第2話
文字数 3,353文字
宗史は短く息をつき、頭を切り替えた。
「さて、じゃあ今夜の仕事の話しだ」
「あ、うん」
宗史は、シャツの胸ポケットから四つ折りの依頼書を取り出して大河へ手渡した。つらつらと目を通す大河を横目に、晴が感心なのか呆れなのか分からない息を吐いた。
「つーか、あの分厚い訳を一日で読み終えるとかどんだけなんだよ。仕事もあったのに」
「普段本を読み慣れていれば読める量だ」
「悪ぅございましたね、読み慣れてなくて。活字読んでると眠くならねぇ?」
「ならない。場面を想像しながら読まないからじゃないのか」
「文を解釈しながら想像するとか、そんな器用なことできるか」
「普通だろ」
「普通じゃねぇ」
「えっ!」
大河が突然叫んで、依頼書に顔をうずめる勢いで目の前に引き寄せた。その距離は逆に見えない。
「どうした?」
宗史が尋ねると、大河は目を輝かせてゆっくりと顔を上げた。依頼書を読んでそんな目をする奴は初めてだ。
「この仲介役の玉木達也 さんって人、もしかしてメディスミュージックプロの玉木さん!?」
思いがけない質問だ。興奮気味に尋ねられ、宗史は若干引き気味に頷いた。
「そうだが……、会合でも会ってるぞ」
「やっぱり! どっかで聞いたことあるなって思ってたら……!」
思ってたら何だ。まさかあの玉木さんだとは思わなかった、と一人納得する大河に、宗史と晴は困惑の表情を浮かべた。
株式会社メディスミュージックプロダクションは、東京に本社を置く芸能事務所「株式会社メディスプロ」の音楽部門を担う企業で、ミュージシャン専門の事務所だ。またメディスプロの方は、元々は役者の育成所として京都で起業され、徐々に事業を拡大して東京に本社を移した。現在は、京都はもちろん主要都市に役者の育成所を持ち、俳優・女優をはじめ芸人やタレント、モデルを多く抱え、芸能事務所といえば必ず名が上がるほどの大手である。玉木達也は、メディスプロ代表取締役社長の従弟にあたり、メディスミュージックプロダクションの代表取締役社長だ。
今回の依頼者は、京都の役者育成所の社員の一人、小田原 という男だ。依頼者の職業欄で玉木と繋がったのだろうが、何をそんなに興奮することがあるのだろう。
「知ってたのか?」
「知ってたもなにも、メディスってオスクの所属事務所じゃん!」
「オスク?」
熱のこもった力説に宗史と晴が同時に聞き返すと、大河がきょとんと目をしばたいた。
「……え、知らないの? オスクリヒトっていうバンド」
またもや同時に首を横に振ると、大河は「えー」と残念そうな声を漏らして肩を落とした。
「まあ、滅多にテレビに出ないから……でもランキング上位の常連だしドラマ映画の主題歌とかCMでも曲が使われてるのに……」
なんで知らないの、とぶつぶつ苦言が聞こえてくる。音楽を聞かないわけではないが、これといって贔屓しているミュージシャンがいるわけではない。曲は知っていても誰の曲か知らないということは多々ある。知らないと言われて不満に思うほど、大河はどうやらそのオスクリヒトというバンドのファンらしい。
「若者に大人気のバンドなのに……」
「どういう意味だ」
無意識に呟かれた遠回しの嫌味に、宗史と晴の突っ込みが重なった。
「てか、いくら好きなバンドが所属してるからって、なんで玉木さんの名前知ってたんだよ。社長だぞ」
「だって、オスクのブログにたまに出てくるから。時々ライブに顔出してるみたいだよ。一昨年かな、クリスマスライブでサンタコスして会場に飴ばらまいて、今年のホワイトデーライブは王子コスして飴ばらまいたらしいよ」
「何やってるんだあの人」
「なんで飴オンリーなんだよ、大阪のおばちゃんか」
会合で何度も会っているが、びしっとスーツで決めて四角四面な男という印象しかなかった。まさかコスプレをして飴なんぞをばらまいているとは。人間、見た目だけでは分からない。
「あっ、てことは俺、玉木さんの目の前で醜態晒したことになるんだ! マジか!」
