第1話

文字数 2,218文字

 柴が大きく跳ねた先は、畑の上。そこから見えた光景に、一瞬息が止まった。
「――父さんッ!!」
 吐き出した怒声と同時に弥生が振り下ろした霊刀は、いとも簡単に影唯の結界を砕いた。衝撃で印が外れ、わずかに足が地面を後ろへ滑る。くっと短く唸って足を踏ん張り、弥生を見据えた。
 大河が柴の腕の中から身を乗り出し、火の玉のいくつかが影唯の元へ向かう。霊刀を下から振り上げた弥生めがけて紫苑が空中で体を捻り、刀を投げ飛ばした。
「弥生ちゃんッ!」
 火の玉と対峙していた長袖の少女――真緒が甲高い声で叫んだ。弥生が振り上げかけた手をぴたりと止め、咄嗟に後退しようと体をわずかに逸らす。だが一歩遅かった。紫苑の刀が弥生の右腕を掠め、鮮血が飛んだ。刀が向こう側の木の幹に突き刺さる。畑の畝間に着地した紫苑が、襲いかかった犬神を鞘で弾き飛ばした。
「く……っ」
 弥生が傷口を押さえて苦悶の表情を浮かべる。紫苑を睨みつけながら数歩後退した。その時。
「弥生、上だ! 避け……っ」
 最後まで警告を口にすることなく、健人が庭から飛び出してきた鈴の蹴りを食らって塀へと吹っ飛んだ。ドンッ! と鈍い衝撃音を響かせて激突し、がはっと胃液を吐いて地面に落ちる。
「健ちゃん!」
 意識が弥生と健人に向いているせいで、火の玉の排除に集中できていないのだろう。火の玉に囲まれた真緒の叫び声が木霊した。
 一方、弥生が弾かれたように振り向いて見上げた先は、畑。柴に放り投げられるようにして空中に飛び出した大河が、険しい顔で弥生を睨みつけたまま落ちてくる。抱えていた文献が畑の中へ消えた。
 弥生が掲げた霊刀に、大河は躊躇いなく霊刀を振り下ろした。ガキン! と硬質で鈍い音が響き渡る。一瞬間が開き、着地した直後、弥生の霊刀が真っ二つに折れた。目を丸くした弥生が目にしたのは、ぞっとするほど真っ直ぐで真っ黒な眼差し。
 大河の目には、弥生しか映っていない。
 続けざまに、大河は真横に振り抜いた。弥生の後ろは裏山だ。身を低くして横へ避け、後退する彼女を追いかけて霊刀を振り上げる。再び具現化した霊刀に弾き返され、だが即座に切り返す。
 剣戟を響かせながら、徐々に坂の上へと追いやる。
「こいつ……っ」
 苦々しく弥生が呟いた。
 自分でも不思議なくらい、頭が冷静だ。体が軽い。相手の動きがよく見える。
 独鈷杵を使う時は、どうしても息苦しさが無くなることはなく、完全に集中することができなかった。慣れればそのうちと思っていたけれど、やっぱり違う。
影綱と体格が似ているのだろうか。あつらえたように完璧な握り心地。息苦しさもない。手と独鈷杵が一体化した感覚すら覚える。
 自分に合う独鈷杵が、これほど使いやすいとは。これなら、訓練と同じように動ける。
 めいっぱい薙いだ霊刀を受けた弥生が、顔を歪めてぐっと低く唸った。血が滴り落ちるほどの傷。響いて当然だ。大河は力任せに霊刀を振り抜き、弥生を腕ごと弾き飛ばした。バランスを崩しつつも足を踏ん張って耐えた弥生の手から、とうとう霊刀が消えた。
 このまま――。
 大河は、悔しげに睨みつけてくる弥生を凝視し、霊刀を掲げた。
「大河ッ!!」
「よせ」
 省吾や影唯、雪子の声が響き渡り、柴に腕を強く握られ、何故かぴりっとした痛みが手の平を刺した。
 極度の緊張を孕んだ沈黙が落ちる。
 大河が荒く呼吸をしながら、横目で柴を見上げた。黒と見紛うほど濃い深紅の目が、静かにこちらを見下ろしていた。そして、刀は弥生へと突き付けられている。
 柴が腕を掴んだまま、弥生を見やった。
「続けるのであれば、我らが相手になろう」
 弥生がゆっくりと、視線を畑へ向けた。健人は朱雀を肩に乗せた鈴に刀を向けられ、真緒は紫苑に腕を捻り上げられ、犬神は大量の火の玉に囲まれている。
 不意に擦れる葉音が近付いてきて、志季が頭上を飛び越えた。首を回して道路の方を見やり、おいおいマジかと呟きつつ鈴の近くへ着地する。
「弥生、撤退だ」
 志季を一瞥した健人が静かに告げると、弥生は歯噛みして俯いた。ゆっくりと真緒の腕を解放した紫苑を、犬神が体表から黒い煙を発して威嚇した。対抗するように、火の玉の色が濃くなる。
「やめなさい!」
 真緒の鋭い一喝に、犬神が怯えたように動きを止めた。
「弥生ちゃん、行こう」
 後ろ髪を引かれるようにゆっくりと、弥生は後ろへ下がった。犬神が触手を伸ばし、真緒の腕を絡め取る。そのまま避けた火の玉の間を抜けて、弥生の元へ移動した。健人もまた、ゆっくりと道路へ向かう。
 紫苑が三人を見据えたまま足を進め、柴の側で立ち止まった。
 道路で合流する三人を確認し、大河はやっと霊刀を消して腕を下ろした。腕は掴まれたままだ。
 犬神二体が、それぞれの前足を弥生と真緒、後ろ足一本ずつを健人の腕に絡ませて運んでいく。追いかけるように、朱雀が音もなく鈴の肩から飛び立った。
 三人と二体の姿が見えなくなるまで、誰もその場所から動こうとしなかった。
 しばらく、重苦しい空気が流れる。
 やがて沈黙を破ったのは、鈴だ。
「また酷いやられようだな。晴と宗史はどうした」
「ああ、宗史が限界でな。様子見て来いって言われたんだけど……」
 志季は大河を見つめ、息をついた。俯いたまま、微動だにしない。
「とにかく、あいつら連れてくるわ」
「ああ」
 志季は難しい顔のまま、神社の方へと飛んで姿を消した。鈴がこちらへ向かって跳ね、大河の側に着地した。
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