第3話

文字数 5,030文字

 下平はメモに視線を落とした。
「そんなことより続きだ。あの場所には呼び出されて行ったらしいな。連絡方法は」
「……メッセージが来た」
 俯き、落胆した様子で答えた尊に視線を投げる。
「相手は」
「本山」
「いつだ」
「あの日の、確か、夜の十時を回ったくらい」
「そのメッセージ、残してるか?」
 尊は横に首を振った。
「また来たら怖いから、あの後すぐに消した」
「内容は覚えてるか」
 尊は逡巡し、確か、と前置きをして答えた。
「久しぶりだな、から始まって、全部説明してやるから今夜会って飲もう、お前もなんか持ってこい、みたいな。あとは、時間と住所と地図が添付されてた」
 酒を持ってこいと示唆するような文面だ。証言の信憑性を薄れさせるためか。
 つまり、菊池は本山の携帯を所持し、それを使って尊に連絡を取ったことになる。手に入れたのは、おそらく悪鬼に食わせた時。本山が落とした物を拾ったのだろう。となると、本山の家族は今でも携帯を解約していない。携帯は唯一の連絡手段だ、一縷の望みとして解約しなかったのだろう。
 さすがに電源は切っているだろうが、尊へメッセージを送る際は電源を入れなければならない。基地局へのアクセス履歴データが携帯電話会社に残っているはず。大体の位置が絞り込める。尊から自分の身元がばれることくらいは想定しているだろうから、菊池も行方不明になっている可能性が高い。捜索願を調べるか自宅に行くかして顔写真を手に入れ、周辺の防犯カメラ映像に顔認証をかければ足取りが追える。その先に潜伏場所があるなら鬼代事件の捜査も大きく前進するが、そう上手く事が運ぶかどうか。
 かなり時間がかかりそうだな。
 下平はメモを書き終え、身じろぎ一つせずじっと床に視線を落とす尊を見やった。
「尊、もう一ついいか」
 ふいと尊が視線を上げた。
「お前が言う黒い煙が本当だとしたら、友達が三人同時に目の前で消えたことになる。警察に通報したのか」
 逃げるように視線を逸らし、俯いた。組んだ手をもじもじと動かしている。
「……してない」
「何でだ。カツアゲのことが知られるからか」
「それもあるけど、初めは信じられなかったから。でも、末森は学校に来ないし、本山たちからも連絡ないしで、どうしようって思ってたら、次の日に連絡が来た」
「本山からか」
 うん、と小さく頷いた。
「いきなり消えてびっくりしただろ、色々あってしばらく姿消すから誰にも言うなよって。また連絡するって。だから、見間違えだと思ってた。何か仕掛けがあったんだなって」
「返事はしなかったのか」
「した。すぐに電話かけたんだけど、繋がらなかった。何回かメッセージとかも送ったけど、既読にすらならなくて。でもちゃんと本山の携帯からで、色々あったって書いてあったし、何かあったのかなって……」
 なるほどな、と下平は口の中で呟き、顎に手を添えた。
 警察に通報させないための先手を打っていたか。例え捜査しても証拠は出ないが、念のため。
 それに、悪鬼のことを知らない尊になら、いきなりは無理でも時間が経過するごとに見間違えか幻覚だったと思い込ませることができる。疑心があって非現実的な現象ならなおさらだ。
 尊は一年間、ずっと菊池の嘘を信じて過ごしていた。そんな中、幻覚だと思っていた得体の知れないものがまた目の前に現れ、今度は自分を襲った。相当衝撃的だっただろう。
 下平は深々と溜め息をついた。菊池は、本山の携帯が解約されないと読んでいたのだろうか。解約されたことを考えて、別の手段を用意していただろうか。
 菊池雅臣とは、どんな人物なのだろう。
「あの、刑事さん……」
 蚊の鳴くような声で呼ばれて視線を投げた。今にも泣きそうな顔をして、尊がじっとこちらを見つめている。
「俺……どうなるの?」
 下平は顎に添えた手を下ろし、真っ直ぐ尊を見据えて静かに告げた。
「カツアゲに関しては、菊池次第だ。お前たちにやられた行為の記録や怪我の診断書があれば、逮捕は免れん。こうしてお前も自白してるからな」
