第7話

文字数 3,979文字

 場所は、京都駅前の居酒屋。
 飲み会が始まって一時間が経った頃、トイレに立った。明日は休みだし、あと一時間くらいの辛抱だと自分に言い聞かせる。
 トイレの前には、休憩用の長椅子が用意されていた。そこに一人でうなだれていたのが、香穂だった。壁に背を預け、俯いてぴくりともしない。
 初めは誰か分からず、しかしこのままにもしておけず店員を呼ぼうかと思ったが、見覚えのある服装から彼女だと分かった。薄いベージュのニットに黒のテーパードパンツ、低めのパンプス。暗めの茶髪は肩につく長さで、毛先はくるりと内巻きと、無難な恰好。今は俯いて分からないけれど、顔立ちも可愛らしくはあったが、特別な美人といったふうではない。宴会が始まる前の自己紹介で、例の彼女かと思ったため印象に残っていた。
 同じ会社に勤める女性を店員に任せるのもどうか。怜司は仕方ないと思い、声をかけた。
「大丈夫ですか?」
 驚かさないように心がけ、できるだけ柔らかく尋ねるとぴくりと細い肩が震え、香穂は夢から覚めたような顔をしてゆっくりと頭を上げた。一時間しか経っていないのにかなり飲んだのだろうか、紅潮はしていないが顔色が悪い。香穂は怜司を見上げたまま何度か瞬きをして、はっと我に返った。
「あっ」
 状況を思い出したらしい。あたふたと髪を整え、居住まいを正す。
「営業の里見です。水、もらってきますね」
 変に警戒されるのは心外だ。念のため名乗って立ち去ろうとした怜司の腕を、香穂が勢いよく掴んだ。
「だ、大丈夫です。何ともありませんから、ほんとに」
「でも、かなり顔色悪いですよ。経理課の人呼んできますから、帰った方がいいんじゃないですか?」
 香穂は小さく首を横に振った。
「少し休めば大丈夫です。すみません、ありがとうございます」
 大丈夫には見えないのだが。青い顔で訴えてくる香穂を見下ろし、どうしようかと思っていると、彼女はぱっと手を放した。
「す、すみません……」
 謝るほどのことではないのだが。申し訳なさそうに肩を竦め、俯いてしまった香穂を見下ろして、怜司は嘆息した。酔っているわけでもないし、本人が大丈夫だと言うのだから放っておけばいい。だが、カフェやレストランならともかく、ここは居酒屋だ。質の悪い酔っ払いもいるだろう。このまま放置して何かあったら目覚めが悪い。それに、時間潰しにもなる。
 少し距離を取って隣に腰を下ろすと、香穂は窺うように顔を向けた。
「居酒屋なので」
 端的に理由を述べると察したようで、香穂はまた「すみません」と呟いて俯いた。
 いつも笑顔で感じがいいという話しだったが、どちらかといえば気の弱い大人しい印象の方が強かった。
 特に会話をすることなく、客席から響く歓声や店員の威勢のよい声をぼんやりと聞いていた。ふと、酒の臭いがしないことに気付く。こんな所で無防備にうなだれるくらいだ、相当飲んだのだろうと思っていたが。
「桂木さん」
 名前を呼ぶと、香穂は何故か目を丸くして怜司を振り向いた。
「酒の臭いがしませんね。もしかして、体調が悪いんじゃないですか?」
 前を向いたまま尋ねる怜司を見つめ、香穂は眉尻を下げると前を向き直った。床に目を落とし、ぼそぼそと口を開く。
「実は、人が多い場所が苦手で……」
 意外な答えだった。人気があるのなら、誘われることも多いだろうに。
「人に酔う質ですか」
 はい、と申し訳なさそうに頷いた香穂を、横目で窺う。合同の飲み会なら人数が多いことは事前に分かっていたはずだ。苦手なら断ればいいとは思うが、誘いを上手く断れない人はいる。どうやら自覚があるようだ。断ればいいと分かっているけれど断れない。その結果この体たらくで、人に迷惑をかけた。だから申し訳ないと思っているのだろう。
 いつも笑顔で感じが良く、気遣いもできる。生来の性格もあるのだろうが、誰しも大なり小なり自分を作るのは当たり前だ。もう少し上手く立ち回ればいいのにと思わなくもないが、彼女の気持ちも分からなくはない。
 ますます帰った方がいいのでは、と思った時。
「あれぇ、里見ちゃーん。こんな所で何してんのぉ? あっ、香穂ちゃんもいるぅ」
 舌足らずに言いながら顔を見せたのは、件の川口だ。面倒な人に見つかった。しかも、一時間でこの泥酔具合。ますます面倒臭い。
 川口は、顔を真っ赤にしてへらへら笑いながら千鳥足で近寄ると、どさりと乱暴に怜司の隣に腰を下ろした。怜司の肩に腕を回し、顔を寄せてくる。
「何だよぉ、さっそく香穂ちゃん口説いてんのー? 先輩を差し置いてひどーい」
 酷いのはお前の酔っ払い具合と思考回路だ。川口は、普段は仕事もできるし悪い人ではないのだが、とにかく酒癖が悪い。さらに結婚願望が強く、恋愛脳というのだろうか。何かにつけて恋愛に結びつけたがるので、少々面倒臭い。
「そんなわけないでしょう。川口さん、酒臭いですよ。飲みすぎじゃないですか」
