第9話

文字数 3,028文字

 スカイテラスの左側には、砂利が敷き詰められたちょっとした広場になっている。
「あ、あれ。松尾芭蕉の俳句の碑らしいですよ」
 設置されたベンチや望遠鏡に交じって建つ、少々古めかしい石碑を指差しながら陽が言った。「そのままよ 月もたのまし 伊吹山」。月の力などを借りずとも、伊吹山はそのままで立派な山だよ、という伊吹山の美しさを詠った句らしい。
「そういえば、松尾芭蕉は忍者の末裔だったって説があるんだよな」
「えっ、忍者!?」
「何だそれ。眉唾もんだろ?」
 陽は素直に驚いたのに、志季は鼻で笑った。可愛くない。
「本当かどうかは知らねぇけど、出身地が伊賀だったのは間違いないらしいぞ。あと、奥の細道ってあるだろ」
「江戸から五カ月かけて東北や北陸地方を経由して、岐阜県の大垣市までを歩きながら詠んだ句の、俳諧? でしたよね。確か、四十歳を過ぎていたとか」
 さすが陽だ。よく勉強している。ちなみに、大垣市は料金所がある関ケ原町の東へ二つ隣の市だ。
「そう、それ。で、一日に歩いた距離が三十キロとか四十キロとか言われててな。そこからそんな説が出たんだってよ。時間に換算すると、三十キロだと七時間半から八時間くらいだな」
「歩けなくもねぇけど、四十過ぎならちょっと厳しいか?」
「年もあるけど、あくまでも平地での数値だし、今よりも道が整備されてなかっただろ。忍者の末裔だったのかはともかく、相当足腰が強かったのは確かじゃねぇの?」
「へぇ、知りませんでした。何かいいですね、そういうの。想像するだけでも楽しくなります」
 忍者かぁ、と目をキラキラさせる陽を二人して眺め、ぼそりと呟く。
「見習え」
「お前がな」
 宗史がいたらお互い様だろと突っ込まれ、大河がいたら陽と一緒に盛り上がりそうだ。
「ところで、何でこんなとこに観音様が祀られてんだ?」
 砂利道を進みながら、志季が怪訝そうに眉をひそめた。視線の先は、碑から少し先。雄大な景色を背景に立つ観音像だ。
「ああ、あれ。恋慕観音らしいよ。ここ、恋人の聖地としても有名なんだって」
「恋人の聖地ぃ?」
 胡散臭いとでも言いたげな懐疑的な声で反復し、ますます眉間にしわを寄せる。
「もしかしてあれか? 南京錠なんかかけたりするのか」
 本当にこの式神はどこで情報を仕入れてくるのだろう。そんな話は一度もしたことないのに。
「うん。ここ霊峰だし、カップルに人気らしいよ」
「あの足元にある丸いのは?」
 観音像の足元に、御影石だろうか。穴の開いた四角い石が地面に埋まっている。
円縁(まどからなるえん)(いし)って言って、まず右から左へくぐって悪縁を切って、次に左から右へくぐると良縁を招くって言われてるんだって。恋愛だけじゃなくて、全部の縁にご利益があるみたいだよ。あとは護摩木もあって、願い事によって七色に色分けされてるらしいんだ。七色の護摩木なんて、ちょっと見てみたかったなぁ」
「ふーん……」
 何やら含んだ相槌を打ち、志季はにんまりと口角を上げた。
 遊歩道の入り口には、網目状の鉄線が張り巡らされた大きな鉄の扉が大きく口を開いている。そこをくぐると、左右は雑草や野花が生い茂った急斜面だ。右手は落下防止用に木の杭とロープで柵がされ、さらに下った場所にも網が設置されている。野生動物の進入防止用だろう。足元は小さな石から少々大ぶりなものまで転がっているが、よほどふざけない限り危険はないだろう。
 そして、見渡す限りの空と雲と山。少し茜色がかってきた空に、鮮やかな山の緑と野花の黄色がよく映えている。
「すごい、綺麗!」
「陽、気を付けろよ」
 無邪気に声を上げ、携帯片手に走り出した陽に声をかける。はーい、と返ってきた良い子の返事に呆れつつも、笑みが漏れる。と。
