第2話

文字数 4,674文字

 同時刻、下平は河合家のインターホンの前で、顔を引き締めた榎本(えのもと)を横目で眺めていた。
「いきます」
「おう」
 今から出陣でもするのかと思わせる緊張感を持って、榎本がインターホンを押した。こちらの心情とは裏腹に、軽快な呼び出し音が響く。出なければしつこく鳴らす覚悟だったのだが、意外にもしばらくして繋がった。
「……またですか」
 聞こえた母親の声は嫌悪感丸出しだったが、張りがなかった。
「度々すみません。尊くんは御在宅でしょうか」
「いません」
 食い気味に否定された。
「どちらに行かれましたか」
「知りません。お帰り下さい」
 そんなわけあるか。下平は心の中で突っ込んだ。あれほどの過保護っぷりを見せておいて、今さら知らないは通用しない。このままでは押し問答どころか昨日の二の舞だ。脅すようで気が引けるが仕方ない。
 下平は榎本に代わるように目で言った。
「河合さん、昨日新たな証言が取れました。それについて話がしたいんです。尊くんに会わせてください」
 強い口調で要求すると、母親が黙り込んだ。新たな証言に引っ掛かったか。
「……どんな証言ですか」
「ここではお話できません。尊くんの尊厳に関わることです」
 決して大仰ではない表現だ。こんな所で話して近所の住民に話を聞かれては、これから先、尊だけでなく一家揃って暮らし辛いだろう。
 長い沈黙が流れ、やがて観念したように母親がどうぞと言って通話を切った。二人同時に安堵の溜め息をつく。
 玄関の鍵が開く音がして、扉が開いた。母親が顔を出したところで門扉を開け、スロープを進む。こちらを窺っている母親は、かなり憔悴しているように見える。
 下平と榎本が先に玄関をくぐると、母親は扉を閉めてしっかり鍵をかけた。どうぞ、と促され礼を言って上がる。続いて母親はゆっくりとした動作でサンダルを脱ぎ、左手の壁際の階段を見上げた。
「あの子……」
 母親がぽつりと呟いた。
「あれからずっと、部屋から出てこないんです……何も、口にしなくて……っ」
 次第に声が震え、漏れる嗚咽を堪えるように俯いて口を覆うと、とうとうその場にしゃがみ込んでしまった。
「榎本、頼んだ。絶対部屋に来させるなよ、まだ話を聞かれたくねぇからな」
「えっ」
 小声で告げると下平はさっさと階段を上がった。ちょっと下平さん、と動揺する榎本には悪いが、またあれこれと口を挟んでこられては埒が明かない。
 階段を上がった廊下には扉が三つ。そのうちの一つの扉の横に、朝食だろうか、ラップがかけられたサンドイッチの乗ったトレーが置かれている。ここが尊の部屋だろう。
 下平は軽くノックをした。
「下京署の下平だ。入っていいか」
 返事はない。仕方なくレバーを下げて扉を押したが、鍵をかけているらしくガタンと音を鳴らして止まった。家族と言えどもプライバシーは必要だ。しかし鍵なんぞ付けるな、と思うのは古いだろうか。
 下平は深々と溜め息をついた。あの様子ではしばらく母親は上がって来ないだろうし、リビングは玄関から見て突き当たりだ。大声でなければ大丈夫だろう。
「尊、歩夢たちから聞いた。話がしたい、開けてくれないか」
 落ち着いた声で諭すように言ってみるが、音沙汰がない。このまま話すかと思案していると鍵が開けられ、ゆっくりと扉が開いた。冷気が漏れ出てくる隙間から、目の下にクマを作った尊が顔を出し、虚ろな瞳で下平を見上げた。
「……あいつら、喋ったのか……」
 かすれた声で、自分に言い聞かせるように呟いた。
「尊、落ち着いて聞け」
 まずは歩夢たちが裏切ったのではないと説明をしなければ。そう思い口を開こうとした下平を遮ったのは、尊の掠れた笑い声だった。
「はは……っ。そうか、あいつら、喋ったのか」
