第1話

文字数 3,574文字

 僕、性格悪いな。
 午後六時。春平は縁側に腰を下ろし、息を切らしながらタオルを頭から被った。
 今朝早く、大河が茂たちと共に寮を出発した時、ほっとしたのだ。少なくとも明日までは、大河の顔を見なくてすむ、と。
 決して大河のことが嫌いになったわけではない。彼の、真っ直ぐで何にでも一生懸命で素直な性格は、見ていて微笑ましいと思うし、一緒にいて楽しい。だからこの嫉妬は、「陰陽師としての大河」へのものだ。
 彼を友人として、仲間として慕う気持ちは間違いなくあるのに、あの急激な成長と資質に嫉妬する。けれどそれは、大河の責任ではない。持って生まれた資質は、本人にはどうしようもないものだ。だからこそ、そう分かっているからこそ嫉妬は募り、色んな感情がぐちゃぐちゃに入り混じって、どんな顔をすればいいのか分からない。
 それに加えて、昨日の謝罪。大河は、自分が嫉妬されているなんて考えもしないのだろう。そして、こんな醜い感情を、知らないのだろう。
「集中してねぇな」
 どすんと隣に腰を下ろしたのは、死相を浮かべた弘貴だ。白いTシャツがびしょぬれになっている。春平はタオルの端で顔の汗を拭いながら、勢いよくペットボトルをあおる弘貴を見やった。
「もう終わったら? 無理して倒れたら、元も子もないよ」
 弘貴は残っていたスポーツドリンクを飲み干し、長い息を吐きながら肩から力を抜いた。
「分かってるって。でもあと少しだけ。樹さんのガチ指導って、大河がいないときじゃねぇと受けられねぇし」
「そうだけど……でもあれ、半分八つ当たり……」
 柴と紫苑がいないため、手合わせの相手に来てくれた右近と対峙している樹は、今にもぐるると唸りそうなほど鋭い目つきをしている。さすがに右近も引き気味だ。
「そろそろまずいよなー。完全に糖分不足。右近、噛み付かれねぇかな」
「獣じゃないんだから。処分明けまで、あと四日?」
「もたない方に五百円」
 突然の賭けに、春平は苦笑した。
「それ、賭けにならないよ」
「だよな」
「ちょっとそこの二人! 人を賭けのネタにしないでよ!」
 右近に強烈な蹴りを放ちながら、樹が苦言を飛ばしてきた。
「地獄耳か、あの人」
「怖い……」
 おいそれと話しのネタにもできない。
「樹。苛立つのは分かるが、動きが雑になってきているぞ。終了だ」
 繰り出された拳を簡単に止めた右近から強制終了がかかった。動きが雑になるなんて、よほど限界が近いらしい。樹は体全体で息をして拳を引っ込めると、そのまま俯いて息を整え、勢いよく空を仰いだ。
「チョコが食べた――い!」
「樹くん、ご近所迷惑だよ」
 離れの「森もどき」で美琴と訓練をしていた茂が突っ込んだ。二人も死にそうな顔でこちらへ向かってくる。残念終わりか、と呟いて弘貴が腰を上げ、締めの柔軟に入った。
「右近、美琴ちゃんの手当て頼んでいいかな?」
「ああ」
 息を切らしながら縁側に腰を下ろした美琴は、腕やら頬やら至るところに傷を作っている。茂も隣に腰を下ろし、タオルを手に携帯を確認した。
「美琴、式神(わたしたち)がいない時は無理をするなよ」
 右近の注意に、美琴は無言のまま頷いた。息切れで言葉にならないらしい。キッチンから、香苗が新しいペットボトルとティッシュを抱えて駆け寄ってきた。
「美琴ちゃん、大丈夫?」
 ご丁寧に蓋を開けて差し出されたそれを受け取り、ひとまず大きくあおる。喉を鳴らして流し入れ、長く息を吐き出してから、ぽつりと言った。
「……ありがと」
 顔も見ないまま告げられた礼に、香苗は肩を竦めてはにかんだ。
「ううん。あっ、血、拭かなきゃ」
「じ、自分でできるわよっ」
 治癒が終わった腕へ手を伸ばした香苗からティッシュを奪い取り、美琴は顔を赤く染めて血痕を拭き取った。
 そんな二人のやり取りを隣で茂が、キッチンからは華と夏也が微笑ましく見守っている。ちなみに、怜司は部屋にこもって訳を読みふけっており、藍と蓮はソファで録画したアニメを見ている。昴のこともあり、さらに柴と紫苑がいないため朝から少し元気がなく、散歩もいつもより早く戻ってきた。
 香苗の事件があった日からだろうか。何となく、二人の距離が縮まっている気がする。一昨日も庭の掃除を二人で組んでやっていたみたいだし、今日も秘術の訓練の時、美琴は香苗にコツを聞いていた。会得している宗史と晴が不在ということもあるからだろうが、何というか、そうすることが当然であるかのように、自然だったのだ。
