第4話

文字数 4,354文字

      *・・・*・・・*

 昨日のことはちゃんと記憶にある。だが、ストレッチャーに乗せられてからの記憶がない。気が付いたら病院のベッドの上で、目の前には今にも泣き出しそうな母の顔があった。これで二度目だ。
 念のために診察を受けていると、病院が連絡したのだろう、着替える間もなく下京署の刑事が二人尋ねてきた。これが十時過ぎ頃のこと。
 聴取が終わり、退院の許可が下り、
「じゃあ、先に清算してくるわね」
 そう言って病室を出る母を見送った近藤は、ベッドの上で一つ息をついた。ごそごそと這い出て、サイドチェストに置いてある、母が持ってきた大きめのトートバッグからタオルを引っ張り出す。部屋に備えてある小さな洗面台で顔を洗う。汗で体はべたべたするし、髪もいつも以上にぼさぼさだ。さっさと帰って風呂に入りたい。
 刑事によると、犯人の動機はやはり科捜研の試験に落とされたことへの逆恨みらしい。
足繁く京都府警に通い、別府たちと一緒に本部から出てきた近藤を見て、面接の時にいたことを思い出したそうだ。約一年をかけて行動パターンを探り、同時に当時の面接官の殺害方法を模索したのだという。さらに殺害現場として最適な場所を探し、液体爆弾を試作し、野良犬や猫を解剖の実験台にした。
 廃墟マニアの中には、ローカルな廃墟をネットで紹介している者もいる。それを見てあの場所を知ったらしく、タクシーで何度か下見に行ったそうだ。その際、「廃墟マニアだが、片目が不自由で車が運転できないから」と言って笑ったらしい。タクシー運転手は、まさか人殺しの舞台を探しているとは思いもしなかっただろう。
 もともと頭の出来がいいのは間違いないようで、液体爆弾に必要な道具はネットで買い揃え、独学で物理を学んだ。私室のクローゼットと庭の倉庫から、道具や試作品の残骸が発見された。
また実験台にされた動物たちは、ビニール袋やごみ袋に詰められ、レジャーシートに包まれた状態で、庭と河川敷の茂みから発見された。無残にもばらばらにされており、現在見つかっているものだけでも七匹。犯人は何匹殺したか覚えていないとのことで、まだ増える可能性がある。猫は自宅に劇薬入りの餌を置いて呼び寄せ、家族が留守にしている間に車庫で。犬は野犬が多いと噂される深夜の河川敷で、こちらも劇薬を仕込んだ餌を食わせて殺害・解剖。それぞれの場所に埋めたそうだ。一部白骨化しているものもあれば、腐敗途中のものもあったらしい。
 そうして下準備を整えてから、犯人は協力者を探した。前科もなければ、一度も警察の世話になったこともない。もし通報されて身元が割れたとしても、殊勝な顔で「ストレスを発散するためのただの悪戯だった」と言えばすむ話だ。驚く顔や、不気味がる顔を見たかったと。悲しいかな、身勝手な理由でくだらない悪戯をし、他人を不快にさせ、喜ぶ輩はいるのだ。桐生冬馬の知人の弟にあっさり目的を話したのは、そういった余裕からだろう。
 綿密に準備をしたかと思えば、余裕に任せて警戒を緩める。慎重なのか軽率なのかよく分からない。
 共犯の男たちは、協力者を探している最中に、不自然に茂みの中を探っているところを見かけて声をかけた連中だそうだ。初めは猫でも探しているのかと思ったらしいが、どう見てもそんな風体ではない。
 今でこそネットでの売買が主流になっているが、一昔前は様々な方法が取られていた。その一つ、代金を前払いし、指定された場所に行って「品物」を受け取るという方法があった。受け渡し役は人だったり、指定場所に隠されていたりしたらしく、今でもその方法を使う昔気質の売人がいるらしい。
 もしやと思い話を持ちかけると、一人十万という条件をふっかけられた。合計で三十万。予定より出費が増えてしまったが、目的を果たすためには安いものだと、犯人は自慢げに言ったそうだ。
 洗面をすませ、近藤は多少気だるさが残る体をのろのろと動かしてバッグから着替えを取り出した。
 特に動物好きというわけではないけれど、さすがにあの話は気が塞ぐ。餌にありつけたと思ったら殺されるなんて、どれだけ無念だったか。その原因が自分にもあるとなればなおさら。母も終始沈痛な面持ちをしていた。
 着替えを済ませて薄汚れた服を適当に丸めていると、扉が鳴った。
「はーい、どうぞぉ」
 覇気のない声で応じると、扉が開いて別府が顔を覗かせた。小脇にヘルメットを抱えている。昼休みに抜け出してきたようだ。
「こんにちは」
「あれ、所長」
「どう? 体の方は」
 心配そうに尋ねながら、別府は後ろ手で扉を閉めた。
「まだちょっとだるいけど、大丈夫」
「そう、良かった」
 別府がほっと胸を撫で下ろし、近藤は背を向けた。
「昨日はありがとう。助かったよ」
 これ気に入ってたのに、と切り裂かれた服に向かってぼやきながらバッグに詰め込む。洋服代を請求できるだろうか。
 返ってこない答えにふと手を止め振り向くと、別府が足を止め、どことなく浮かない顔で立ち尽くしていた。
「どうしたの? 何か問題でもあった?」
「あ、いや、そういうわけじゃないんだけど……」
 しどろもどろに言って眼鏡を指で押し上げ、視線をあちこちに泳がせる。珍しい、こんな別府は初めてだ。やがて、観念したように重い口を開いた。
「緒方くんから、犯人の動機を聞いたんだ」
「うん?」
 それがどうしたのだろう。近藤はますます首を傾げた。