 弱々しい笑い声は、自嘲的にも呆れたようにも、諦めたようにも聞こえる。
 尊自身、もう分かっているのだろう。今の状況は自業自得であり、どちらを選択するべきかを。そして、全てが限界だと。
 ひとしきり笑って長い息を吐いた尊に、下平は静かに問うた。
「話してくれるな?」
 尊はすんなりと頷いた。
 背を向けて部屋に入った尊に続いて、後ろ手に扉を閉めた。エアコンで空気は冷え、カーテンは閉め切られたまま。どこか空気が澱んでいる気がする。
「電気、点けていいよ」
 ベッドの端に腰を下ろしながら言われ、下平は扉横のスイッチを押した。カーテンを開けるのが怖いのだろうか。
 明るくなった部屋を再度見渡す。ベッドに勉強机、ノートパソコン。本棚には文庫本やコミック、雑誌が綺麗に並べられ、スニーカーが好きなのか、壁の飾り棚にはお気に入りらしいスニーカーが五足ほど飾られている。整理整頓された部屋。母親がしているのか、それとも自分でしているのか。
「椅子、使っていいよ」
「ああ、悪いな、じゃあ遠慮なく」
 不気味なほど落ち着いている上に、やけに気が回る。下平は椅子を引っ張り出し、尊の方へ向きを変えて腰を下ろした。
「何から話せばいい?」
 ふいと向けてきた尊の目には、生気がない。これは覚悟を決めたというよりは、自暴自棄か。
 下平は尊を見据え逡巡した。個人的には、もし歩夢たちを誤解しているのならそちらを先に解いてやりたいが、尊自身が話す気になっている今を逃すわけにはいかない。気が変わらないうちに話を聞き出す方が正解だ。
 ポケットから手帳を取り出しながら尋ねる。
「まずは、カツアゲのことからだ。仲間の学校と名前は?」
「一人は一緒の学校の奴で、末森克己(すえもりかつみ)
「他には」
「N高の本山涼(もとやまりょう)と、中川大介(なかがわだいすけ)
「ゲーセンで会ったらしいが、間違いないか」
「うん。二年に上がる前の春休み」
「じゃあ、カツアゲ相手は」
「本山たちと同じ学校の、菊池雅臣(きくちまさおみ)
「全員同じ年か」
「うん」
 キクチマサオミ、と名前を書き留める。この少年が襲撃犯であり、鬼代事件の犯人。同時にカツアゲの被害者でもある。何ともやり切れない。
「彼にしたことを詳しく話せ」
 尊は視線を床に落とし、ゆっくりと口を開いた。
「二年に上がったばっかりの頃、駅でたまたま塾帰りの菊池と彼女に会った。夜の十時過ぎくらい。それで本山が言ったんだ。彼女を盾にして、金恵んでもらおうぜって。菊池の親、医者だからって。一週間後の同じ時間に駅で待ち伏せして、金取った。それから塾とか学校帰りに呼び出したりして、金持って来させた。三ヶ月くらい続けたと思う」
 その単調な口調は、まるで他人事のようだった。
 えげつないことをする。彼女を盾に取られては、菊池は為す術もなかっただろうに。下平は深々と溜め息をついた。内容もさることながら、尊は今、完全に感覚が麻痺している。メモを取るのも気が滅入る。
「その彼女に、何もしてねぇだろうな」
「してない」
「本当だな?」
「ほんと」
 即答にほっと安堵の息を吐く。
「彼女の名前は」
松井桃子(まついももこ)
「菊池と同じ学校の子か」
「うん」
「塾ってのはどこの塾だ」
「烏丸の修得館(しゅうとくかん)
 管轄区からぎりぎり外れているが、下京署がある烏丸通り沿いにある塾で、歩いても十分かからない。
「カツアゲをしていた場所は」
(にしき)の辺りとか、色々」
 錦とは、京の台所と呼ばれて親しまれ、観光名所にもなっている錦市場商店街のことだ。
 約400年前の江戸時代に魚市場と栄え、昭和に入り卸売市場ができたのを境に現在の形に変わったが、そもそもの起こりは平安時代らしく1300年の歴史を持つ。四条通りの北側に位置し、東西を390メートルにも渡って伸びている。東の端は新京極と交差し、平安時代前期に創建され菅原道真公が祀られている錦天満宮がある。
