第14話

文字数 4,775文字

 土御門家、賀茂家に舞い込む仕事の依頼は、紹介状を添付した依頼書がメールや郵送で送られてくるもの、紹介者からの相談、紹介状を持参した依頼者の訪問、場合によってはこちらから出向く場合もある。
 依頼書には、依頼主の名前や住所、連絡先はもちろん、現象の詳細、霊障の有無、場所、時間、期間、あるいは先日の葉山佐智子のように、対象と思われる者の略歴などが記入されている。それを当主が確認し、緊急性や早期解決が必要な事案から対処される。
 しかし、今夜の仕事は少々違った。
 土御門家前当主から付き合いがある、ピアノ調律師の知り合いからの依頼らしい。
 その知り合いは京都市内で中古楽器店を営んでいる、江口(えぐち)という中年の男性だった。
 先日その中古楽器店を訪れると、江口が何やら思い詰めた顔をしていたので、どうしたのかと尋ねると、江口は重い口を開いた。
 三カ月ほど前、知り合いから古いグランドピアノを入手したのだと言う。別荘を売りに出すから家財を全て処分したいと言われて引き取ったピアノは、1901年のドイツで製造されたベヒシュタイン製の、およそ三百万は下らない高価な物だった。
 ベヒシュタインは「ピアノのストラディバリウス」と言われ、スタンウェイ、ベーゼンドルファーと並ぶ、世界三大ピアノメーカーの一つである。フランツ・リスト、クロード・ドビュッシーなどに絶賛され、音の透明感や強い響きが特徴で、癖のない音は演奏者の個性を余すことなく演出することができる名器だ。
 妻が亡くなってからはほとんど使用していないと聞いていたが、手入れはきちんとしていたようで、状態は非常に良かった。黒いボディは磨き込まれ、傷もほぼない。チューニングピンやハンマー、弦などを新品と交換しさっそく売りに出したところ、早々に買い手がついた。
 購入者は両親とまだ幼い子供の四人家族。以前はアップライトピアノを所有しており、自宅のリフォームを機に買い替えを決めたそうだ。
 と、ここまでは良かった。
 それから一カ月もたたず、購入者から不可解な問い合わせがあった。返品はできるのか、別のピアノと交換はできるのかと言う。何か不手際があったのかと話を聞いてみると、購入者は非常に困惑した様子で言った。
「若い女の幽霊が憑いてる」
 と。
 江口は耳を疑った。何を言っているのかと、さらに詳しく話を聞いた。
 ピアノが自宅に搬入された数日後に、異変は起こったのだと言う。
 深夜三時頃、トイレに起きた母親が、ピアノ専用の部屋からすすり泣くような声を聞いた。しかしすぐに止んだため、聞き間違えかと気にせず用を足して寝室に戻ろうとした時、また聞こえた。もしや泥棒かと思い、静かに寝室に戻り父親を起こして一緒にピアノ部屋をこっそり覗いた。すると、真っ赤なワンピースを着た長い髪の若い女が、すすり泣きながら鍵盤の前で佇んでいた。
 ひっ、と二人が引き攣った声を上げると、女はゆっくりとこちらを振り向いた。女は物悲しい顔でじっと二人を見つめ、そのまま煙のようにすうっと消えた。
 二人一緒に幻覚を見るはずがない。けれど、どうにも現実味がない。とりあえず様子を見ようと言うことになり、数日様子を見た。昼間は特に変わったことはない。体調に異常もない。しかし、夜になると聞こえる。女の悲しげな泣き声が。
 さすがに気味が悪い。何かいわくつきなのかと思い問い合わせたはいいが、こんな話は信じてもらえないだろうと思い直し、返品や交換の相談をしたのだそうだ。
 初めは信じていなかった江口も、購入者の疲れたような声色を心配し、すぐに調べてみると言ってとりあえず保留にした。すぐに知り合いに連絡を取って購入者の話を伝えると、心当たりはないと言う。別荘に置いていた間もそんなことは起こらなかったと。確かに知り合いに娘はいないし、もしそんなことがあれば何年も所持してはいないだろう。
