)夏也(かや)香苗(かなえ)は風呂場、美琴(みこと)は掃除機と洗面所、(すばる)はトイレと拭き掃除、(はな)はキッチン回り全体、(しげる)は玄関と庭、ゴミ出し、双子は手伝いと、担当が割り振られる。(あい)(れん)の散歩は、天候や双子の機嫌の良し悪しによって時間は左右されるが、当番制だ。その他、皿洗いや食事の支度は華と夏也を中心に手が空いている者が手伝い、窓拭きや洗車などの不定期な掃除は、その都度決めるか全員で取りかかる。ちなみに洗濯は男子禁制となっており、女性陣の担当だ。また、昼過ぎに起きてくる(いつき)怜司(れいじ)は掃除の担当を持たないが、樹は指導専門で全員の進捗報告をし、怜司は支出管理と日用品のネット注文を受け持っている。
 だが、大河(たいが)は別だ。正式に入寮したわけではなく、夏休みの宿題に陰陽術、体術、霊符の練習と、やることが多いため担当を持たない。とはいえ、世話になっている以上、頼まれなくても手伝いくらいする。
 今朝も、朝食後のコーヒータイムが終わり、何か手伝うよと申し出た。しかし、大河の肩を掴んで笑顔で止めたのは、茂だった。
「大河くん、宿題の方はどう?」
 昨日ノルマを立て直したばかりだが、何があるか分からない今、少しでも終わらせておかないとまた終盤に泣きを見ることになる。遠回しの質問と、ついでに影正のノートを持って下りるように頼まれ、大河は黙って大人しく部屋に引っ込むことにした。
「あれ陰陽師の習性だよ、間違いない」
 大河は、ぼそりと一人ごちながら古語辞典をめくり、溜め息をついた。
 休み前に配られた古文のプリントは三枚と、枚数は少ないがびっしり活字で埋め尽くされている。「方丈記」「土佐日記」「源氏物語」からの一部分を現代語訳して提出するのだが。
「……これ、(さい)紫苑(しおん)が訳せるんじゃ……」
 テレビや会話などで現代の言葉を目や耳にし、すでにいくつか覚えたとはいえ活字は読みにくいかもしれない。しかし、音読して少しずつ訳してもらえば辞書を引くよりは遥かに手っ取り早い。ふとそんなことに気付いて手が止まり、いやいやと頭を振る。そんなことをしようものなら茂と華の説教が待っている。さらに宗一郎(そういちろう)たちに報告された日には、ペナルティは免れない。所有している書物を訳してみろとか言われて採点され、不合格を出せば延々と同じことをやらされそうだ。あんなミミズがのたくったような字が読めるか。想像しただけでも吐きそうになる。
 残念な気はするが、ここはずるをせずに真っ当に終わらせる方が身のためだ。大河は自分に言い聞かせるようにうんうんと頷いた。
 半分ほど終わらせ、数学と英語の問題集をこなした頃には頭がショート寸前だ。ノルマはとりあえずこなした。大河は問題集を閉じ、背をもたれた。
「終わったー」
 もう少し進めておくべきか、と考えながら天井を仰いで、息を吐く。
 こうしていつも通りの時間を過ごしていても、迷いは消えない。影正(かげまさ)の死の理由を知りたいと思ったのは確かなのに、今ではそれが言い訳のように思える。
 この道は正しいのか正しくないのか、本当は何がしたいのか。頭と心がごちゃごちゃして答えが出ない。
 進路すら決められないのに。大河は両腕で瞼を覆い、唇を噛んだ。
 やっぱり、宗史(そうし)(せい)に相談してみようか。いや、一人で抱え込むなと宗史は言ってくれたけれど、こんな気持ちを知られたら島に戻されるかもしれない。今はまだ、帰るわけにはいかない。
 不意に扉が鳴り、大河は弾かれるように体を起こして振り向いた。
「大河、入るぞー」
「あ、はーい、どうぞー」
 かろうじて平静を装って返答すると、扉が開いて晴が顔を覗かせた。
「よ。宿題終わったか?」
 ひょいと手を上げ部屋に入ると、晴は扉を閉めた。
