第9話

文字数 2,478文字

      *・・・*・・・*

 通勤には、バスを使う。電車でも行けなくはないけれど、歩く時間が短い方がいいに決まっている。けれど、バス停の近くにはコンビニが二軒。最寄駅の清水五条駅近くには三軒あり、バス停の近くにはないコンビニがある。烏丸線の五条駅から歩く羽目になるが、夏限定のオリジナルアイスに未だありつけていない。今日こそはと思い、電車で帰ることにした。
 だが、残念ながら今日も空ぶりだった。SNSで美味しいと話題になっていたせいで、入荷してもすぐに売り切れるのだろう。もういっそ予約できないかなと、大人気ないことを考えている時に母から電話が入った。急な予約が入ったから手伝ってくれと。
 女手一つで育ててくれた母の頼みを断る選択肢はない。もちろん、仕事でどうしても断らなければいけない時はあるが、しょっちゅうというわけではないし、店が落ち着くまでの間だけだ。家の近くのコンビニにいるから、と告げて、結局何も買わずに店を出た。
「あっつ……」
 うんざり顔でぼやいて、近藤は自宅方向へと足を向けた。午後七時半過ぎ。すっかり薄暗い中、街灯の明かりが道を照らす。あと三十分もしないうちに、陽は完全に沈むだろう。
 京都には、五花街(ごかがい)と呼ばれる花街がある。祇園甲部(ぎおんこうぶ)先斗町(ぽんとちょう)上七軒(かみしちけん)祇園東(ぎおんひがし)、そして宮川町(みやがわちょう)の五つだ。
 自宅近くにある宮川町は、もともとは遊郭だったらしいが、昭和33年に売春防止法が施行され、花街となった。そのため、花街としての歴史は六十年ほどと浅く、小綺麗な建物が多く目につく。しかしその街並みは、これぞ京都といった、古風ではんなりとした風情を感じることができる。そのわりに観光客の数は少ない。
 やっぱりアイス買ってくればよかった。そんな後悔をしながら、肩にかけた鞄から水のペットボトルを取り出して一口喉に流し込む。
 ゆっくりと陽は沈み、昼間の熱を残したまま、薄暗さは増してゆく。
 ホテルにパーキング、マンションやアパートを通り過ぎ、さらに自宅も通り過ぎて、交差する柿町通りに出る。十字路の角にある銭湯の看板には明かりが灯り、温泉マークが浮かび上がる。二台並んだ自動販売機の前で、風呂上がりだろうか、肩にタオルをかけた初老の男性と子供が一緒に商品を品定めしていた。
「じいじ、これがいい」
「大きいのは飲み切れないだろう。小さいりんごジュースがあるぞ」
「嫌、これがいいの」
「しょうがないなぁ」
 溜め息をつきながらもどこか楽しそうな祖父に、子供の歓声が上がる。
 そんなほのぼのとした光景を横目にすれ違い、さらに歩を進める。男性と子供の声が遠ざかり、自転車に乗った学生らしき女性が後ろから追い越して行った。
 ふと、後ろから足音がするのに気付いた。自分の足音かと思ったけれど、違う。同じ速度でついてくる。
 大黒町通りには、観光スポットがある。あじき路地(ろうじ)と呼ばれる、築百年を超す町家長屋がそれだ。通りに入ってすぐ左手の細い脇道に、知らなければ見落としそうになるほど小さな看板が設置されており、若手作家たちが店舗兼住宅として活動している場所だ。綺麗に整備されているわけではなく、どちらかといえば昔ながらの生活感が漂う狭い路地。営業日は大体週末で、午後七時頃には閉店してしまう。つまり、この時間はすでに店は閉まっているのだ。
 あじき路地を通り過ぎても、足音はついてくる。ここが目的地ではないらしい。
 他には、玄関脇に立つ二本の巨大な古木を目印としたホテルなどの宿泊施設が二、三軒あるくらいで、あとは煙草屋や酒屋、喫茶店、ヘアサロンや住宅が軒を連ね、京都ならどこにでもあるような通りだ。
 この辺りの住人か、ホテルに宿泊している観光客だろうか。
 近藤はわずかに眉を寄せ、携帯を尻ポケットから取り出した。カメラを起動し、インカメラにすると何気ない素振りで後ろを映す。街灯で光量は十分。知らない男だ。二十代くらい。茶髪に黒のパンツ、オーバーサイズのシャツ。携帯をいじりながら、一定の距離を保っている。荷物を持っていない。ということは、観光客ではないのか。
 警戒心が、頭をもたげた。
 寮で会合があった日、紺野の自宅で下平からの報告を受けた。鬼代事件に、桐生冬馬が聞いた拉致計画。動画に切り替えて、そのまま録画する。
 気にしすぎならそれでいい。けれど、もしもということがある。この危惧が当たっていたとしたら、可能性は二つ。
 北原襲撃事件で、犯人側にこちらの身元が伝わっている可能性は高い。だが、土御門陽の前例があるからこそ、二度も同じ手を使ってくるとは考えにくい。ましてやすぐに気付かれるような尾行をするとは思えない。そもそも、徒歩で尾行をしなくても式神や悪鬼を使って頭上から追える。実際、北原襲撃事件で平良がどこから西花見小路通りに入ったのか判明していないと聞いている。人外を使って屋根から通りに下りたとすると、説明が付く。となると、拉致計画の男か、あるいは知らず知らずのうちに恨みを買っていたかのどちらかだ。
 だが、心当たりがない。人付き合いは得意ではないので、プライベートの人間関係は限られる。その中でこんなことをしそうな人物はいない。一方仕事関係は、知り合いは多いが恨まれるほどの付き合いはない。となると、事件関係者。特に犯人。しかし、科捜研は縁の下の力持ち。刑事の捜査を科学的にサポートするのが仕事だ。表立って犯人を追いつめることもなければ、逮捕することもない。犯人から恨まれる覚えなどないのだ。そもそも、犯人が警察関係者を恨むなんて、逆恨みもいいところだ。捕まりたくないなら初めから罪を犯さなければいい。それはともかく、まさか、ストーカーや無差別殺人の標的にされたわけではあるまい。
 さて、どうするか。
 鬼代事件であれ拉致計画の犯人であれ、どのみち自宅と店の場所は割れていると考えるべきだ。北原襲撃事件は数日前、拉致計画においては一週間以上前からだろう。日頃の行動パターンは調べられている。さらに言うなら、仲間がいる上に車を使う。逆恨み犯がここで襲うつもりなら話は別だが。
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