第12話

文字数 3,670文字

 傷は椿が完治してくれたが、体中至る所にこびりついた血痕や埃はそのままだ。こんな姿を住民に見られたら確実に通報される。
 住民のほとんどは家族だ。十一時をとうに回ったこの時間帯に出入りする者はほぼいないが、念のため入口からロビーを確認してオートロックを解除した。足早にエレベーターに乗り込み、十階に到着してから廊下をこっそり覗き込む。自宅なのにな、と自分の行動を少々滑稽に思いつつ、小走りに廊下を走って角部屋の扉を手早く開けた。
 真っ暗な玄関に入り扉を閉めてから、冬馬は大きく息を吐きながら背中を預けた。まるで泥棒みたいだ。
 自宅に到着した安心感からか、どっと体が重くなったと思ったら一瞬視界が暗くなり、横に傾いだ。咄嗟に壁に手を付いて耐えたはいいが、ぐるぐると回っているような感覚がする。きつく目を閉じて俯き、症状が治まるまでしばらく待つ。いっそこのままベッドで寝てしまいたいが、血と汗と埃と土まみれのままはさすがに気持ちが悪い。
 やがて症状が治まると、冬馬は深呼吸をして気を立て直した。しっかり鍵をかけ、明かりを点ける。シューズボックスの上に鍵を置いて、埃だらけのスニーカーを脱いだ。重い足取りで浴室へ向かう。
 浴室の扉を開けて電気を点け、持っていたペットボトルを洗面台に置く。ふと鏡に映った自分の姿に、思わず失笑した。
「……酷いな」
 まるで撲殺されて埋められた死体が這い出てきたかのような風体だ。冬馬は携帯を尻ポケットから取り出して、ペットボトルの横に置いた。昨今、携帯一つで事が済む世の中だ。車を運転する予定がないのなら財布は必要ない。スマートロックという家の鍵を携帯で開閉できるシステムも、そのうち広く普及するだろう。さらに現在、運転免許証のデジタル化が推進されているらしく、実現するとますます手軽になる。
 冬馬はパーカーを脱ぎかけて手を止めた。明かりに照らされて舞う埃の量が物凄い。しかも床に目を落とすと細かい砂があちこちに落ちている。この様子では廊下も悲惨だ。自然と溜め息が漏れた。潔癖ではないが、この汚れ具合はいただけない。警察車両は大丈夫だろうか。
「明日、掃除するか……」
 一人ごちながら浴室へと入る。シャワーを出し、湯に変わるまでの間に服を脱いで浴槽の淵にかけていく。本音を言うと湯船に浸かってゆっくりしたいところだが、掃除をする体力はない。服を脱ぎながら、改めて血の臭いが鼻についた。服に沁み込んだ血はもう落ちないだろう。黒いため一見して目立たないが、このまま捨てて見つからないとも限らない。軽く落としてからの方がいい。面倒だとは思うが、騒ぎになるよりマシだ。
 湯に変わったシャワーを頭から浴びると、すぐに真っ赤な湯が全身を伝って床を流れた。湯気に混じって鉄の臭いが浴室に充満する。髪に指を通すとさらに濃くなった。曇り止め加工が施してある鏡に映るのは、傷一つない自分の体と、滑る赤い湯。
 彼らは、傷を治しただろうか。男たちと対峙し、立て続けにあの黒いものに襲われて、全員傷だらけだった。
 冬馬は手を止め、力なく落とした。
 三年前のあの日、良親の拳は見事に鳩尾に入った。息苦しさと朦朧とする意識の中で、何度も樹の名を呼んだ。
 気が付いたらミュゲにいた。良親と口論になり、引き止める腕を振り払って飛び出した。アミューズメント跡地に向かうタクシーの中で、ずっと震えが止まらなかった。飛び散る大量の血液と血の池に横たわる樹の姿が、脳裏に焼き付いていた。そうだと気付いて、震える手で何度も携帯を鳴らした。あんな状態で出られるわけないと頭では分かっていたが、そうせずにはいられなかった。
 怖くて怖くて、堪らなかった。樹を置き去りにしたという罪悪感と、彼を失うかもしれないという恐怖で、頭がおかしくなりそうだった。
 アミューズメント跡地に到着してタクシーを転がるように飛び降りた。携帯のライトを頼りに、生い茂る雑草を蹴るようにしてあの場所に行くと、そこに樹はいなかった。ここではなかったかと近くを探したが、やはりいない。怪訝に思いながら施設をくまなく探し、プールの中まで覗いたけれど見当たらない。状況が理解できないまま元の場所に戻って、呆然と地面に目を落とす。
 人一人分の範囲で踏み潰された雑草が、確かにここだと証明しているのに、何故。
 ゆっくりとしゃがみ込んでから気付いた。濡れているのは血痕だと思っていたけれど、違う。指で触れると、血液のような粘着性も臭いもない。水だ。改めてよく見ると、周囲の雑草も広い範囲で濡れている。血を洗い流したのか。
 あの後、自分たちと同じように肝試しに来た誰かが見つけて救急車を呼んだのだろうか。いや、それならもっと騒ぎになっているはずだ。それにあの状態なら事件だと判断されて警察が動く。現場検証などが行われたにしては、引き上げるのが早過ぎる。ふと、雑草の隙間に見覚えのある物が転がっていた。樹に渡したお守りだ。拾い上げると、わずかに煤けているのが分かった。
 焦げている。火の気などないのに。
 冬馬はゆっくりと立ち上がり、闇に包まれた施設を見渡した。
 ――樹……?