「うん、ちょうど終わったとこ……」
 言葉尻を小さくし、ふと、いつもと雰囲気が違う晴に首を傾げる。なんだろう、何か足りない。じっと見据える大河の視線から逃げるように、晴が顔を逸らした。しばし考え、あっと声を上げる。
「髪! 髪がない!」
「髪はあるだろ!」
 いつもうなじでちょこんとくくられている尻尾がない。毛先も揃えたのだろう、全体的に少し短くなってさっぱりしている。
 失礼な言い草に速攻で突っ込むと、晴は落ち着かない様子で首の後ろをさすった。
「ついでだからって宗に呼び出されたんだよ。余計な世話だっつーの」
 しかめ面でぼやきつつも来るあたり、人がいいというか宗史には逆らえないようだ。
「いいじゃん、めっちゃ似合ってるよ」
 以前はアウトローな感じだったが、今は緩いくせ毛が生かされてパーマをかけているように見え、爽やかになっている。大河が素直に褒めると、晴は照れ臭さをごまかすようにはにかんだ。
「ま、元がいいからな」
「……そうですね」
 大河は棒読みで肯定した。自分で言わなければもっと格好良いのに。
「何だよその返し、可愛くねぇな。もっと褒め称えろ」
 ずかずかと歩み寄って乱暴に髪を掻き回され、大河は笑い声を上げながら肩を竦めた。晴のおおらかな態度と緩い雰囲気に、ほっとする。
「あ、ていうかさ、お守りどうだった?」
 晴の手がぴたりと止まった。頭から手が離れて、髪を整えながら見上げる。至極真剣な眼差しと目が合ったと思ったら、おもむろに両肩に手を置かれ、無言のまま頷かれた。
「……うん、頑張る」
 肩を落とした大河に、晴はもう一度無言で頷いた。あれこれ言われるより傷付く。
「まあ、使えなくはないから全部入れっ放しで渡したけどな。使えなくはないから」
「二回も言わなくていいからっ」
 大河は膨れ面をして睨み上げると、晴はけらけらと笑った。樹といい、人の心を折るのが趣味なのか。
「宿題終わったんなら行こうぜ。そろそろ柴が終わるから呼びに来たんだよ」
「紫苑は?」
 影正のノートと携帯を手に立ち上がりながら、時計を確認する。十時半。散髪開始予定は九時だった。
「終わってるぞ。つーか、あいつの髪フェチは樹レベルだな。異常だわ」
「なんかあった?」
 部屋から出て、扉を閉めながら尋ねる。
「あったも何も、柴の髪めっちゃ長かっただろ。とりあえず肩くらいまでばっさり切ったんだよ。まあ、それも紫苑がすっげぇ悲しそうに見てておばさんやり辛そうだったんだけどさ、その後だよ。紫苑は勿体ないから取っておくとか言い出すし、宗は宗で、(さくら)には絶対に会わせんとかぼやくし」
 その光景がまざまざと想像できて、大河は笑った。
「桜ちゃんの髪、綺麗だもんね。え、柴の髪取ってるの?」
「まさか。さすがに遺髪みたいだからやめろっつって止めたわ。髪なんかまた無駄に伸びるのに、何をそんなに勿体なく思うんだろうなぁ」
 晴はうんざりした様子で息をついた。
「確かに。フェチの人のこだわりって、理解できないとこあるよね」
「だろ? しかも、紫苑の場合フェチに忠誠心が乗っかってるからさ、もう狂気の沙汰だぜ、あれ。まあ、見てて面白いっちゃ面白いけどな」
「えー、俺怖かったんだけど。朝っぱらから何見せられてんだって感じだった」
「いいじゃねぇか。大河だけにリアル大河ドラマ見てるみたいだったろ」
 これっぽっちも上手くない冗談に、大河は冷ややかな視線を晴に向けた。
「……そんな目で見んな。ちょっとは涼しくなっただろ」
「うん」
「素直すぎて腹立つわ」
 少しは愛想笑いしろ、今のは無理だよ、と他愛ない会話をしつつリビングの扉を開ける。