草薙に激怒したことだろう。恥ずかしい、と呟いて顔を覆った大河の気持ちがさっぱり分からない。玉木の前で醜態を晒したから何だというのだ。
「ファン心理って理解できん……」
「俺もだ」
晴の困惑したぼやきに同意し、宗史は悶絶する大河に溜め息をついた。
「それはともかく、何か質問はあるか?」
「あ、うん。質問っていうか……」
大河が我に返って顔を上げ、依頼書に視線を落としてこてんと首を横に倒した。
「浄化の仕事だよね。でも、これってさぁ……」
「本来後回しにするはずの案件なんだけどな。依頼者がしつこく催促してくるらしい。ちょうどいいから受けたそうだ」
「ちょうどいい?」
大河が依頼書から視線を上げた。
「仕事が終わってから、土御門家で会合だ。樹さんと怜司さんも一緒に」
「何かあったの?」
「ああ。ただし、このことは口外するな」
「分かった。でも、柴と紫苑は?」
「午前中に潜伏先を探りに出た時に左近から聞いているはずだ。午前中に出るようなら連絡して欲しいと、樹さんと怜司さんには伝えておいたんだ」
「そうなんだ」
「十時に迎えに来るから、依頼書をよく読んでおけよ」
「はーい」
「それともう一つ。真言はちゃんと覚えたんだろうな?」
「うん」
大河は自信満々に頷いて依頼書を机の上に置き、姿勢を正した。大きく深呼吸をし、表情を引き締めたところを見計らって宗史も居住まいを正す。隣で、晴が試験官よろしく真剣な顔で腕を組んだ。
「では、浄化」
大河が深く息を吸い込んだ。
「ノウマク・サマンダ・ボダナン・カカカ・ソタド・ソワカ。帰命 し奉 る、愛執済度 、道途光明 、光許嚮導 、急急如律令 」
「次、調伏」
「オン・マヤラギランデイ・ソワカ。帰命 し奉 る、邪気砕破 、邪魂擺脱 、顕現覆滅 、急急如律令 」
「次、結界。中級の下」
「オン・アキシュビヤ・ウン。帰命 し奉 る、障壁成就 、万象奸邪 、遠離防守 、急急如律令 」
「中」
「ノウマク・サマンダ・バザラダン・センダマカロシャダ・ソワやた……ソワタヤ」
「何ごともなかったように続けるな」
冷静な宗史の突っ込みに、晴が腕を解いて盛大な笑い声を上げた。
「連続して唱えると舌回らなくなる! もう一回!」
顔の前で両手を合わせて拝む大河を無視し、宗史が腰を上げ、晴もげらげら笑いながら立ち上がる。
「駄目だ。三十分で覚え直せ」
「次は絶対言えるから!」
「暗記を追加されるのとどっちがいい」
「喜んで覚え直しますそれだけはやめて」
宗史が冷ややかな目で見下ろすと間髪置かずに折れた。ちゃんと言えてたのに! と悔しそうに吐き出しながらノートを開く大河を置いて、宗史と晴は笑い声を堪えて扉を開けた。と、
「あ、宗史さん、晴さん」
呼び止められて振り向くと、上半身だけでこちらを振り返っていた大河が、照れ臭そうに笑った。
「ありがとう」
それだけ言うと、大河はくるりと机に向き直った。
ふ、と二人は息を吐き出すように苦笑し、静かに部屋を出る。
「完全に浮上したって感じだな」
扉を閉めると、晴が喉の奥で笑いながら言った。
「そうだな」
しかし、まだ安心はできない。今回のようにタイミングが悪ければ、今度こそ大河は霊力が使えなくなるかもしれない。例のことを話しておくべきだっただろうかと思う反面、立て続けに大河に精神的負担を負わせるのは酷だとも思う。大河自身は、陰陽師としても精神的にも強くなりたいと言うけれど。
タイミングが分からない。
「宗」
不意に呼ばれ、宗史は隣を見やる。珍しく真剣な眼差しだ。晴は真っ直ぐ前を見据えたまま、ゆっくりと口を開いた。
「これ以上、何も失うつもりはないんだと」
何のことか、一瞬理解できなかった。
「強くなれってさ」
続けて他人事のように告げられた言葉に、宗史は目を丸くした。
「ったく、簡単に言ってくれるよなぁ」
乱暴に頭を掻いて嘆息する晴から目を逸らし、宗史は一度目を伏せると前を見据えた。
「これまでサボっていた分、明 さんからしごかれろ」