 尊が息を飲んだ。
「だが、菊池がやったことに関しては難しい。一年前については何とも言えんが、お前たちを襲ったことは、あのカメラ映像からじゃ菊池だと断定するのは難しい。もし証拠が出て断定できたとしても、歩夢たちを一発殴っただけだ。計画性はあるが、動機としてカツアゲのことを喋っちまえば、補導が関の山だろう。だが、お前は逮捕される」
 つまり、菊池が逮捕される確率はほぼゼロだが、尊は菊池次第で逮捕される。だからと言って野放しにすれば命を狙われ続ける。尊の運命は、菊池が握っているのだ。
 尊は唇を噛み締め、俯いて肩を震わせた。
「いいか尊。恐喝、脅迫、傷害、これは全て犯罪だ。自分たちの欲を満たすためだけに菊池をいたぶって恨まれた挙げ句、襲われた。お前たちはそれだけのことをした、それだけ菊池を苦しめたんだよ。理不尽にな」
 堪え切れなくなったのか、嗚咽を漏らし始めた尊を、下平は冷静な目で見つめた。
「これから先、お前は自分の罪を償わなきゃならん。それはもうどうしようもない。けど、お前の命を救うことはできる」
 犯歴は付く。一生それを背負って生きて行かなければならない。けれど、命を落とすよりはずっといい。
「俺たちはそのために動いてるし、歩夢たちもお前のことを心配して話してくれた」
 下平は立ち上がり、うう、と唸るような嗚咽を漏らす尊の側に歩み寄った。
「深夜徘徊と飲酒喫煙はいただけねぇが、いい友達じゃねぇか。大切にしろよ?」
 少々乱暴に髪を掻き回し、不意に手を止めた。
「お前、どうする?」
 神妙に尋ねた下平の言葉の意味を理解できなかったのか、尊は鼻をすすりながら顔を上げた。
「カツアゲの件、今から警察に行くか」
 警察官としてはこのまま連行するべきだし、いっそ容疑者として尊を警察で保護した方が安全だとは思う。
 しかし、尊がこうして自白したとはいえ、被害者である菊池がどうするかによる。加害者が自白をした以上警察は裏取りをするだろうが、共犯者はおらず悪鬼の件は論外。その上菊池が行方をくらましている可能性はかなり高い。となると証拠も証言も取れない。例え自宅にいたとしても、復讐が目的なら口をつぐむだろう。証拠がない限り、警察は権限を行使できない。保護できる期間もそう長くはない。
 尊は手の甲でしきりに涙を拭い、しゃくり上げながら俯いた。
 この様子では逃亡はないだろう。外に出ればいつ菊池に襲われるかという危機感もある。
「尊、菊池が捕まればおのずと家族には知れる。その前に自分で話すか、それとも菊池が捕まるまで黙っておくか、自分で決めろ」
 それと、と下平は警察手帳を取り出し、名刺を差し出した。
「何かあったら連絡しろ」
 菊池はもう一度、尊を狙ってくる。
 あの時、別の目的があったにしろ、あの場で尊を食わせることもできたのにしなかった。悪鬼を生むほどの恨みに加え、紺野は、尊を追い立て楽しんでいるように見えたと言った。恐怖に怯え、尊が弱っていく姿を見て楽しむつもりなのかもしれない。
「今日のところはこれで終わりだ。いいな、よく考えろ」
 渡した名刺をゆっくりと受け取り、じっと見つめたまま、尊は小さく頷いた。
 まるで固まったように動かなくなった尊を見つめ、下平は背を向けた。静かに部屋を出て扉を閉める。
 階段を下りていると、リビングから慌ただしい足音と「ちょっと待ってください」と榎本の慌てた声が響いた。
「あの……っ」
 階段下に顔を覗かせた母親の後を追って、榎本も顔を出す。
「尊は……っ」
 榎本が、階段を駆け上ろうとした母親の腕を掴んで止めた。下平は冷静な面持ちで階段を下り、告げた。
「お母さん、今は一人にしてやってくれますか」
「でも……っ」
「あいつは自分で考えて、自分で答えを出せます。いくら親でも、それを邪魔する権利はありません」
 率直に意見した下平に、榎本と母親が目を丸くした。
「邪魔って……っ人聞きの悪いこと言わないで! あたしはあの子のためを思って……っ」
「だったら一人にしてやってください」
 鋭い声に、母親はびくりと肩を跳ね上げた。下平は静かに息を吐いた。
