第1話

文字数 6,210文字

 ――草薙製薬の、元社員。
 大河(たいが)はぽかんと口を開けたまま、目の前を通り過ぎた怜司(れいじ)の動きを追った。
「マジで……?」
 弘貴(ひろき)の唖然とした声が聞こえ、大河は振り向いた。弘貴たちも知らなかったのか。
「会社員だったとは、聞いてたけど……」
 目を丸くしながらも代わりに答えた春平(しゅんぺい)から、大河は改めて怜司を見やる。栄晴(えいせい)の事故、(はる)の誘拐、鬼代事件、そして怜司の過去。これら全てが、草薙(くさなぎ)と繋がっているのか。
 怜司は、テーブルの間を通って草薙の前で立ち止まった。草薙がわずかに身を引いて、しかし睨むように怜司を見上げる。
 不意に、縁側からガラス扉が開く音がして、一斉に視線を向けた。郡司(ぐんじ)が立ち上がり、障子を左右に開ける。漏れた部屋の明かりに照らされて立っていたのは椿(つばき)だ。背後で、赤い玉が闇に溶けるようにすうっと消えていく。
「ただいま戻りました」
 そう言った椿の声は少し硬く、表情もいつもより緊張しているように見える。郡司によって全ての障子が下手側に引き開けられ、視界が開けた。エアコンで冷えた空気と湿気た空気が入れ替わっていく。
「報告を」
 宗一郎(そういちろう)から端的に促され、視線を浴びた椿は姿勢を正した。
「先程、桐生冬馬様以下五名が暴漢、悪鬼によって襲撃を受けました。うち一名、金森智也様が負傷」
 冬馬(とうま)たちの護衛についていたらしい。大河が息を詰めると、「(いつき)」と紺野(こんの)の窘める声が小さく聞こえた。全員がちらりと樹を見やる。目を大きく見開いて腰を浮かせたまま硬直し、やがて息を吐きながら座り直した。
 それを見届けてから、椿が再び口を開く。
「他四名はご無事です。暴漢は逃亡、悪鬼は全て調伏済みです。志季(しき)が冬馬様と共に行方を追いましたが、使いの方角から見て、おそらく賀茂家へ向かったと思われます」
「予想通りだが、冬馬さんも一緒にか?」
「はい。冬馬様のご要望に沿ったようです」
 そうか、と宗一郎は苦笑した。
左近(さこん)も護衛についている。問題ない。負傷者の治癒は」
 椿の表情が少しだけ曇った。
智也(ともや)様ご自身が、証拠がなくなるからとおっしゃられましたので、治癒は施しておりません。ただ、護符をお持ちでしたし、出血も少なかったので傷は浅いと思われます。看護師であるナナ様もそうおっしゃっておられました。警察と救急車は手配済みです」
「ああ、看護師なのか。御苦労だった。周辺の哨戒と護衛についてくれ」
「承知致しました」
 椿は一礼してガラス扉を閉めると、身を翻して高く跳ねた。椿を見送り、一体何のことだと氏子と秘書らがざわめく。草薙を含めた春平たちも小首を傾げている。
 悪鬼に襲われたのなら、十中八九、龍之介(りゅうのすけ)は鬼代事件に関与している。だが草薙は、何のことか分からないと言った顔だ。冬馬たちの件は龍之介の独断なのだろう。
「こちらの件に関しては、あとでご説明します。怜司、続けなさい」
「はい」
 宗一郎が場を仕切り直して視線を向けると、怜司は再び草薙に向き直った。
 傷は浅いと言われても負傷したことに変わりはないし、それに、何故志季と冬馬は賀茂家へ行ったのか。心配も疑問もあるけれど、今は怜司の件だ。大河は頭を切り替えて集中する。
「京都支社の経理部にいた、桂木香穂(かつらぎかほ)という女性をご存知ですね?」
 静かに問われた草薙はぴくりと肩を揺らし、困惑顔で手元の「証拠」と怜司を交互に見やる。また秘書の男が苛立ったように勢いよく腰を上げ、草薙の元へ歩み寄った。
「お、お前、一体……っ」
 男は、怯えた顔で怜司に問うた草薙から「証拠」を取り上げてぱらぱらとページをめくり、わずかに顔を歪めた。
 それを待っていたかのように、怜司が口を開く。