 では、目撃された若い女は誰だ。
 購入者が嘘をついているのか。しかし、ピアノ自体に不備はないと言っていた。ならばそんな嘘をつく必要はないはずだ。
 江口は頭を抱えた末に、購入者に事情を伝え自身の目で確認することにした。
 午後十一時頃に自宅を訪ね、ピアノ部屋の隣の客間でその時を静かに待った。すると、深夜二時。微かに女の声が聞こえた。まさかと思い、足音を立てずにゆっくりと客間から出た。徐々にピアノ部屋の扉を開き、細く開けた隙間からこっそり覗き込む。
 室内の中央に置かれたグランドピアノは月明かりに照らされ、黒く美しく光っていた。そして閉じられた鍵盤の前に、話の通り、真っ赤なワンピースを着た女がすすり泣きながら佇んでいる。背中の真ん中あたりまで伸びた真っ直ぐな茶色の髪、すらりと伸びた白い腕、長い指は爪が短く整えられ、ワンピースと同じ赤いマニキュアが塗られていた。
 思わず、彼女が幽霊であることを忘れて魅入ってしまった。月明かりの夜、月光に照らされたグランドピアノに美しい泣き顔の女性。美観と呼ぶにふさわしい光景だった。
 呆然と見つめていると女がゆらりとこちらを振り向き、小さく唇を動かした。声はない。けれど、何か訴えているように思えた。ゆっくりと扉を開き、引き寄せられるように中に入ると、女は逃げるようにすっと月明かりに解けて消えた。
 夢か幻か。そう思うほど、幻想的な出来事だった。
 翌日、取引先の運送業者に頼み込んでピアノを引き取りに行ってもらった。それから数日間、店舗に泊まり込んで様子を窺ったが、何も起こらなかった。あの日見た光景は幻だったのか。
 それからずっと、そのピアノは店舗の端でカバーをかけられて眠っているそうだ。
「気になるけど、どうしようもないんだ。売りに出しても、また次も同じことが起こらないとも限らないし。同じことが続けば店の信用問題にもなるから」
 と困ったように告げる江口に、少々躊躇ったが「実は知り合いに有能な霊能力者がいるんだけど」と言うと、切羽詰まった顔でぜひと頼まれ、土御門家に依頼が舞い込んだ。
 本来ならば後回しにされる依頼だが、明は長年世話になっているからと快諾したらしい。
「出る条件がよく分からないのよね」
 午前〇時過ぎ、隣でハンドルを握る華が首を傾げながら言った。
 確かに、別荘に置いてあった時には目撃されていない。けれど購入者の自宅では目撃され、さらに店舗では現れていない。
「家じゃないと駄目とか?」
 助手席で依頼書を読み返していた大河が首を傾げた。
 寮が所有している車は二台。前を行く車には樹と怜司が乗っている。仕事が終わってそのまま哨戒に向かうらしく、別々の車で行くことになった。
 美人と密室で二人きり。健全な男ならば諸手を挙げて喜ぶところだが、いかんせん華の強さは知っているし、そんな度胸もない。さらに前の車に樹と怜司がいる以上、何か異変があればすぐに気付かれる。問答無用で袋叩きだ。いや、今はそんなことを考えている時ではない。
 先日の仕事とは何やら勝手が違う。浄化だと聞いているが、確実に現れるという保証がない。今日、現れなければどうするのだろう。
「ピアノに憑いてるのなら場所は関係ないと思うんだけど……」
「じゃあ、購入者の家に憑いてたっていうのはどうですか?」
「それだったら、買い替える前から現象が起きてるわよね」
「そっかぁ……」
 ことごとく推理を却下され、大河は腕を組んだ。
「ああでも、もしかしてグランドピアノじゃないと駄目、とかかしら?」
 華の見解を頭で反復し、
「贅沢」
 率直な感想を漏らした大河に、華が笑い声を上げた。
「はっきり言うわねぇ、大河くん」
「だって、ピアノって高いんですよね。しかもこのピアノなんかブランドっぽいし」
「三大メーカーのピアノね。高い物だと一千万超えるらしいわよ」
