第8話

文字数 6,338文字

 人生詰んだ、そう思っていた。
 けれどあの日と同じように、一向に警察が訪ねてくる気配もなく、堪りかねて智也に連絡を入れた。すると言った。どこを探しても見つからない、と。
 怪訝ではあったが、それ以上にほっとした。
 その安堵が、樹が生きている可能性に対してなのか、それともあの日のことが公にならない可能性に対してなのか自分でも分からなかった。
 あれから自然とアヴァロンに行く回数は減り、冬馬と言葉を交わすこともほぼ無くなった。行けば以前のようにフロアに下りてはくるものの口数は少なく、昔のように作り物の笑顔でしか笑わなくなった。智也と圭介によると、あれから冬馬はずっと樹を探しているらしい。何の当てもなく、しかし定期的に身元不明遺体を検索できるサイトを使い、何度かアミューズメント跡地にも足を運んでいるという。
 一年ほど経った頃、智也と圭介のお気に入りだというリンとナナを紹介された。時折表情が曇るものの、二人は少しずつ前に進んでいる、そんな印象を受けた。
 しかし冬馬だけは、あの日から動けないまま、立ち尽くしているように思えた。
 期待した。「特別」を失ったことが、そのうち仕事に支障をきたすのではないかと。
 けれど逆効果だったと知ったのは、さらに二年が過ぎた――つい先月のことだった。
 この頃、出所した譲二はプロライセンスを剥奪されてかなり荒れており、質の悪い連中と付き合うようになっていた。その繋がりで何人か紹介されたが、店長という立場がある。あまり関わらないように距離を取っていたところに、あの話を持ち掛けられた。
 刑務所で知り合った知人に樹の話をしたところ、興味を持ったらしい。三年前、一度アヴァロンに行ったが姿が見えず、常連らしい客に尋ねると辞めたと言われたそうだ。それから今まで連絡が途絶えていたが、昨日突然連絡が来て、どうしても諦めきれないから探すのを手伝って欲しいと頼まれたのだと言う。
 冬馬はともかく、良親はもう数えるほどしか思い出さなくなっていた。実際問題、樹がいようといまいと良親自身に何の影響もない。影響があるのは冬馬だけで、いっそ潰れてくれれば好都合だと思っていたくらいだ。それに、生死も分からない上に何で今さら。
 報酬には心惹かれたがそれ以外にメリットがない。むしろリスクの方が高い。もし樹が死んでいたら、事情を聞かれる。それを冬馬が知ったら必ず三年前のことを喋るに決まっているのだ。首を縦に振る気にはならなかった。それに、その知り合いがどこの誰なのか、もしかすると樹の知り合いで何か裏があるのではないのか。疑えばキリがないが、今さらほじくり返されるのはごめんだと思い、一度は断った。
 その考えが見事にひっくり返されたのは、数日後に本社で行われた店長会議の後だった。
 店長会議は午前中に終了する。それからは一緒に昼食を摂る者、店に戻る者とそれぞれだ。良親は大阪にあるホストクラブの店長、飛鳥と共に昼食を摂るため、会議室を出た。
 一階のロビーに到着してエレベーターの扉が開くと、顔見知りの女性が分厚いファイルを抱えて立っていた。一香(いちか)という経理課の彼女は常連ではないけれど、時折ミュゲに来て指名してくれる。
「あら、良親くん。久しぶり」
 気軽にひらりと手を振る彼女に良親もどうもと会釈する。と、一香は何かを探すようにぞろぞろと降りてくる店長集団に視線を走らせた。エレベーター脇に避けながらちょいちょいと小さく手招きをする彼女に引っ張られるように、良親と飛鳥が続く。
「どうしたんですか?」
「ねぇ、アヴァロンの店長さんいないの?」
「冬馬のことですか。あいつなら……」
 唐突な質問に首を傾げながらも、良親が正面玄関へ向かう店長集団を振り向きかけた時、飛鳥が言った。
「あいつならさっきオーナーと会議室に残ってましたよ」