 実力は確実に美琴の方が上だ。香苗に一歩先を行かれたのに、負けず嫌いの彼女が何とも思わないのだろうか。それとも、自分の心が狭いだけだろうか。
 遠慮せずに拭いてもらえば良いではないか、嫌よっ、と珍しく言い合う右近と美琴から顔を逸らし、春平は息をついた。
「さすがにまだ連絡ないねぇ」
 弘貴と一緒に柔軟をしていた樹が、茂の隣に腰を下ろして携帯を確認した。
「やっぱり、日が暮れてからだろうね」
「監視されてるだろうし、島の人たちを巻き込みかねないもんねぇ」
 一瞬、しんと沈黙が落ちた。敵側は誰が来るのか。その中に昴はいるのか。もしいた場合、大河たちは昴と対峙することになる。
 昨夜、茂から紺野を捜査に戻したのは近藤であることと、彼の秘密を聞いた。それと、昴の荷物をどうするか。携帯は柴と紫苑へ手渡され、皆で相談した。割り切るために処分するか、処分して割り切るか。結局結論が出せず、紺野に判断を任せることにした。あとで仮眠から起きてきた樹と怜司に伝えると、二人はすんなり同意した。
 頭では分かっているけれど、気持ちがまだ追い付かない。それなのに、荷物を片付けるという具体的な行動が、現実を突き付けてくる。
 茂が場を取り繕うように、短い沈黙を破った。
「でも、もし襲撃されたとしたら、どうやって僕たちの動きを知ったのかな。独鈷杵の回収に行くって分かっているにしろ、日にちまではさすがに分からないと思うんだけど」
「先に山口に入って待機するって手もあるけど、例の日ぎりぎりだったら、かなり無駄な時間を費やすことになるよねぇ……」
 樹は一旦言葉を切って一つ唸り、はっと閃いた顔で人差し指を立てた。
「刑事の張り込みみたいに、マンションの一室を借りてるとか」
「えー、それをやられたらさすがに分からないなぁ」
 茂が朗らかに笑った。笑い事ではないと思うのだが。寮の近所は、一軒家が多いがアパートやマンションも建ち並ぶのだ。決してないとは言い切れない。
「まあ、鈴もいるみたいだし、心配いらないでしょ。それに、こっちが訓練に励んでる時にのんきにお昼寝できるくらい余裕があるみたいだしねぇ」
 あっはっは、と笑う樹の言葉はまるでサボテン並みに棘だらけだ。全員がフォローのしようがないといった、いたたまれない表情で顔を逸らす。
 五時を少し回った頃だっただろうか。宗一郎から、一斉に大河たちのお昼寝中の写真が送られてきたのだ。微笑ましいというよりは面白がっているとしか思えないものだったけれど、鈴が映っていたのは驚いた。廃ホテルの事件から一向に姿を見せないため、大丈夫なのだろうかと心配はしていたが、まさか山口にいるとは。
「まあまあ、樹くん。体力温存してるんだよ。宗史くんも万全じゃないだろうし」
「それは分かってるけどさぁ、あそこまで気持ち良さそうに寝られたらなんか腹立つ。だってほら、御魂塚があった場所って、大河くんちの山でしょ? 有効活用したのかなぁ、もったいない」
「ああ、確かにそうだね。実際の山で訓練できるなんて、羨ましいなぁ」
「でしょ? 僕たちは森もどきなのにさ。今度山口に行く機会があったら立候補しよーっと」
「あっ、俺も俺も。大河の幼馴染みに会ってみたい!」
 元気よく手を上げた弘貴に、あー確かに、と同意の声が上がる。密かにこんな計画が企てられていようとは、大河は思いもよらないだろう。
 そろそろ大河たちは起きただろうか。宗史に晴、志季に柴、紫苑、そして鈴。戦力はかなり高いけれど、敵側の実力はまだ判明していないし、鈴を負かした式神もついている。
 春平は口元にタオルを強く押し当てた。
 大河がいなくなってほっとしたのに、大丈夫だろうかなんて。心配する気持ちは確かにある。それなのにどこか上辺に思えるのは、嫉妬心のせいだろうか。自分なんかが心配しなくても、と卑屈な自分が密かに囁く声がする。
 ――何だか、自分がどんどん嫌いになっていく。
「皆、そろそろシャワー浴びてきてー」
 キッチンから華の声がかかり、春平ははっと我に返った。はーいと返し、緩慢とした動きで腰を上げる弘貴たちに慌てて続く。
「何にせよ」
 続けた樹に視線が集まる。
「無事に回収してくると思うよ?」
 にっと口角を上げて告げられた含みのある言葉に、春平たちは小首を傾げ、右近はわずかに目を細めた。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み