「ピアノに一千万!? あるところにはあるなぁいいなぁ羨ましい!」
 僻み全開で言い放った大河に、華はまた楽しそうに笑い声を上げた。
 くすくすと小さく笑い声を漏らす華を横目で見やり、大河は頬を緩めた。昼間見た戸惑った様子が気になっていたが、今は大丈夫そうだ。
 俺が心配するのは生意気だけど、と分かってはいるが気になるのだから仕方ない。
 華から見れば自分など、それこそお子様だろう。いつも笑顔で優しくて面倒見も良い。毎日の食事も洗濯もしてくれて、双子も育てて、陰陽師としても優秀で、学生組の勉強も見てくれる。その上美人なんて、もう完璧だ。
 そういえば、双子の父親ってどんな人なんだろう。
 ふと、そんな疑問が浮かんだ。華のような女性が愛した男とは一体どんな男なのか。関係を見る限り、寮の誰かではないのは確かだ。ということは、寮に入る前の恋人との子供。別れたのか、それとも亡くなっているのか。
 大河はほっと胸を撫で下ろした。
 もしそうだとしたら、また余計なことを言う前に気付いてよかった。
 双子の父親のことは禁句だな、と自分に言い聞かせる。華が自分から話してくれるまで待とう。そもそも、知らなくても藍と蓮が可愛いことに変わりはない。
 思考が逸れた、と大河は反省しつつ昼間の会話を思い出した。
 明から連絡があった時、晴は「ああやっぱりか」と言った。そして明は「君がいた方がいい」と言った。対象者が女性だからなのかと思ったが、それなら初陣の案件も女性だった。調伏と浄化の違いか。いや浄化が調伏に変更になる可能性があるのなら、華を指名するはずがない。ならば、悪鬼化させないためだろうか。女性の気持ちを理解するのはやはり女性だ。
 だとしたら、華のあの表情は何だったのだろう。依頼書を読んだとたん見せた、戸惑った顔。
 大河は再度手元の依頼書に視線を落とした。
 女性、涙、ピアノ――キーワードはそのくらいだ。さすがにこれだけで対象者がどんな未練を残しているのか分からない。ピアノに関することなのだろうくらいは察しがつくが。やっぱり、もう一度弾きたいと思っているのだろうか。ならば、華が指名された理由も想像できる。
 大河は、前を見据えてハンドルを切る華を振り向いた。華さんってピアノ弾けるんですか――そう尋ねようとして、思い留まった。
 もし、寮に入ったきっかけがピアノに関係していて、しかも人に探られたくない過去だったとしたら。
「大河くん? どうしたの、餌をねだる鯉みたいよ?」
 口を開けて固まった大河を一瞥して、華は震える声でそんな風に表現した。卑しく聞こえるからやめて欲しい。
「鯉って……何でもありません」
 少々膨れ面で前を向き直ると、華は小さく笑い声を漏らした。
 何だか、過去のことを気にして何も言えなくなったり聞けなくなるのは、ちょっと窮屈だ。
昴のような悲痛な顔はもう見たくない、だから今の皆を見て内通者かどうか判断する、聞く時は本人からと決めたのはいいが、こんな時は会話に支障が出る。消化不良を起こしたように、胸がもやもやする。聞いた方が楽だとは思うけれど、それは自分が楽になりたいからで、皆を傷付けてもいい理由にはならない。
 これは、純粋に皆を傷付けてしまうことを怖がっているのか、それとも傷付けたことに対して自分が傷付くことを怖がっているのか。そもそも、昴の前例があるから傷付けるかもと勝手に思っているだけで、必ずしもそうとは限らない。だからと言って傷付けないという保証もない。
 小難しいことや複雑なことを考えることに向いていない頭だ。考えれば考えるほど、何が何だか分からなくなってがんじがらめになる。
 無意識だろうか、大きな溜め息をついた大河を見やり、華は静かに微笑んだ。
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