「あいつには、一人でじっくりと考える時間が必要なんです。心配ありません、ちゃんと答えを出して、話してくれます。それまで待ってやってください」
 酷く冷静に、しかし優しい声色で諭され、母親はでもとぼやきながら階段を見上げた。
「信じてやってください、尊を」
 穏やかに微笑みを浮かべた下平に、母親は口をつぐんで俯いた。
 現実問題、菊池も本山たちもいない今、尊の話を聞いた両親がどうするかは、もう家族の問題だ。下平は榎本に視線を送り、母親の横を通り抜けた。靴を履き、じっと立ち尽くす母親に礼を告げる。
「では、これで失礼します。ご協力ありがとうございました」
 振り向く素振りすら見せない母親に頭を下げて、下平と榎本は河合家の玄関をくぐった。
 玄関の扉が閉まる音を背中で聞きながらスロープを進み、門扉を出る。家の前に止めていた車の鍵をキーレスで開けながら、榎本が疲れた息を吐いた。
「すまんな、榎本。よくあの母親を引き止められたな」
「苦労しました」
 少々仏頂面で運転席のドアを開けた榎本に、下平は苦笑して助手席に乗り込んだ。
「どうしても二階に行くと言うので、尊くんはどんな子なんですかって聞いたら、それからず――――っと話を聞かされました。生まれた時から、半泣きで」
「そ、それは、すまん……」
 それも親心、仕事だと言いたいところだが、さすがに生まれた時からは勘弁して欲しい。しかも半泣きか。
 ずーっと、の部分を強調し、冷ややかな眼差しを向けてきた榎本から逃れるように、下平は視線を逸らした。事細かに聞かされたのだろう、榎本はもう一度溜め息をついてシートベルトを引き出した。
「それで、どうでしたか?」
「もちろん取れたぞ、任せろ」
 胸を張ってシートベルトを締めた下平に、榎本が満足そうに頷いた。どっちが上司か分からない。もし取れていなかったら、きっとこの先ずっと頭が上がらなかっただろう。警部補が巡査部長に。想像するだけでも恐ろしい。
「野瀬歩夢の証言、合ってましたか」
 一転して榎本の神妙な声色に、下平も表情を引き締めた。
「ああ、間違いない。ただ、先に調べもんがあるから、そうだな……」
 少年襲撃事件を担当している下平の班は、下平を含め六人。三班に分かれて捜査を行っている。彼ら捜査員への報告、本山たちと菊池の身元の洗い出し、そしてこれからの捜査方針を話し合う必要がある。
「一旦、全員署に呼び戻す。一度に話をした方が手間もねぇし、今から戻って終わる頃には昼だろ。ちょうどいい」
「分かりました。じゃあ戻ります」
「ああ」
 ゆっくりと車が動き出し、下平は携帯を内ポケットから携帯を取り出した。捜査員の一人へと繋ぐ。
「俺だ、お疲れさん。河合尊から証言が取れたから、一旦署に戻って来い。捜査方針も立て直す。ああ、じゃあよろしくな」
 残りの班へ連絡を終えると、下平は短く息を吐いた。
「大丈夫ですか?」
 ちらりと横目で窺われ、下平は「んー」と答えとも返事ともない声を漏らし、口をつぐんだ。榎本は怪訝な顔をしたが、そのまま何も言わずに車を走らせた。
 高校生らしき男女のカップルが、微妙な距離を保って歩道をゆっくりと歩いている横を通り過ぎた。
 菊池には彼女がいた。こんなことになっていなければ、今頃あのカップルのように初々しく二人の時間を過ごしていたのだろう。親が医者なら、彼自身も医者を目指していかもしれない。高校三年生の夏。一緒に受験勉強に励み、気晴らしに遊びに出掛け、明るい未来を夢見ていただろう。それを、尊たちが奪った。
 気持ちが分からないと言えば嘘になる。同情すべき点は多い。けれど――。
 下平は車窓に顔を向けたまま、榎本に分からないように溜め息をついた。
 善か悪か、白か黒か、ゼロか百か。二種類の概念で明確に判断できれば、どれだけ楽だろうと思う。それとも、もし刑事でなければ菊池の怒りは当然だと、割り切ることができただろうか。
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