 茂と双子はローテーブルでお勉強中、昴、華、夏也、宗史は庭で体術訓練中だ。散髪は縁側の前で行われており、庭に向かって出された椅子にケープを纏った柴が大人しく腰掛け、割烹着姿の夏美がハサミを動かしている。件の紫苑はと言えば、縁側で正座をしてじっと散髪の様子を眺めていた。背中の中程まであった髪がすっかり短くなっている。
 開いた扉の音に振り向いた紫苑を見て、思わず足が止まった。
 後ろはうなじぎりぎりまで、サイドは耳の半分を隠す程度には長さがある。短くも長くもない、ちょうど中間くらいの長さ。以前は、一つにまとめていた分、気の強そうな顔立ちも相まってお堅い雰囲気があったが、今はさらりと揺れる髪の動きの効果か、少し柔らかくなった感じがする。イケメンぶりは言わずもがなだ。
「ずいぶん印象が変わっただろ」
 紫苑を唖然として見つめる大河に、晴がまるで自分の功績かのようにしたり顔を浮かべた。大河は晴を見上げ、首が取れそうなくらい何度も頷いた。髪型一つでここまで変わるものか。
「びっくりした、一瞬見間違いかと思った! めっちゃ似合う!」
 うわぁ、と感嘆を吐いて視線を戻した大河に、紫苑が複雑そうな表情を浮かべふいと顔を逸らした。あれは、食べ方が綺麗だと褒めた時にも見た顔だ。晴が喉を鳴らして笑った。
「照れてる照れてる」
「え、あれって照れてるの?」
「どう見ても照れてんだろ。意外と照れ屋なのかねぇ」
 ほら入れ、と背中を押されてリビングに入りながら、綺麗な姿勢で前を見据える紫苑を見やる。
 あれは照れていたのか。何か機嫌を損ねるようなことを言っただろうかと心配したが、どうやら照れると複雑な顔になるらしい。美琴のように顔を赤く染めてくれれば分かりやすいのに。
「大河くん、久しぶりねぇ」
 柴の前に回り込んで微調整をしていた夏美(なつみ)に笑顔を向けられ、大河は小走りに駆け寄った。会うのは賀茂家に行った時以来だ。
「お久しぶりです、夏美さん。すみません、いきなり頼んじゃって。ありがとうございます」
「いいのよ、気にしないで。もうすぐ終わるからちょっと待ってね」
「はい」
 夏美は、うふふふと何やら含んだ笑みを浮かべ、柴に目を落として再びハサミを動かした。なんだかよく分からないが楽しそうで何よりだ。
 晴ちょっと、と庭から宗史に呼ばれ、スニーカーをつっかけて縁側を下りた晴を見送りながら、大河はノートを横に置いて紫苑の隣に腰を下ろした。側には、数種類のハサミが収納されたシザーケースと水が入った霧吹きが置かれている。
「紫苑、やっぱり似合うよ。どんな感じ?」
 もう一度褒めると、紫苑はまた複雑な顔をして嘆息した。
「こうも短くしたのは久方ぶりだ。どうにも落ち着かぬ」
 視線は柴の背中に向けたままだ。大河は笑いを堪え、手合わせを始めた宗史と晴に視線を投げた。動きがゆっくりなところを見ると、手本を見せているのだろう。
「そういえば、柴がずいぶん見てないって言ってたよね。昔は短かったの?」
「ああ。柴主と出会った頃のことだ」
 ふーん、と大河は曖昧に返事をした。出会ったということは、紫苑は元々柴の配下ではなかったのだろうか。それとも、配下にあったが初めて顔を合わせた時という意味だろうか。どちらにせよ、二人はどんなふうに出会ったのだろう。聞いてもいいかな、と思い口を開こうとした時、よし、と夏美が満足そうな声を上げた。とたん、紫苑が腰を浮かせた。
「お疲れ様。髪を洗って乾かしてきてくれるかしら。後でもう一度確認するわね」
「ああ」
 夏美がケープとタオルを外すと、庭の方で、気付いた宗史らが感嘆の声を上げた。柴がゆっくりと腰を上げ、こちらを振り向く。
 時間が止まったのは紫苑だ。中途半端に腰を浮かせた体勢で、呆然とした顔で柴を見上げて固まっている。また大河も、さすがに時間は止まらなかったが目を丸くして柴を見つめた。
