第18話

文字数 2,605文字

 千年の歴史を持つ京の都。そこここに歴史ある建造物が立ち並び、一年中を通して全国各地、世界中からの観光客が途切れることのない、風光明媚な日本屈指の観光名所。
 そんな場所でも、十数年前までの路上生活者は六百人を超えていた。行政やボランティア団体の働きによってその数は緩やかに減り、今では百人を切ったと言われている。しかし、だからといって見かけなくなったわけではない。
 紺野と北原が再捜査している事件の被疑者は、そんな彼らの中の一人だった。
 男の名は、岡部安信(おかべやすのぶ)。当時五十一歳。過去に三度、窃盗の容疑で逮捕、起訴されている。岡部は事件直後に行方をくらましており、全国に指名手配されているが、未だその行方は分かっていない。
 平成14年の8月に「ホームレスの自立の支援等に関する特別措置法」が成立した。それに伴い、京都でも国、自治体、民間団体などにより巡回が行われ、生活や就職の相談ができる総合相談所や、一時的宿泊所、支援センターなどが設けられた。
 罪を犯し出所した者たちを支援する更生施設もあるが、指名手配をかけられている以上、行政から委託されているそれらの施設に自ら行くとは考えにくい。行ったとしても、定期的に行われている「炊き出し」くらいだろう。とはいえ、可能性が無いわけではない。県外に逃亡している可能性もあるが、手始めに京都市内の施設や、彼らが集まる場所を手当たり次第に当たることにした。
 だが、一向に見つからないどころか、情報すら得られない。
「これで見つからなかったら、県外ですか?」
「その前に一応市外だな」
 北原は遠い目で前を見据えた。
「こんなこと言うとあれですけど、マリーナを調べる手間が省けて良かったと思っています」
「……まあな」
 ですよね、と北原は苦笑した。
 昨夜遅くに宗史から届いたメッセージは、変わらず似顔絵の女の正体は不明だが、渋谷健人が仲間の一人だと確定したものだった。
 北原の言う通り、もしこれでマリーナまで調べる羽目になっていたら、時間がいくらあっても足りない。
 だがそうなると、健人は仕事をしながら陰陽術を会得したことになる。土、日や休日、あるいは仕事終わりの時間を使ったのだろう。限られた時間で陰陽術を会得するほどの執念。妻子を同時に、しかも殺害動機は動機とすら言えないもので、犯人は無罪。健人の無念を考えると、分からなくもない。
 一方、白骨遺体の方はまだ何も分かっていない。今朝の捜査会議でも、まだ歯科医院からの連絡はないとのことだった。どうやら改装中の医院があるらしく、回答を急がせているらしい。稀に虫歯にならない者がいると聞いたことはあるが、治療痕があったからこそ歯科医院に協力要請したはずだ。必ずどこかの病院に通っている。京都市と亀岡市から判明しなければ、他の市外、あるいは県外にまで捜査範囲を広げなければならない。何せ身元不明のため見当すら付けられないのだ。
 また、深町仁美(ふかまちひとみ)の事件については、連絡がつかないという娘の顔すら確認できていない。どう理由を付けようか思案中だ。出頭した場に居合わせたから気になる、と言って納得してくれるだろうか。それともいっそ、鬼代事件の犯人かもしれない女の目撃情報があり確認したい、と素直に言うか。いや、それなら捜査本部から正式な協力要請がある。不自然だ。
 さらに付け加えるなら、警察内部の協力者についてだ。過去のデータから鬼代事件に関わったきっかけが分からない以上、残された手は身辺調査しかない。だが、このタイミングでもし調べていることが本人に知られれば、妨害される可能性がある。となると、優先すべきは再捜査だ。
 こうなると、熊田や緒方たちに協力してもらいたい、と思わなくもない。
 腕を組み、うーん、と紺野が漏らした悩ましい声を、北原の盛大な溜め息が掻き消した。
 紺野は思考を止め、ついでに動きも止めた。すぐにもう一度、北原が溜め息をついた。紺野はこめかみに青筋を浮かべ、ぐるりと北原を振り向いた。
「お前、今日何度目だその溜め息! 鬱陶しいからやめろ!」
 噛み付く勢いで怒号を響かせるが、北原は性懲りもなくまた溜め息をついた。運転中でなければどつき回している。
「だって、酷いじゃないですかぁ。仕事だったって言って謝ってるのに、電話には出てくれないしメッセージも無視ですよ。俺ってそんなに信用できません?」
「知るか、俺に聞くな!」
 喧嘩した彼女とまだ連絡がつかないらしく、朝からずっとこの調子だ。ぴしゃりと突き放すと、酷い、と北原がぼやいた。酷いのはお前の頭だと言ってやりたい。仮にも捜査中だ、考えるなら事件のことを考えろ。今度は紺野が息をついた。
「下平さんが言ってたぞ。お前はモテるだろうから、これが駄目でもすぐに次ができるだろうって」
「えっ」
 これ以上鬱々とした溜め息を聞かされるのはまっぴらだ。励ましのつもりで言ってやると、北原は一瞬嬉しそうに口元を緩め、しかしすぐにいやいやと首を振った。
「そう言ってもらえるのは嬉しいですけどなんで別れる前提なんですかっ」
「お前まだ二十七だろ。次がある」
「根拠は!? 保証は!? 次が無かったら責任取ってくれます!?」
「馬鹿、前向け前!」
 ぐるりとこちらを向いた北原の頬を咄嗟に押し返す。運転中だ。
「なんだよ責任って」
「誰か紹介するって約束してください!」
「やだよ面倒臭ぇ。つーか、なんでそこまでして彼女が欲しいんだ」
「俺は紺野さんみたいにまだ枯れてません!」
「誰が枯れ果てたジジイだ!」
「そこまで言ってませんけど!?」
 上乗せされた悪態に驚いて北原が反論した時、携帯が鳴った。紺野は舌打ちをかまして上着のポケットを探る。北原は「一人寂しい老後を送りたくない」と悲痛な顔でぼやいた。五人兄弟で育った影響もあるのだろうが、悲観しすぎではないのか。
 息をつきながら確認した画面には、熊田の名が表示されている。
「おつか……」
「お前今どこだ!」
 熊田の酷く焦った声に遮られ、紺野は眉をひそめた。中途半端に言葉を切った紺野を北原は怪訝な顔で一瞥し、前方で赤に変わった信号を見て速度を落とす。
「どこって、外ですけど。どうしたんですか?」
 これは何か進展があったか。紺野は緊張を持って尋ねる。
「いいから今すぐ戻って来い! お前――」
 車が停車した次の瞬間、
「捜査から外されるぞ!!」
 飛び込んできた言葉に、耳を疑った。
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