「嫌な言い方すんな。すでに今朝しごかれたわ」
「何なら父さんに頼んでおいてやろうか?」
「お前は俺を殺す気か」
ほんと可愛くねぇ、と膨れ面でぼやきながら階段を下りる晴の後ろ頭を見下ろして、宗史はぎゅっと腹に力を入れた。
動く――そう、直観的に思った。
「さて、じゃあ今夜の仕事の話しだ」
「あ、うん」
宗史は、シャツの胸ポケットから四つ折りの依頼書を取り出して大河へ手渡した。つらつらと目を通す大河を横目に、晴が感心なのか呆れなのか分からない息を吐いた。
「つーか、あの分厚い訳を一日で読み終えるとかどんだけなんだよ。仕事もあったのに」
「普段本を読み慣れていれば読める量だ」
「悪ぅございましたね、読み慣れてなくて。活字読んでると眠くならねぇ?」
「ならない。場面を想像しながら読まないからじゃないのか」
「文を解釈しながら想像するとか、そんな器用なことできるか」
「普通だろ」
「普通じゃねぇ」
「えっ!」
大河が突然叫んで、依頼書に顔をうずめる勢いで目の前に引き寄せた。その距離は逆に見えない。
「どうした?」
宗史が尋ねると、大河は目を輝かせてゆっくりと顔を上げた。依頼書を読んでそんな目をする奴は初めてだ。
「この仲介役の
思いがけない質問だ。興奮気味に尋ねられ、宗史は若干引き気味に頷いた。
「そうだが……、会合でも会ってるぞ」
「やっぱり! どっかで聞いたことあるなって思ってたら……!」
思ってたら何だ。まさかあの玉木さんだとは思わなかった、と一人納得する大河に、宗史と晴は困惑の表情を浮かべた。
株式会社メディスミュージックプロダクションは、東京に本社を置く芸能事務所「株式会社メディスプロ」の音楽部門を担う企業で、ミュージシャン専門の事務所だ。またメディスプロの方は、元々は役者の育成所として京都で起業され、徐々に事業を拡大して東京に本社を移した。現在は、京都はもちろん主要都市に役者の育成所を持ち、俳優・女優をはじめ芸人やタレント、モデルを多く抱え、芸能事務所といえば必ず名が上がるほどの大手である。玉木達也は、メディスプロ代表取締役社長の従弟にあたり、メディスミュージックプロダクションの代表取締役社長だ。
今回の依頼者は、京都の役者育成所の社員の一人、
「知ってたのか?」
「知ってたもなにも、メディスってオスクの所属事務所じゃん!」
「オスク?」
熱のこもった力説に宗史と晴が同時に聞き返すと、大河がきょとんと目をしばたいた。
「……え、知らないの? オスクリヒトっていうバンド」
またもや同時に首を横に振ると、大河は「えー」と残念そうな声を漏らして肩を落とした。
「まあ、滅多にテレビに出ないから……でもランキング上位の常連だしドラマ映画の主題歌とかCMでも曲が使われてるのに……」
なんで知らないの、とぶつぶつ苦言が聞こえてくる。音楽を聞かないわけではないが、これといって贔屓しているミュージシャンがいるわけではない。曲は知っていても誰の曲か知らないということは多々ある。知らないと言われて不満に思うほど、大河はどうやらそのオスクリヒトというバンドのファンらしい。
「若者に大人気のバンドなのに……」
「どういう意味だ」
無意識に呟かれた遠回しの嫌味に、宗史と晴の突っ込みが重なった。
「てか、いくら好きなバンドが所属してるからって、なんで玉木さんの名前知ってたんだよ。社長だぞ」
「だって、オスクのブログにたまに出てくるから。時々ライブに顔出してるみたいだよ。一昨年かな、クリスマスライブでサンタコスして会場に飴ばらまいて、今年のホワイトデーライブは王子コスして飴ばらまいたらしいよ」
「何やってるんだあの人」
「なんで飴オンリーなんだよ、大阪のおばちゃんか」
会合で何度も会っているが、びしっとスーツで決めて四角四面な男という印象しかなかった。まさかコスプレをして飴なんぞをばらまいているとは。人間、見た目だけでは分からない。
「あっ、てことは俺、玉木さんの目の前で醜態晒したことになるんだ! マジか!」