 紫苑より少し長めに残された髪は、一歩間違えばただの「髪が伸び切った人」になりそうな長さだ。それでもそんな風に見えないのは、夏美の腕の良さか。しかも、元々整った顔立ちではあったが、髪が短くなった分さらに際立ってもう作り物みたいだ。無表情も手伝って、黙って立っていたらリアルなマネキンに見える。
「うわ、イケメン三割増し……」
 おもむろに、隣でゆらりと立ち上がった紫苑を振り向いて、大河は反射的に身を引いた。まるで降臨した神を拝むような、うっとりした顔つきで柴を見つめている。
「柴主……」
 縁側に上がってきた柴に歩み寄る。恐る恐るといった様子で両手を伸ばし、しかし触れることなく引っ込めると、胸のあたりを掴んだ。
「我が主……!」
 紫苑の絞り出した声に、始まった、と大河は遠い目をした。
「以前にも増してお美しく凛々しいお姿! ああ、この感動をどう言葉にすればよいのか分かりませぬ!」
 大丈夫ガンガン態度に出てるから、と心の中で突っ込む。
「似合っているか?」
「ええ、もちろんでございます!」
「そうか、それは良かった」
「このような麗しいお姿を拝見できる日が来ようとは、この紫苑、歓喜に打ち震えております!」
「お前が喜んでくれたのなら、切った甲斐がある」
「柴主……。私は……っ、私は果報者でございます……っ」
 もう好きにして。今にも膝をついて平伏し、号泣しそうなほど震えた紫苑の声を聞きながら、大河は虚ろな目で視線を巡らせた。
 夏美は椅子の背に掴まって肩を震わせ、宗史らは顔を逸らして小刻みに震え、晴は膝から崩れ落ち四つん這いの体勢で呼吸困難に陥っている。さらにローテーブルでは、よほど衝撃を受けたのだろう、茂が笑顔を張り付かせて硬直していた。双子に至っては少々怯え気味だ。あれだけ懐いていたのに怖がらせてどうする。ここに宗一郎と(あきら)がいたら笑い死にしたかもしれない。そもそも、あれだけの暑苦しい、もとい敬愛もりもりの感情をぶつけられて平然としていられる柴もどうなのか。
 昔からあんな感じなんだろうな。大河はこれまでについたどの溜め息よりも深くて長い溜め息をついて、立ち上がった。そろそろこの時代錯誤な状況をどうにかしなければ、いつまでたっても髪を切ってもらえない。
「紫苑、物凄く感動したのは分かったからさ、柴の髪洗ってきてあげてよ。やり方分かる?」
 二人の背中を押しやりながら尋ねると、紫苑がきりりと顔を引き締めた。
「案ずるな。先程、昴と夏也に教わったばかりだ。さあ柴主、参りましょう」
「ああ」
 とてもお似合いでございます、お前もよく似合っている、と褒め合いながらリビングを出ていく二人を見送り、大河はもう一度溜め息をついた。
 もう二度と髪の話はしない。そう固く心に決め、改めて皆を見渡した。
「そ、宗史から話は聞いていたけど、想像以上だわ……」
 目尻に滲んだ涙を拭いながら、夏美が気持ちを落ち着かせるように息を吐いた。
「実際に見るとすごいな」
「大河くんは、あれを昨日の朝に見てるのよね」
「しかも一人だったんですよね。よく耐えられましたね」
「笑い死ぬ……っ」
 宗史、華、夏也、晴が口々に感想を漏らす中、昴はまだ収まり切らずに口を覆っている。よほどツボにはまったらしい。一方、ローテーブルの方では硬直が解けた茂が双子を宥めていた。
「藍ちゃん、蓮くん、怖がらなくてもいいんだよ。あれはね、紫苑の愛情表現なんだから」
「あいじょう?」
「そう、紫苑は柴のことが大好きなんだ」
 藍と蓮が顔を輝かせて頷いた。五歳児に忠誠心だのと言っても理解できないだろうし、敬愛も愛情のうちだ、間違ってはいない。ただ、あのいきすぎた表現が正しいとインプットされないことを祈る。
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