第16話

文字数 2,548文字

 もし、交番で見かけた時に声をかけていたら、今頃どうなってたんだろう。そういえば、あの事件のことで一つ気になることがあるんだよねぇ。
 夢現にそんなことを考えていると、突如、顔に衝撃が走った。冷たくて痛い。――水だ。そう認識したとたん、鴨川に飲まれた時の息苦しさが怒涛のように蘇った。
 近藤は硬く目をつぶり、もがくように体を揺らした。ガタガタと音がするだけで動かない、息ができない、口を閉じていても水が入ってくる。
 時折喘ぐように息をし、ずいぶんと長い時間だった気もするが、実際は一分もなかっただろう。やがて、水がぴたりと止まった。近藤は勢いよく息を吐き出し、弾かれたように目を見開いた。胸を激しく上下させて呼吸をする。
 昔の記憶が蘇ったせいもあるのだろう。しばらく、夢と現実の区別がつかなかった。
 凝視するように見上げた天井はコンクリートがむき出しで、ほんのりとした明かりに照らされて寒々としている。二本並んだ長い蛍光灯は一本が割れ、今にも欠片が降ってきそうだ。水をかぶったせいか、それともコンクリートに囲まれているためか、真夏にもかかわらずうすら寒くてかなり埃臭い。
 近藤の荒い呼吸音と咳き込む声が反響する。
 不意に、天井に影が走り、ペットボトルが転がる軽快な音が耳に飛び込んできた。息を詰め、反射的に起き上がろうと体を捻る。両手足に何かが食い込んで、近藤は痛みに顔を歪めて沈んだ。すぐに首をわずかに上げて視線を下半身へ向けた。確認するように手足を動かすと、ガタガタと音がした。両手足、それと胸の辺りをベルトでがっちり台に固定されている。指先に触れる感触からすると、スチール製の作業台か何かだろう。
 そうか。やっとまともに脳みそが動き出した。大黒通りで男たちに拉致されて、車のトランクに押し込められたのだ。暑さと痛さで気を失い、その間に目的地に連れて来られたらしい。
 ひとまず落ち着け。近藤は自分にそう言い聞かせ、大きく深呼吸をした。
 状況は思い出した。そして今は拘束されているのだ。だが口は塞がれておらず、首も動かせる。トランクに閉じ込められている間に、成分があらかた気化したのだろう。顔にわずかな痛みは残っているが、先程の水で涙や鼻水も洗い流された。だが、頭痛と倦怠感が酷い。脱水症。しかも中度。暑いトランクに閉じ込められていたせいだ。割れるような頭の痛みと、岩を抱えているような気だるさだ。
 と、視界の端に人影が映り、近藤はびくりと体を震わせた。頭痛と気だるさを堪えて、ゆっくり首を回す。
 拘束しても警戒しているのか。少し離れた場所に、デスクライトの置かれた古びたデスクワゴンがあった。こんな場所に電気が通っているとは思えない。充電式か電池式だろう。その隣に、一人の男が佇んでいる。ライトが顔に濃い陰影を作り、妙な迫力と不気味さを醸し出している。
「気が付いたか?」
 冷ややかな目でこちらを見下ろす男に、近藤は訝しげに眉を寄せた。全身黒づくめ。三十代くらい、細身、細い目は右目を前髪で隠し、口元には歪な笑みが浮かんでいる。拉致計画の被疑者の特徴と一致する。まさか、本当に自分が標的だったとは。
 だが、下平から写真は届いたが、いざこうして実際に顔を合わせても思い出せない。
「……誰?」
 掠れた声で問うた近藤に、男は忌々しそうに眉間に皺を寄せた。そんな顔をされても、思い出せないものは仕方ない。ここまでやるのだ。まさか人違いなんてことないだろうが、本当にどこかで会っているのだろうか。
 男は小さく舌打ちをかまし、気を落ち着かせるように長く息を吐いた。くるりと身を翻し、ずるずると汚れた折り畳み椅子を引き摺ってくる。
 その間に、近藤はざっと周囲を確認した。
 寝かされているのは、長方形の部屋の中央辺り。左側は一面くすんだ窓。右手には、扉が外れかけたりへこんだりしたロッカー、五段の横長のスチール棚。男の向こう側に、事務デスクや倒れた椅子がいくつか見える。あとは潰れた段ボールやヘルメット、ロープ、台車、小型の冷蔵庫などが、そこここに転がっている。工場か何かの事務所だと思われる。実行犯の男たちがいない。雇われただけだろうし、帰したのだろうか。
 男はライトの側に椅子を置き、乱暴に腰を下ろした。ガシャンと甲高い金属音が響く。背をもたれて足を組み、さらに膝の上で両手を組んでおもむろに口を開いた。
「近藤千早。京都府警察本部・刑事部科学捜査研究所・法医科の研究員。小料理屋・花筐を営む母親と二人暮らし。時々、母親に頼まれて店の手伝いをしている。恋人はいない。空手教室に通うのは毎週土曜日の午前中だが、ここ最近は忙しいためか行っていない。休日に出掛けることはほぼない。通勤は基本的にバス。帰り時間は決まっておらず、駅前のコンビニに寄る時は電車を使う。夏はアイス、冬は肉まんが定番で、弁当や総菜を買うことはない。終電を逃すと科捜研に泊まり込むのが習慣になっていた。だがここ一カ月ほどの間に、捜査一課の紺野という刑事の家に泊まるようになった。先日、同じ一課の北原という刑事が襲われた現場に居合わせて負傷。で、間違いないか?」
 長期的に調べられている。気付かなかった自分が情けない。しかも紺野と北原のことまで。あの事件の被害者が北原だと知っているということは、現場にいたのか。
「そうだけど。で、あんたはどこの誰なの?」
 努めて冷静に問うた質問に、沈黙が返ってきた。
「悪いんだけど、こんなことされる覚えがないんだよね。説明してくれると助かるんだけど。まさか、人違いなんてことないよね」
「ねぇよ」
 強く一蹴され、近藤は口を閉じた。ますます狙われる理由が分からない。
 しばし睨み合い、やがて男が静かに言った。
「俺は、科捜研に入るのが夢だった」
 は? と出かかった声の代わりに、近藤は目をしばたいた。よほどこの場所を突き止められない自信があるのだろう。案の定、身の上話が始まるらしい。本当は、そんなこと興味ないさっさと解けと暴れたいところだが、体調も体力も最悪だ。否定し、刺激して逆上されれば即座に殺されないとも限らない。こんな時は、静かに、口を挟まず、真摯に耳を傾けているフリをする。
 時間を稼ぐには、うってつけだ。
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