「俺は彼女の――香穂の、婚約者です」
 草薙と男が同時に目を剥いた。
「二年前、貴方たちは横領に気付いた彼女を脅した挙げ句、凌辱して自殺に追い込んだ。間違いありませんね?」
 端的で耳を疑うような問いかけに言葉を失ったのは、事情を聞かされていない者全員だ。しん、と耳が痛いほその静寂に包まれる。
 つまり、あの紙の束は横領の証拠。詳しいことは分からないけれど、怜司や宗一郎が何の確証もなくこんなことを言うはずがない。
 分からないからこそきちんと話を聞かなければと思った。けれど、栄晴のことといい、さすがにこれは。大河は俯いてぎりっと歯を食いしばった。あまりの憤りに、拳が震える。
 本当か、なんてことを、と不穏な空気が漂い始め、草薙が狼狽して周囲を見渡す。
「な、何かの間違いだ! 私は何も……っ」
 往生際が悪い。大河と弘貴が同時に勢いよく顔を上げた。
「てめ……ッ!」
「やめろ」
 腰を浮かせて声を荒げた二人を、宗史(そうし)が強い声で制した。響いた声に、再び静寂が戻る。
 じっとこちらを見据える宗史の目には、静かな怒りが滲んでいた。自分だけではない、皆、我慢しているのだ。大河と弘貴は感情を押し込むように顔を歪めて、ゆっくりと座り直した。
 怒りで体が熱い。今にも全身の血が噴き出しそうだ。昨夜、その時だけの感情に囚われない(はな)を見て見習わなければと思ったし、間違いなくここは自分の出る幕ではない。それは分かっている。分かっているけれどあまりにも腹立たし過ぎて、押し込んだ怒りの代わりに、鼻の奥がつんと痛んだ。
 二人が腰を下ろしたことを確認して、宗史は怜司へ視線を戻した。それを受け、怜司は肩越しに大河と弘貴を見やり、草薙と男へ向き直る。
「横領の証拠に金の流れ、共犯者との密会写真。それで全てではありませんが、ここまで揃っていながら、何かの間違いだとおっしゃいますか。では、こちらをお聞きください」
 怜司は尻ポケットから携帯を取り出して操作した。
 流れてきたのは、店員の元気な掛け声と大勢の人の声。居酒屋の個室らしい、ご注文がお決まりになりましたらお呼びくださいと言って店員が下がり、ざわめきが遮断されると、女が切り出した。
『おかしな手紙を送ってきたのは、あんたたち?』
 椅子を引く音と共に問われた質問に、相手は答えなかった。代わりにごそごそと何かを漁る音がする。
『さっそくですが、花輪節子(はなわせつこ)さん。こちらの資料と写真をご覧ください』
 男に促され、花輪と呼ばれた女が「何なのよ、失礼ね」と小さくぼやいた。そして「えっ」と驚いた声が漏れ、数枚ほど乱暴に紙がめくれる音がしたあと、驚きの声を上げた。
『何で……っ』
『貴方と草薙一之介の秘書、二洋継(したながひろつぐ)に間違いありませんね』
 女の質問に、しばらく沈黙が流れた。
『……あんたたち、一体誰なの? 目的は何? あたしを強請るつもり?』
 声を殺し、しかし警戒心丸出しで問う花輪に男が言った。
『貴方じゃあるまいし、そんなことはしません。ただし、この資料と桂木香穂に関することを全てお話しください。お話しいただけないのなら、会社、警察、メディア。あらゆる方面に情報を流します。もちろん、貴方のご家族にも』
『な……っ、そっ、それ脅迫……っ』
『だから何ですか。貴方にそんなことを言う権利があるとでも?』
 花輪が黙り、今度は女が強い口調で言った。
『言っておきますが、調べはすでについています。洗いざらい喋ってもらいますよ、花輪さん』
『……話せば、黙っておいてくれるのね』
『ええ、お約束します』
 しばらく沈黙が流れ、やがて花輪は観念したように重い口を開いた。


 事の発端は、草薙製薬京都支社・支社長の草薙一之介と第一秘書の(したなが)による、出張費や接待費などの水増し、また架空請求での着服が始まりだった。