「え……」
「ああ、やっぱりそうなんだ」
 良親と一香の声が重なった。
「やっぱり?」
 どういう意味だ。良親は飛鳥から一香へと視線を向けた。
「人事課の子が言ってたのよ、本社異動の話が出てるって。本決まりじゃないんだけど、その話してるのかも。すっごいイケメンだから楽しみだって騒いでたのよね。あたし見たことないから、今日見られるかなって期待してたんだけど、残念」
「うーわ、マジかぁ」
「あの人、前に次期社長候補だって噂があったのよね? 眉唾ものだと思ってたけど、もしかするともしかするかもねぇ。あれでしょ? 今住んでる所も社長所有のマンションなんでしょ?」
「えっ、嘘!」
「あら、知らない? 先輩から聞いた話じゃ、社長が家賃取ってないから住宅手当外して欲しいって、社長に直談判したらしいわよ。真面目よねぇ、あたしだったら黙ってもらっておくわ」
 そう言ってけらけらと笑う一香と「俺もー」と同意する飛鳥の声は、どこか遠かった。
「まあ、俺は別に本社勤務とか望んでないから、羨ましいとは思わないかな。この前、親にマンション買ってやれたし、今の仕事好きだし」
「すごい、親孝行ね」
「昔散々迷惑かけたんで、罪滅ぼしですよ」
「いいわねぇ。あたしにも買ってよ」
「俺の彼女になってくれたら買います」
「ホストの彼女って大変そうだから嫌よ。マンションだけちょうだい」
「ここまであからさまにたかられると清々しいですね」
「でしょ? だから買ってよ」
「だからの使い方間違ってますわ」
 二人の叩く軽口が、次第に聞こえなくなった。
 社員登用の時の社長直々の面談、本社異動に加えプライベートでは社長所有のマンションに住んでいる。これは、待遇というより贔屓ではないのか。確かに冬馬は優秀だ、それは認める。けれどここまでの差を付けられて笑っていられるほど、心は広くない。
「……悪い、今日帰るわ」
「え、おい良親」
 おもむろに踵を返して足早に玄関へ向かう良親を、飛鳥と一香は小首を傾げて見送った。
 本社ビルを出ると、夏の日差しが容赦なく照りつけた。街を行き交う人の声や車の走行音。いつもは気に止めることのない街の喧騒がやけに耳について、鬱陶しい。
 徐々に速度を落とし、歩道の真ん中で立ち止まった。ふと空を仰ぎ見た良親を、前から来た男性が怪訝な顔をして避ける。
 青い空に白い雲、などという使い古された表現が頭に浮かぶ。清々しい色をした、抜けるような夏の空。
「はは……っ」
 そうか、と突然納得した。
 冬馬をこんなにも気にしていた、その理由がやっと分かった。
 唐突に笑い声を上げた良親を、二人組の女性が気味悪そうに顔を歪めて避けた。
 今日の店長会議で発表された先月の業績は、アヴァロンがトップだった。トップ争いをしていた祇園と大阪の高級クラブとの差はほんの僅かなものだったが、それでもトップに変わりない。
 ここ三年でアヴァロンのイベント回数は増え、サービス内容、酒やフードの定期的な見直しや、系列店のカフェとのコラボという形で新メニューや限定メニューの発案、開発、ゲストDJ、ミュージシャンの新規開拓と、同じクラブがある神戸店、大阪店とは比較にならない数の企画書と報告書が提出されていた。
 支障どころではない、むしろ「特別」を失ったことが仕事にのめり込むきっかけとなり、三年という年月を経て実を結んだ。
 それが、あの話を後押ししたとしてもおかしくない。
 結局、どちらに転んでも冬馬が自ら潰れることはないのだ。ならば。
 良親は歩き出しながら携帯を操作した。
「俺だ。例の話し協力してやる」
 そうこないとな、と譲二の浮かれた声を聞きながら、良親は睨むように前を見据えた。

                 *・・・*・・・*

 天は二物を与えずなんて、どこの馬鹿が言った?