 静かに呼んだ名前は、虚しく闇に溶けた。
 何が何だか分からなかった。お守りもあった、人が踏み潰した跡も残っていた。それなのに、樹だけがいない。どうなっている。
 タクシーで自宅に帰る中、もう一度樹の携帯にかけたが呼び出し音がなるばかりで、やはり繋がらなかった。帰宅し、すぐにパソコンでアミューズメント跡地の近くの病院を検索した。誰かが救急車を呼んだにしろ車で運んだにしろ、必ず病院に搬送されるはずだ。時間帯から考えて救急指定病院。
「成田樹という二十代の男性が運ばれてきませんでしたか」
 そう問い合わせてみたが、どの病院も個人情報は教えられないの一点張り。身分を明かしても頑なに拒否されたため、面会時間を待って直接行くことにした。その間に智也と圭介から連絡が入り、状況を説明すると、自分たちも探すと言った。市内の病院のリストを送り、手分けをして当たった。見舞い客を装い、部屋の番号を問い合わせる。しかし、そのような方は入院されていませんよ、と同じ答えばかりが返ってくる。まさかと思って樹の自宅にも行ってみたが、帰っている様子はなかった。
 智也も圭介も、あの時のことをずっと気にしている。樹も出勤してこない。ならば夢でも幻覚でもない、あれは確かに現実なのだ。
 それなのに、行方が分からない。
 混乱した。
 市内の病院を当たりつつテレビとネットニュースも欠かさずチェックする中で、「身元不明者およびご遺体の検索サイト」というサイトを見つけ、検索をかけたが樹とおぼしき人物は見つからなかった。
 思い付く限りの方法で探し、十日ほど経った頃もう一度自宅へ足を運んだ。すると、敷地の前には侵入防止用の柵が作られていた。住民全員の退去が終わったのだろう。そのうち取り壊しが始まる。樹の母親は、一人で引っ越したのだろうか。帰らない息子のことを、認識できているのだろうか。それとも帰ってきたのか。だから慌てて引っ越したのか。しかしあんな怪我を負って十日で退院できるとは思えない。
 どっちだ。生きているのか、それとも――。
 結局何も分からないまま三年が過ぎ、あの噂が流れた。
 噂の出所を探る最中、良親から突然仕事の話を持ち掛けられた。弱味を握られている上にリンとナナを人質に取られ、成す術が無くなった。
 どこから聞いたのかイツキを探しに二人の刑事が訪れた。一般客を装い、怯えた風に見せていたがその目付きは明らかに一般人のものではなかった。
 日が変わり、セキュリティーから樹を名乗る男が来店していると報告が入った。智也も圭介も酷く動揺したが、ここで追い返すわけにはいかない。あの噂を樹が流したのならば、会わなければならない。
 いっそ殺されても構わないと思った。樹になら、樹がそうしたいのなら構わないと。だが、智也と圭介だけは許してやって欲しいと頼むつもりだった。自分の命を差し出すからと。そこで気が付いた。許してやって欲しいと思う者の中に、良親がいないことに。
 さらに先程、首を横に振った下平にほっとした自分に驚いた。
 確かに良親とは反りが合わなかった。人の弱みを握って脅すような人間、最低だと思っていた。好きか嫌いかと聞かれれば、迷うことなく嫌いだと言えるくらいには嫌っていた。自分が綺麗な人間だとは思っていないけれど、こんなに良親を煩わしく思っていたなんて気付かなかった。自覚していた以上に、良親を嫌っていた。
 またそれと同じくらい、自分を嫌悪した。
 ずっと、どこで間違えたのか考えていた。
 良親のくだらない遊びを止められなかった時か。良親に弱味を握られ、それでも臆病な自分に勝てなかった時か。それとも樹に声をかけた時か。いや違う。もっとずっと前――家を捨てた、あの時だ。
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