 今から二年と少し前、花輪はそれに気付いた桂木香穂から相談を受けたのだという。花輪は香穂の話を聞いてずいぶんと驚き、また真剣に耳を傾けたそうだ。
 草薙製薬では、帳票は電子データで保管している。香穂が花輪に見せた「証拠」はそれをプリントアウトしたもので、薄いファイルに閉じられてあった。
 香穂に呼び出された昼休みの会議室で、花輪は帳票を前に難しい顔で唸った。
「これ、監査でも引っ掛かってないのよね。もっと過去のものは調べた?」
「いえ、まだ。どう考えても不自然なんですけど……さすがに、信じられなくて……」
 花輪は、悲しげに目を落とした香穂を見て逡巡したあと、おもむろにファイルを閉じた。
「ひとまずこの件はあたしに任せて。詳しく調べるから、このファイル預かるわね。いい? 桂木さん。詳しいことが分かるまで、この話は誰にもしちゃ駄目よ。もし勘違いだったら、とんでもないことになるから。分かるわね?」
「はい……」
 至極真剣な面持ちで諭すと、香穂はこくりと頷いた。
「大丈夫、きっと何かの間違いよ。そんなに深刻になることないわ。ほら、お昼休み終わっちゃうわよ」
 花輪はファイルを抱え、不安な顔をした香穂を励ましながら会議室を出た。
 それから二週間ほど過ぎた頃、今度は花輪が香穂を会議室に呼び出した。
「例の話だけど、安心して。やっぱり貴方の勘違いだったわ」
「本当ですか」
「ええ。だからあのことは忘れなさい。ファイルももう処分したから、ね」
 笑顔でそう言った花輪に、香穂は少しぎこちなく笑って頷いた。
 この時すでに花輪は、香穂から預かった横領の証拠を添付したメールを二へ送り、接触したあとだったらしい。つまり、処分したというのは嘘で、強請ったのだ。支社長とその秘書を。
 もちろん二は、初めは否定した。
「認めなくても構いませんが、でも、これを法務部や本社に送ったらどうなりますかね? 確実に監査が入りますよ」
 渋面を浮かべた二は数日待って欲しいと言い、花輪はそれを受け入れた。そして三日後、今度は二から呼び出された。
 待ち合わせの場所に行くと、話もそこそこに封筒を渡され、引き換えに口止めと例の資料を要求された。金額は五十万。
「これだけ?」
 肩を竦めておどけて見せると、二は眉間に深い皺を刻んだ。
「ねぇ、二さん。これ以上要求すると、あたしは殺されちゃうんですかね? だって、サスペンスやミステリーでは王道の展開ですもんね。強請った人間が口封じに殺されるって。でもね二さん。このタイミングであたしが死ねば、桂木さんが気付くかもしれませんよ? それに、あたしだって馬鹿じゃありません。手紙の一つや二つ残してあります。まあ、あたしが強請ってたこともバレますけど。だからどうですか。あたしを仲間にするっていうのは」
 にっこり笑って提案した花輪に、二は目を丸くした。
 翌日、二から例の提案を受け入れるというメールが届いた。それから花輪は、二の指示に従って領収証の水増しや架空請求をはじめ、会社名義の口座からの不正引き落とし、小口現金着服などの横領に手を染めた。
 それから二カ月ほど経った頃、次第に羽振りが良くなっていく花輪を、香穂は訝しんだという。
 ある日、香穂から呼び出された花輪は、宝くじが当たったのよと言い訳をしたが、それでもしつこく問い詰められ、二へ報告した。
 それから一週間後、突然香穂は会社へ来なくなった。体調が優れないと連絡があったそうだが、すぐに二が何かしたのだと分かった。
「彼女に何をしたの?」
 横領の分け前を受け取りながら二に尋ねると、彼はこう言った。
「少し脅しただけだ。女が一番口を閉ざす方法でな」
 と。
 初めは、どこかその辺のチンピラを雇ったのかと思ったが、同じ轍を踏みたくはないだろう。どこから正体を知られ、強請られるか分からない。常識で考えると有り得ないが、心当たりは一人だけ。
「もしかして、ご子息かしら?」
 そう尋ねると、二は肯定しなかったが否定もしなかった。