「近藤くんは、科捜研に入って、後悔してない?」
 言葉を区切るようにして問われた質問を、頭の中で反芻する。犯人の動機、後悔――なるほど。近藤は短く息を吐き、ゆっくりとベッドの端に腰を下ろした。
「してないよ。するわけないでしょ。入りたくて試験受けたんだから」
「でも……」
「あのね、所長」
 言葉を遮り、近藤は真っ直ぐ別府を見上げた。
「こいつは落としたら逆恨みしそうだ、なんて思いながら面接する人はいないでしょ。今回の件は特殊。あいつがおかしいんだよ。だから、所長が責任を感じることない。僕はこの程度で後悔しないし、そのくらい、科捜研や皆が好きだよ」
 不敵な笑みと共に告げられた最後の言葉に、別府は唇を噛み締めた。こみあげてくる何かを隠すように俯いて、強く拳を握る。
「僕はね」
 近藤は目を落とし、ゆったりと足を組んだ。
「これでも、所長には感謝してるんだよ?」
 これで駄目なら、諦めようと決めていた。母が知れば応援してくれただろうけれど、心配をかけたくなかった。きちんと仕事に就いて、安定した収入を得て、早く安心させたかった。それに、あの時受かっていなければ、紺野との再会はなかっただろう。
 またしても返ってこない答えに、近藤は視線を上げてぎょっとした。別府が顔を逸らし、手で口を覆っている。
「え、ちょっと、もしかして泣いてるの? やめてよ、僕が泣かせたみたいじゃない」
「近藤くんからそんな言葉が聞けるなんて、今までの苦労が報われた……っ」
「何それ、どういう意味? 僕だって感謝くらいするよ? ていうか苦労って何?」
 失礼な。苦労をかけた覚えなんかないし、紺野に紹介した時は「優秀な研究員だよ」と言ってくれたのに。むっと唇を尖らせると、別府がちらりと横目で近藤を盗み見た。目が合って、同時にふっと噴き出す。
 二人の密やかな笑い声が、病室を包んだ。
「そういえばさ、どうして僕だったの?」
 近藤が尋ねながら椅子を勧め、別府はありがとうと言いながら腰を下ろした。
「どうしてって、採用のこと?」
「そう。犯人はともかく、他に二人いたよね」
「ああ……」
 別府はヘルメットを膝に抱え、当時のことを思い出すように宙へ視線を投げた。
「変わった子だなぁって思ったんだよね」
「は?」
 思いもよらない答えに首を傾げると、別府は短く笑った。
「ほら、近藤くん言ってたでしょ。小学生の時に、警察官志望の人に助けてもらったって」
「うわ、覚えてるんだ」
「そりゃあ、印象的だったからね。そういう時って同じ警察官を目指すものだと思ってたから。それをあえて選ばずに、科捜研を選んだ。自分の性格や適性をよく分かってる子だなって思ったんだ。客観的に、かつ冷静に物事を見定めることができるのは、研究員として必要なスキルだ。それに、君は被害者の気持ちが分かる。大学での研究成果もだけど、一番大きかったのはそこかな。……ちょっと好奇心が強すぎるのにはびっくりしたけど」
「そう?」
 自分ではそんなふうに思ったことはないが。近藤が尋ね返すと、別府はそうだよと言って笑った。
 奇しくも、あの時の経験が採用される理由の一つになったわけだ。確かに、死にかけて怖い思いをした。何がどう報われるか、分からないものだ。
「ところで、前から気になってたことがあるんだけど」
「何?」
 近藤が小首を傾げると、別府は心持ち身を乗り出した。
「助けてくれた警察官志望の人って、もしかして、紺野くん?」
 好奇心というより、何かを期待した顔をしている。これは肯定したらこの先ずっと頭が上がらなくなるパターンだ。しかし、別府は母とも紺野とも親しい。母はともかく、紺野に直接尋ねて志望動機を喋られようものなら、間違いなく茶化される。できればどちらも避けたいが、自分にとってどっちがより都合が悪いか。頭の中の天秤は即座に傾いた。
 近藤は視線を逸らし、首筋に手を当てた。
「……まあ……うん」
「やっぱり!」
 しぶしぶと小さく頷くや否や、別府は相好を崩した。こっちの気も知らないで。つい眉根が寄る。
「紺野くんは知ってるの? 近藤くんがあの時の子だって」
「一応ね。だからって、本人に聞かないでよ? もう終わったことなんだし」
「えー、駄目?」
「駄目」
 ぴしゃりと一蹴すると、別府は「残念」とぼやいて不満そうに唇を尖らせた。
「でも、どうして紺野さんだって思ったの?」
「だって、近藤くんがあんなに懐いてるの、紺野くんしかいないでしょ」
「なつ……っ」
 まるで常識だと言わんばかりにさらりと返され、近藤は目を丸くした。確かに、科捜研を目指したのは紺野がきっかけだし、志望動機もまったくの嘘というわけではない。感謝も尊敬もしている。しかし、仲が良いと言われるのは構わないが、懐いているという表現は心外だ。犬猫じゃあるまいし。
「別に懐いてるわけじゃ……っ」
「あら」
 身を乗り出して反論した近藤の言葉を、扉が開く音と母の声が遮った。
「所長さん」
「ああ、おかみさん」
 顔を合わせたとたん、このたびは本当にありがとうございました、いえいえ、と互いに頭を下げながら挨拶が始まった。
 近藤は口を開けたままの間抜けな顔で二人をしばらく見つめ、やがて、諦めたように溜め息をついた。あとでもう一度念を押しておいた方がいいかもしれない。
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