草薙に激怒したことだろう。恥ずかしい、と呟いて顔を覆った大河の気持ちがさっぱり分からない。玉木の前で醜態を晒したから何だというのだ。
「ファン心理って理解できん……」
「俺もだ」
晴の困惑したぼやきに同意し、宗史は悶絶する大河に溜め息をついた。
「それはともかく、何か質問はあるか?」
「あ、うん。質問っていうか……」
大河が我に返って顔を上げ、依頼書に視線を落としてこてんと首を横に倒した。
「浄化の仕事だよね。でも、これってさぁ……」
「本来後回しにするはずの案件なんだけどな。依頼者がしつこく催促してくるらしい。ちょうどいいから受けたそうだ」
「ちょうどいい?」
大河が依頼書から視線を上げた。
「仕事が終わってから、土御門家で会合だ。樹さんと怜司さんも一緒に」
「何かあったの?」
「ああ。ただし、このことは口外するな」
「分かった。でも、柴と紫苑は?」
「午前中に潜伏先を探りに出た時に左近から聞いているはずだ。午前中に出るようなら連絡して欲しいと、樹さんと怜司さんには伝えておいたんだ」
「そうなんだ」
「十時に迎えに来るから、依頼書をよく読んでおけよ」
「はーい」
「それともう一つ。真言はちゃんと覚えたんだろうな?」
「うん」
大河は自信満々に頷いて依頼書を机の上に置き、姿勢を正した。大きく深呼吸をし、表情を引き締めたところを見計らって宗史も居住まいを正す。隣で、晴が試験官よろしく真剣な顔で腕を組んだ。
「では、浄化」
大河が深く息を吸い込んだ。
「ノウマク・サマンダ・ボダナン・カカカ・ソタド・ソワカ。
「次、調伏」
「オン・マヤラギランデイ・ソワカ。
「次、結界。中級の下」
「オン・アキシュビヤ・ウン。
「中」
「ノウマク・サマンダ・バザラダン・センダマカロシャダ・ソワやた……ソワタヤ」
「何ごともなかったように続けるな」
冷静な宗史の突っ込みに、晴が腕を解いて盛大な笑い声を上げた。
「連続して唱えると舌回らなくなる! もう一回!」
顔の前で両手を合わせて拝む大河を無視し、宗史が腰を上げ、晴もげらげら笑いながら立ち上がる。
「駄目だ。三十分で覚え直せ」
「次は絶対言えるから!」
「暗記を追加されるのとどっちがいい」
「喜んで覚え直しますそれだけはやめて」
宗史が冷ややかな目で見下ろすと間髪置かずに折れた。ちゃんと言えてたのに! と悔しそうに吐き出しながらノートを開く大河を置いて、宗史と晴は笑い声を堪えて扉を開けた。と、
「あ、宗史さん、晴さん」
呼び止められて振り向くと、上半身だけでこちらを振り返っていた大河が、照れ臭そうに笑った。
「ありがとう」
それだけ言うと、大河はくるりと机に向き直った。
ふ、と二人は息を吐き出すように苦笑し、静かに部屋を出る。
「完全に浮上したって感じだな」
扉を閉めると、晴が喉の奥で笑いながら言った。
「そうだな」
しかし、まだ安心はできない。今回のようにタイミングが悪ければ、今度こそ大河は霊力が使えなくなるかもしれない。例のことを話しておくべきだっただろうかと思う反面、立て続けに大河に精神的負担を負わせるのは酷だとも思う。大河自身は、陰陽師としても精神的にも強くなりたいと言うけれど。
タイミングが分からない。
「宗」
不意に呼ばれ、宗史は隣を見やる。珍しく真剣な眼差しだ。晴は真っ直ぐ前を見据えたまま、ゆっくりと口を開いた。
「これ以上、何も失うつもりはないんだと」
何のことか、一瞬理解できなかった。
「強くなれってさ」
続けて他人事のように告げられた言葉に、宗史は目を丸くした。
「ったく、簡単に言ってくれるよなぁ」
乱暴に頭を掻いて嘆息する晴から目を逸らし、宗史は一度目を伏せると前を見据えた。
「これまでサボっていた分、
「嫌な言い方すんな。すでに今朝しごかれたわ」
「何なら父さんに頼んでおいてやろうか?」
「お前は俺を殺す気か」
ほんと可愛くねぇ、と膨れ面でぼやきながら階段を下りる晴の後ろ頭を見下ろして、宗史はぎゅっと腹に力を入れた。
動く――そう、直観的に思った。