 龍之介は、京都支社の人事部に在籍していた。けれどそれは表向きで、幽霊部員ならぬ幽霊社員であることは有名な話しだった。同時に、非常に傍若無人で我儘、女好きでも名を馳せていた。気が向いた時にだけ出社し、だからといってまともに仕事をするでもない。社内をふらふらしては、女性社員を物色してセクハラをするのは日常茶飯事。立場を利用して脅され、関係を迫られた者もいるという噂も流れていた。さらに、目付きが気に入らないだの自分の悪口を言っていただのとインネンをつけては男性社員に嫌がらせをし、中には退職に追い込まれた者もいるらしい。それでも、嘘か真か、反社会的組織と関係があるという噂と、支社長の息子であり、会長の孫という立場が彼らの口を重くした。
 横領には草薙一之介も関わっている。二も草薙に報告くらいしているだろう。だとすれば、草薙は自身の息子が罪を犯したことを知っている、あるいは自ら息子に指示をしたのだ。
 正直、これまでの自分なら「なんて酷いことを」と同情しただろう。けれどこの二カ月の贅沢な生活は、狂い始めていた花輪の感覚を、完全に歪ませた。
 恋人がいた時もあったけれど、どんなことにも向き不向きはある。自分の時間が削られることに、酷くストレスを感じた。それなりに稼いで、将来のために貯金をして、休日は本を読んだり、友人と会ったり、気ままに買い物をしたり。結婚願望はなく、恋人や夫子供の都合に合わせる必要もない、自由な自分の時間が好きだった。実家へは正月やお盆、両親の誕生日など定期的に顔を出す。そんな生活に満足していた。贅沢はできないけれど十分満足していると、そう、思っていた。
 感覚が狂ったのは、自分の誕生日。せめて一つくらいはと思って、こつこつ貯めた貯金で高級ブランドの新作バッグを購入した。これまで無縁だった、洗練された雰囲気の店内に上品なスタッフ。場違いと思われてやしないか緊張した。けれど、にこやかな店員に「お誕生日ですか。おめでとうございます」と祝われ、自分にプレゼントだと言えば「それは素敵ですね」と褒められ、店からのささやかなお祝いだと言ってプレゼント包装もしてくれた。
 四十手前で味わった初めての経験と手に入れたブランドのバッグは、満足感や優越感と同時に、自分のランクが一つ上がったような高揚感をもたらした。
 仕事用にするにはもったいない。友人とランチに行く約束をしていた休日に、初めて下ろした。向けられたのは、すれ違った若い女性たちや友人たちの羨望の眼差し。
 あれ新作だよ羨ましい、いいなー、あたしじゃ買えなーい。やっぱりいいわねぇ、独身時代に戻りたいわ。
 もっと、と欲が出たと同時に、やっと気が付いた。
 これまで歩んできた道は、堅実で自由という名の、平凡で平坦な面白味のない人生だったのだと。
 とはいえ、そうそう手を出せる値段ではない。でも日に日に承認欲求は増してゆく。そんな時に、香穂から相談を持ちかけられたのだ。
 余計な正義感なんか出すから。
 二の話を聞いた時、そう思った。黙って見過ごしていればいいものを、と。
 香穂は、部内でも人気があった。若くて明るくて綺麗。仕事もできて空気も読めて、人付き合いも上手い。そんな人には分からない。全てにおいて平凡な人間の虚しさなんか。
 ただ、そんな彼女でも浮いた話は聞かなかった。どうせ条件の高い男しか目に入らないのだろう。
 香穂が会社を休んで四日後、亡くなったと知った。突然の彼女の死に部内は浮足立ち、また説明を求める声がそこここから上がった。法務部の調査が入ったため自殺だったのではないかと噂が流れたが、家族葬だったこともあって真実は分からずじまいだった。けれど、自殺だと確信があった。
 これで邪魔者はいなくなった。花輪は、心の中でそうほくそ笑んだという。
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