第6話

文字数 1,389文字

 案の定、明け方に帰ってきた母は、一直線に部屋へ向かってきた。
 眠りが浅く、神経が過敏になっていたのだろう。玄関の鍵がもどかしげに開けられる音で目が覚めて、一気に脳が覚醒した。勢いよく飛び起きて、近付いている足音を聞きながら布団から這い出した。部屋の奥、押入れの襖を背にした瞬間、パシン! と部屋の襖が乱暴に開けられた。向こう側に立っていた母の顔は、何度も見た、あの般若の顔だった。母を取り巻く黒い影が、今まで見た中で一番大きい。ゾッ、と全身が粟立った。
「あんた……ッ」
 布団を踏ん付けて大股でこちらに駆け寄り、手を振り上げる。美琴は反射的に身を縮ませ、顔を膝にうずめて両腕で頭を庇った。
「何やって……っ」
「お金を……!」
 ついて出た掠れた声に、母の手が止まった。
「お金を、稼ごうと、思って……っ」
 ごめんなさい、と声を震わせながら告げた言い訳に返ってきたのは、頭をぶつ手ではなかった。
「……ふぅん」
 納得したような声。絶対に殴られると思っていただけに、どう反応していいのか分からなかった。え、と口の中で呟いて、そろそろと顔を上げる。すると母は何を思ったのか、振り上げていた手を下ろし、すとんと目の前にしゃがみ込んだ。美琴の顎に手を添え、グイッと持ち上げる。
 こんな至近距離で目が合うなんて、初めてじゃないだろうか。しかも黒い影が小さくなっている。
 母はまじまじと美琴の顔を眺めたあと、顎から手を離し、全身に視線を滑らせた。わずかに膨らんだ半袖Tシャツの胸元、ショートパンツから伸びたすらりとした足。にやりと口元の端が持ち上がった。
「何だ、そうなの」
 母は、どこか満足そうに言いながら腰を上げた。
「でも、やるならもっと上手くやんなさい。あんた携帯持ってないから教えとくけど、生田神社の山側にホテルがあるわ。そうね、ホテル代込みで三万ってとこかしら。十八歳未満は入れてもらえないから、できるだけ大人っぽい恰好をして顔を隠しなさい。ああでも、しばらくはやめておいた方がいいわね。あの刑事に顔を覚えられてるでしょうし、パトロールも強化されると思うから。いいわね」
 淀みなく、かつ微塵の躊躇いもなく指摘と指南と注意を促され、美琴は言葉を失った。つまり、それは――。
「いいわね!?」
「はいっ!」
 強く念を押され、美琴は肩を跳ね上げた。どことなく浮かれた様子で部屋を出ていく背中から、目が離せなかった。
 襖を閉められ、風呂場の方から物音がして、やがてシャワーの音が響いた頃。カタン、と音を立てて、美琴は押入れの襖に体を預けた。全身から力が抜け、足がずるずると畳を滑った。
 自分の細い足を見つめながら、思った。これまで、ほんの些細なことでヒステリックに怒鳴り散らし、暴力を振るっていた母が、途中でその手を止めた。祖母がどれだけ止めても、どれだけ痛がってもやめなかった母が、金を稼ぐためと言ったとたん、やめた。さらに、咎めるどころか上手くやれと促してホテルの場所や金額まで教えた。つまり、娘は金になると判断したのだ。逆を言えば、金にならなければ価値がない、ということ。
 やっぱり、母にとって自分は、金以下の存在なのだ。
「三万……」
 しかもホテル代込み。もちろん、三万なんて自分にとっては大金だ。けれど、失うものが大きすぎる。その大切さを知らないわけがないのに。
 ――あたしの価値は、その程度か。
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