 回された腕を何気なく外しながら指摘すると、しなだれかかって「だってぇ」と甘えた声を出す。気持ち悪いからやめてくれ。
「俺、頑張ってるんだよ? 場を盛り上げようとしてさ、色々頑張ってるんだ。それなのに、女の子たちはみーんな別の男のところに行くんだもん」
 もんじゃねぇ、下心丸出しだからだろ、と喉まで出かかった悪態を根性で飲み込む。突然、川口が思い出したように立ち上がり、怜司と香穂の間に無理矢理腰を下ろした。にんまり笑って小首を傾げると、香穂の表情が引き攣った。
「香穂ちゃんはさぁ、俺みたいな男、嫌い?」
「あ、いえ、その……」
 初対面で好きも嫌いもあるか。ねぇどう? と詰め寄る川口からじわじわと距離を取っていた香穂が、うっと声を詰まらせた。人に酔ったところに酒の臭いは辛いだろう。
 本当に面倒臭い。怜司は静かに息をついた。川口は用を足しに来たのだろうから、ひとまずトイレに放り込もう。
「川口さん」
 肩を掴んで引き離そうとした時、「あー、いたいた」と教育係の横山の声が割って入った。彼は川口と同期で、噂によると、昔、惚れ込んだ年上の彼女に酷い振られ方をした時から仕事一筋らしい。爽やかな整った顔立ちなので、取引先の病院の看護師たちにも人気がある。しかし、その面倒見の良さから、飲み会の時は川口の世話役みたいになってしまっている。
「ちょっと目ぇ離した隙にいなくなるからびびったわ。こいつ酔うと面倒だからさ。悪いな里見、迷惑かけて、って桂木さんに謝るべきか?」
 小走りに駆け寄った横山は、すぐに状況を察してくれた。怜司がええと頷く。
「ごめんな、桂木さん。なんか変なことされてない?」
 いーやぁだぁ、と語尾を伸ばして駄々をこねる川口を引っ張り立たせる。香穂は横山を見上げ、ぎこちない笑みを浮かべた。
「はい。大丈夫です」
「それなら良かった。ほんとごめんなー」
 申し訳ない顔で謝りつつ、川口を無理矢理引っ張り、トイレの扉を開けて押し込んだ。
 酔うなとは言わないが、外で飲む時はせめて自分の行動を制御できる程度にしていただきたい。人に迷惑がかかることを考えていないのか。これだから酔っ払いは。
 扉が閉まって嵐のような騒がしさが去ると、怜司は盛大に溜め息をついた。問題はこれで終わりではない。
 隣を見やると、香穂が俯いて口元を覆っていた。もう一つ息を吐き、怜司は腰を上げる。
「桂木さん。その様子じゃ、席に戻っても心配をかけるだけですよ。荷物持ってきますから、ここにいてください。そこまで送ります」
 香穂は青白い顔で怜司を見上げ、観念したようにはいと小さく頷いた。どうやら「心配をかけるだけ」という文言が効いたらしい。
 怜司は会場に戻って盛り上がっている席を見渡し、落ち着いて飲んでいる経理課の女性にこっそり声をかけた。あまり騒がれるのは彼女も嫌だろう。女性は心配していたが、大丈夫だから騒ぎ立てないように頼んで荷物を預かり、香穂を連れ出した。
 時間はまだ八時を回った頃。夕飯時、京都駅前ということもあって、行き交う人は多い。外に出ると、すっかり秋めいた風が喧騒を攫うように吹き抜けた。うわ寒い、すっかり寒くなってきたねと二人組の女性たちは身を縮めたけれど、香穂には心地良かったらしく、コートを羽織ると落ち着いたようにゆっくり息を吐いた。
「自宅は近くですか?」
 怜司が尋ねると、香穂は首を横に振った。
「いえ、電車です」
 人が多い場所が苦手なら、通勤時はどうしているのだろう。
「今の時間、電車はまだ混んでいると思いますけど、どうしますか?」
 尋ねると香穂は逡巡し、自嘲的な笑みを浮かべた。
「タクシーで帰ります」
 いい判断だ。目の前には、各々社名灯を灯したタクシーが客待ちをしている。行き交う人の隙間を縫って先頭のタクシーへ向かう。助手席の窓をひょいと覗くと、運転手が会釈をして後部座席のドアを開けた。
「じゃあ、気を付けて」
 振り向いて告げると、香穂は深々と頭を下げた。
「ご迷惑をおかけしました。ありがとうございます」
 そう言って上げた顔は落ち着きを取り戻し、いくぶん赤みが戻っていた。
 タクシーに乗り込んでドアが閉められると、香穂は窓越しにもう一度会釈をした。怜司も浅く会釈を返す。ゆっくりと走り出したタクシーを見送り、怜司は踵を返した。
 週をまたいだ月曜日、外回りを終わらせて社に戻り、一息つこうと自動販売機で飲み物を買おうとしていた時だった。誰かの領収書に不備があったらしく、差し戻しにきた香穂に声をかけられた。本当にありがとうございましたと何度も頭を下げられ、「何かお礼を」と言われたが丁重にお断りした。恩を売ったつもりはないし、面倒な先輩もいる。人気者と親しくなって余計なやっかみは買いたくない。関わらない方が身のためだ。
 それ以上、もう関わることはないだろうと思っていた。
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