 塾から近く、午後十時頃には約130店舗のうち二、三軒ほどしか開いておらず閑散としているはずだ。
「色々ってのは」
「同じ場所でやると回りの人に感付かれやすいからって、毎回変えてた。公園とか路地裏とか。詳しい場所はあんまり覚えてない」
 主犯は言い出した本山涼だろう。計算高いというよりは手慣れている感じを受ける。悪質な方にばかり頭が回る奴は必ずいるものだ。
「やったのはカツアゲだけか」
「殴ったり、蹴ったりもした」
 恐喝に脅迫に傷害。他人に気付かれないよう場所を変え、隠したがるということは、犯罪だと認識した上で行っていたのだろう。質が悪すぎる。
 下平はメモをする手を止め、気を取り直すように長く息を吐いた。そして、真っ直ぐに尊を見据えた。
「尊、お前、俺も殺されると言ったそうだな。三ヶ月でカツアゲを止めた理由はそれか。何があった」
 尊は虚ろな瞳で下平を見つめ、ぽつりと言った。
「煙……」
 やはりか。下平はわずかに目を細めた。
「聴取の時に言ってた、黒い煙か?」
 こくりと頷いたまま、尊は俯いた。
「あの日は、商店街の中でやってた。菊池が金を持って来なかったから、彼女を拉致ってやるって、おど、脅したら……キレて、黒い煙が……脱皮した、みたいに出て……っ」
 徐々に声が震え、連動するように体も小刻みに震えている。膝の上で組んでいる両手は血の気が失せるほど強く握り締められ、口調はたどたどしく、呼吸も荒い。改めて自分の口で説明して、その時の恐怖が蘇ったようだ。
「そしたら、その、くろ、黒い煙……末森、たちを……っ」
 飲み込んだ、と吐き出すように呟き、尊は背中を丸めて組んだ両手に額を押し付けた。
 震える体を縮ませて恐怖に耐える姿は、見るに忍びない。けれど、彼らの行為はあまりにも悪質だ。全て計算尽くの上で行われている。尊の心境を鑑みても、相殺できない。
「一度に三人、全員か」
 顔を伏せたまま頷く。
 悪鬼を見たことがないため何とも言えないが、三人の人間を一度に食らったとなると、かなり大きいのではないか。もし悪鬼の大きさが恨みと比例しているとしたら、菊池は相当尊たちを憎んでいる。そうなると、やはり再び襲われる確率が高い。尊を悪鬼に食わせるまで狙い続けるつもりかもしれない。
「犯人が菊池だと分かったのは、その黒い煙が理由か」
 尊はまた無言で頷き、不意に顔を上げた。ゆっくりと体を起こし、不思議そうな面持ちで下平を見やる。
「刑事さん、信じるのか……?」
 窺うような声で尋ねられ、下平はああそうかと気付いた。つい当然のように質問してしまったが、普通なら聞き流す証言だ。自分で思っている以上に、非現実的だった話を現実として捉えているようだ。けれどここで肯定すれば理由を聞かれるだろう。悪鬼がどうのと説明して、これ以上不安と恐怖を煽るよりは現状維持が正解だ。おかしな行動に走られても困る。
「さあな。ただまあ、証言に変わりはねぇ。非現実的だからってないがしろにするほど、まだ頭は固くねぇつもりだ。捜査すれば分かることだしな」
 最後の一言で、尊は悲しそうな顔をして肩を落とした。裏を取っても、本山たちが行方不明であることくらいは判明するだろうが、他の証拠は何も出ないと分かっているのだろう。
 商店街にしろ周辺の防犯カメラにしろ、一年前の映像なんて残していないだろうし、悪鬼に丸飲みされたのなら、本山たちの遺体はこの世にない。陰陽師たちの言葉を借りるなら、同化している。魂ごと。
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