第14話

文字数 2,919文字

「まず初めに――ああ、そうだ。美琴ちゃんは、本名かい?」
「あっ、はい」
 そうだ、きちんと名乗っていなかった。美琴は体をできるだけ明の方へ向け、姿勢を正し、両手を膝の上に乗せてぺこりと頭を下げた。
「樋口美琴です。……中学二年です」
「え?」
 明が驚きの声を漏らした。少し迷ったが、この人に隠し事はしたくない。そう思ったのだが、やはりまずかっただろうか。恐る恐る顔を上げると、明が目を丸くし、感心した様子で息をついた。
「てっきり高校生だと……。最近の子は大人びているな」
「また、宗一郎に弱みを握られるぞ」
「やめてくれ。まあ、それは覚悟の上だが……」
 正確な年齢を見抜けなかったのかと言われるな、と小さくぼやいて、明はしみじみと溜め息をついた。何だかよく分からないが、年をごまかしたことが明の弱みになるらしいことだけは分かる。
「嘘をついて、ごめんなさい……」
 申し訳なさそうな顔で謝ると、いやいやと明は苦笑した。
「気にしなくていい。こちらの話だ。では、本題に入ろう。まず初めに、聞きたいことがある。君は、幽霊を見たことがあるかい?」
 思いもよらない質問に、美琴はきょとんと目をしばたいた。
「幽霊ですか? いえ……」
「では、何か不可解な現象、特に水に関する不思議な出来事を体験したり、黒い靄や影のようなものを見たことは?」
 尋ねられて、思わず言葉を失った。何で知っている。
「あり、ます」
「どんな?」
「えっと……」
 母に殴られている時に、と言いかけて思いとどまった。さすがにこれは。
「突然、蛇口が開いて水が出たり……しました」
「黒い靄や影は?」
「母に、よく見えていました」
 わずかに眉を寄せた明と閃に、不安にかられた。
「あの、あれって何なんですか?」
 少し身を乗り出して尋ねると、明は一度瞬きをした。
「人の負の感情が具現化したもので、普通の人には見えない。僕たちは、邪気と呼んでいる」
 返ってきた答えに、驚きを隠せなかった。けれど同時に、妙に腑に落ちた。普通の人には見えない、負の感情。蛇口の件は分からないけれど、要は、自分に霊感があると言いたいのだろう。だがそれ以上に、気になることがある。
「それって、感情が強ければ強いほど、濃く見えたりするんですか?」
「ああ」
 端的な答え。そうですか、と美琴は小さく返して、視線を泳がせながら俯いた。そうか。だから補導された翌朝、殴ろうとした時はより濃くて、そのあと突如として小さくなったのか。娘が金になると分かって、喜んだから。
 ぎゅっと握られた膝の上の拳をちらりと見やり、明と閃が目を細めた。明が気を取り直すように目を伏せ、ゆっくりと開く。
「美琴ちゃん」
 呼びかけられ、はっと我に返る。
「先に、我々のことを話しておこう」
 そう前置きをした明の口から語られたのは、土御門家と双璧を成す賀茂家や、陰陽師たちが暮らす寮、陰陽師の現状や、彼らが請け負う仕事の内容だった。驚かなかったと言えば嘘になるけれど、白い人形や、何より閃と水龍を見たあとでは、信じるほかなかった。
「ここまでで、何か質問は?」
「いえ」
「では続けよう。陰陽師には、それぞれ属性がある。特に多いのが、火、水、土属性の術者だ。先程確認したところ、君は水に属する」
「え……?」
「擬人式神を撃退したのは、君自身だ」
明が言うには、美琴が叫んだとたん洗面台の蛇口が開き、量はかなり少なかったが、勢いよく吐き出された水の一部が擬人式神を攻撃したらしい。擬人式神や床が濡れていたのは、そのせいだ。
 そう言われると水浸しになっていた説明はつくが、あの時は極度の興奮状態にあって記憶が飛んでいる。美琴は膝に置いている手に目を落とした。
「でも、実感が全然……」
「初めは皆そんなものだよ。だが、僕がこの目で見ている。君には、間違いなく陰陽師としての素質が備わっている」
「素質……」
 ああ、と明が頷いた。
「霊感は、本来誰でも持っているものだ。第六感もその一つ。だが、霊感があるからといって、霊力もあるとは限らない。現代において霊力が備わっている者は稀で、非常に貴重な存在なんだ」
 貴重――。
 その言葉に、心惹かれないと言えば嘘になる。けれど。
 美琴はぐっと歯を食いしばり、顔を上げた。
「もし本当に素質があったとして、あたしは、どうすれば……」
 明は一度瞬きをして、言葉を選ぶようにゆっくりと告げた。
「京都に、来ないか」
「え?」
「先程も話したように、陰陽師の数は少なく、我々だけでは手が回らないのが現状だ。ぜひ君の力を貸してほしい。もちろん強制ではないし、今すぐ答えが欲しいとは言わない。話を聞いただけでは実感も湧かないだろうから、見学に来ても構わない。そのあとどうするかは、君の自由だ」
「……あたしの、自由」
 ずっと、窮屈だった。祖母が亡くなってからますます窮屈さは増し、息苦しささえ覚えた。窒息しそうだった。もし京都へ行けば、寮に入れば、きっとこの息苦しさから解放される。けれど、母が許すとは思えない。娘は金になると知った今、絶対に手放そうとはしないだろう。
 自由になれる道が提示されたのに、母という存在が行く手を塞ぐ。
「もし」
 明が続けた。
「もし京都へ来るのなら、親御さんの説得はこちらで行う。君は何もしなくていい」
 今すぐ、このままこの人について行きたい。新しい場所、新しい生活、新たに出会う人たち。友人や瑠香たちと別れるのは寂しいけれど、今生の別れではない。神戸と京都ならそう遠くはない。会おうと思えば会える。今はただ、母から、この息苦しい生活から逃れたい。
 そう思っても脳裏をよぎるのは、母の姿。あの母をどう説得するのか。何よりも自分を大切にし、娘を売ってでも金に執着する人だ。娘の代わりに金を要求するなんてことが、ないとは言い切れない。明たちに、あんな母を見られたくない。迷惑をかけたくない。
 お断りします。そう告げようとして薄く口を開いても、言葉は喉に詰まって出てこなかった。美琴は唇を一文字に結び、視線を落とした。
「時間を、下さい……」
 かろうじて絞り出した答えが妙に情けなくて、鼻がツンと痛んだ。明に迷惑をかけたくないと思うのに、自分が楽になる道を捨てきれない。母と、同じだ。
「もちろん。急ぐことではないから、ゆっくり考えるといい。名刺の裏に携帯の番号を書いておいたから、何かあったら遠慮なく連絡してくれて構わない。それと、念のためにこれを渡しておこう」
 明は、内ポケットから先程と同じ細長い紙を取り出した。
「結界の霊符だ。悪いものから君を守ってくれる。本来は護符を渡すべきだが、即席で描くよりは効果があるから。保障するよ」
「ありがとうございます」
 悪いもの。負の感情、邪気のことだろうか。確かに、母の邪気は全身に悪寒が走るくらい禍々しい。それを感じなくなる、のだろうか。
 それにしても、明は術者、結界、霊符、お守りではなく護符と言った言葉を違和感なく、当然のようにするりと口にする。日常的に使っている証拠だ。この人は、本当に紛れもなく陰陽師。そう改めて実感しながら受け取り、まじまじと眺め回す。本物の陰陽師が使っている霊符なんて貴重だ。大切にしなければ。

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