 容姿も頭脳も人柄も人望にも恵まれ、一度は手放した裕福な環境すら、冬馬はまた掴もうとしている。
『あれだけ時間を費やして、こんなものか』
 定期テストの成績を眺め、落胆した表情で呟いたのは父親。
『面白味のない人』
 父親に背を向けて、つまらなそうに呟いたのは母親。
 裕福でも貧乏でもない、ごく普通の家庭で育った。けれど父親は学歴と経歴を何よりも重視し、優秀さと真面目さだけが取り柄の、面白味のない男だった。
 一方母親は、そんな父親に愛想を尽かし、しかし安定した生活を捨て切れず、義務のように家事をこなして頻繁に家を空けていた。おそらく男がいたのだろう、時折綺麗に着飾って出掛ける日もあった。
 規則正しい生活をしろ、見劣りしない成績を取れ、恥ずかしくない学歴を持て。父親からの圧力、監視、束縛。そこから助け出してくれる素振りすら見せない母親。
 次第に薄れていく自分への関心。
 その程度の人間だと、親からも見放される程度の人間なのだと、散々思い知ってきたのに。何を勘違いしていたのだろう。
 自分がどの程度の人間かよく分かっていたはずなのに、何故上を目指そうなどと思ってしまったのか。
 冬馬と違って頭脳も才能も人柄も人望も劣る。やっと手に入れた店長という立場でさえも「消去法」だ。冬馬のように、初めから望まれて就任したわけではない。店長でいられるのも、セナと陸がいるからこそだ。ホストたちからの信頼は自分ではなく、あの二人へ向けられたもの。所詮、店長とは名ばかりのお飾りにすぎない。
 どれだけ携帯の登録数が多くても、何の利害もなく葵のように待っていてくれる人がいるわけでも、智也と圭介のように辛く当たっても慕ってくれるスタッフがいるわけでもない。ましてや、樹のように、互いに心を傾けられる相手もいない。
 この手の中には、何もなかった。
 結局、何をしても報われない奴は報われないのだ。努力も苦労も苦痛も、僻みも妬みも羨みも、何も報われることなくじわじわと澱のように溜まっていく。
 それがあの時、一気に浮かび上がってきただけのこと。
 正社員になることで、店長になることで、次期社長という希望を見出すことで、冬馬の弱味を握ることで気付かないふりをしてきた。
 あの背中に重ねて見ているのは、自分自身だということに。
 自分が理想とする道を行く、理想像そのものの冬馬は――先に見えるあの背中は、憧れだった。
 だから追い付きたかった、越えたかった。
 冬馬のように優秀ならば、認めてくれただろうか。関心を持ってくれただろうか、振り向いてくれただろうか。社長になれば、良くやったと褒めてくれるだろうか。
 そんな幼稚な願望に気付いた時、心底自分が憐れに思えた。
 いい年をして、いつまで親に囚われている。いつまで親の影を追いかけるつもりだ、と。
 自分の生き方を押し付ける父親も、身勝手な理由で放置した母親も憎かった。だから家を出て自由を求めた。例え最期は野垂れ死んだとしても、一人気ままに生きて自由を謳歌しようと思った。それなのに、これまで歩んできた道は、親の影響を受けた果てのものだった。
 あの日、あの場所で冬馬と出会わなければ、こんな情けない自分を知ることはなかった。冬馬がいなければ、冬馬さえいなければ――。
 三年前、樹はもう意識がないように見えた。平良が言うようにもし生きているのなら、あの時の記憶はないかもしれない。だとしたら、あれほど懐いていた冬馬に裏切られた恨みは相当なものだろう。
 だから、全ての情報を渡した。
「樹を探してどうすんだ」
 そう聞いてみたけれど、
「ただの好奇心だって。すげぇ強ぇんだろ?」