「おい晴。お前、あの何とかって石くぐった方がいいんじゃねぇのか。毎度毎度面倒くせぇ女にばっか引っかかりやがって。ほんとお前は女を見る目がねぇっつーか、来るものは選べよ」
 人が穏やかな気分になっていたのに空気が読めない式神だ。苦い顔でじろりと睨む。
「うるせぇなぁ。誰と付き合おうと俺の勝手だろ」
「誰にも迷惑かけねぇならな。そのうち女より先に宗史に殺されるぞ?」
「今のあいつが女に見えたらそいつの目は節穴だ」
 過去付き合った女は多いが、何故か面倒臭いタイプばかりだった。何かにつけて記念日にしたがる奴、夜中に突然呼び出す奴、束縛が酷い奴、一時間ごとにメッセージを寄越す奴。中には、半ストーカー化した奴もいた。最悪だったのは、休日、桜の誕生日プレゼントを買うため宗史と出掛けた時のことだ。尾行していたらしく、宗史を女と勘違いして待ち合わせた駅前で大喧嘩になった。当時中学生だった宗史はよく女に間違えられていて、それを気にしていた本人は当然大激怒。あの超絶不機嫌な顔と強烈な腹パン、何で俺がと思った理不尽な気持ちは忘れたくても忘れられない。
 状況は違えど似たようなことが三度もあったため、晴は女運がない、と両家の間では確定事項となっている。
「あとあれ。二股だか三股だかの奴」
「四股だ」
「相手も相手だけど、お前の女運のなさも極まれりって感じだったよなぁ」
 わざとらしい同情じみた溜め息が憎たらしい。溜め息をつきたいのはこっちだ。もしや前世で何かやらかしたのだろうかと勘繰りたくなるほどの女運のなさ。割り切った関係の相手はいるが、そういう相手に限っていい女だったりするのは何故だろう。いっそ明に頼んでお祓いを――いや、確実に割り増し料金にされる。晴は肩を落として盛大に溜め息をついた。景色はこんなに清々しいのに、気分は鬱だ。
「兄さん、志季、早くー」
 無邪気に景色を写真に収めていた陽が、先の方で大きく手を振った。
「おー」
 と揃って返事をし、二人は歩みを速めた。
「そういや、住職なんだけどな」
「うん?」
「ホームページの告知、嘘八百だろ。あとで料金所のゲートとか閉めなきゃならねぇから、あそこで待ってるってよ」
「あー……、まあ、あれだけ離れてたら大丈夫だと思うけど。つーか、他の従業員に勘繰られなかったのか? 落石調査とか生態調査に住職が対応っておかしいだろ」
「調査後に祈祷を頼まれてるって言ったらしいぜ」
「なるほど」
「あっ、鹿!」
 二人の会話に、陽の弾んだ声が割り込んだ。思わず視線を投げると、陽が右手の斜面、侵入防止用の網の向こうをじっと見つめたまま立ち止まっていた。視線の先で、草を食んでいた一匹の鹿が顔を上げてこちらを振り向いた。
「さっきの奴よりちょっと小ぶり……」
 言いかけて志季がはっと口を覆い、鹿の小さな耳がぴくぴくと小刻みに動く。
「……お前、鹿追いかけて迷子になったから追いつくの遅かったのか」
「ちが……っ、迷子とかそんなんじゃねぇよ!」
 顔を真っ赤にして荒げた志季の声に驚いたのか、鹿が飛び跳ねるように背を、いや尻を向けて走り去った。あーあ、と陽から残念そうな声が漏れる。
「間違っても戦いの最中に迷子になってくれるなよ?」
「だから迷子じゃねぇっつってんだろうが!」
「志季が叫ぶから驚いて逃げちゃった」
「はあ!? 俺のせいじゃねぇ、こいつが変なこと言うから……っ」
「はいはい。迷子にならないようにしっかりついて来いよー」
「晴てめぇ!」
 徐々に陽が落ちる夏空の下、群生したピンク色の花が笑うようにさわさわと花弁を揺らした。
 いくら標高が高いとはいえ、照り付ける日差しの中を歩けば当然暑い。水分補給をしながら、ひたすら山頂を目指す。
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