 譲二から聞いた話では、平良は暴行だか傷害だかで捕まったらしい。なら、どうせ自分の実力を試すためとかそのあたりだろう。
 結局平良が何者なのか、樹をアヴァロンにおびき寄せる方法すら教えられなかったけれど、そんなことどうでもよかった。ただ樹が冬馬を恨み、憎んでいるのなら、消してくれるかもしれない。
 姑息でも卑怯でも、何とでも言えばいい。冬馬が目の前から消えてくれるのなら、それでいい。特別に思っていた相手に恨まれ、殺される冬馬の絶望した顔が見たい。
 初めは、アヴァロンに樹をおびき寄せて平良が接触する計画に便乗し、冬馬を巻き込むつもりだった。けれどそれは、突然横槍してきた依頼によって中止になった。
「とにかくこっちを優先な。文句言うなって、成功報酬一千万だぜ。とにかくできるだけ頭数揃えてくれりゃいいから、な」
 平良はそう言った。初めに一度会ったきり、後は全て電話でのやり取りだった。
 一千万もの報酬を払える依頼主が誰なのか気にならないわけではなかったが、もうこれ以上待っていられなかった。日に日に残忍性が増していく。ぱんぱんに膨らんだ風船を目の前にして、いつ割れるかと待つ時の緊張感に似ていた。
 譲二が仲間を集め、良親は元アヴァロンのスタッフに連絡を入れ事情を説明した。彼らは二つ返事で承諾した。一方で、リンとナナを人質に智也と圭介を巻き込んだ。その後で、冬馬だ。
 案の定、冬馬は激昂したけれど断れないことは分かっていた。
 やっと、解放される。
 わずかな安堵と平良からの指示で計画が進む中、一つだけ気になることがあった。ターゲットの名前だ。土御門陽。土御門と言えば安倍晴明。樹のことが頭を掠った。譲二も同じように気になったらしい。けれど、この時代に陰陽師などいるはずがない。
 廃ホテルで譲二らの到着を待っていると、ナナをつけていた仲間から連絡が入った。撒かれた、と。行き先はどうせリンのところだ。すぐに追えと指示を出した。監視が撒かれたことを冬馬たちに悟られるわけにはいかない。黙っておくのが正解だ。
 満身創痍の冬馬を見て高揚した。成す術なくされるがままの姿を見て興奮した。
 やっとだ。やっと冬馬に勝てる。この束縛から解放される。
 けれど、そう事は上手く運ばなかった。何がどうなっているのか、有り得ない場所から飛び込んできた着物の男女と陽が唱えた呪文、宙に浮かぶ札。まさかと思ったけれど、にわかには信じ難い。
 怪訝に思っていたところに、今度は生き物のようにせり上がってきた土壁だ。しかも樹たちが乗っていた。どういういきさつで失踪していた樹と下平が再会したのか疑問に思ったが、陽と繋がっているのなら、樹は陽を助けに来たのだろう。ならば冬馬は眼中にないはずだ。そう思ったのに、当ては外れた。
『どう考えても真っ当じゃない仕事を冬馬さんが受けるわけない』
 あの頃とは打って変わって流暢に喋る樹の言葉に苛立った。初めは、あの時のことを覚えているのかと疑ったが、煽っても樹は否定しなかった。つまり覚えていない。
 覚えていないのに、冬馬のことを信じていた。
『いらなくなったから切られた。それだけのことだよ』
 まさに因果応報。樹は嫌味のつもりで言ったのだろうか。冬馬たちは、どんな気持ちだっただろう。
 リンとナナの保護、樹と仲間たちの圧倒的な強さと、平良の裏切り。
『上に行きたいのなら、執着心を捨てろ』
 店長に就任した時、店に来たオーナーからそう告げられた。執着は障害になる、と。
 冬馬に執着しているという自覚があっただけに、見透かされている気がした。それを捨てられなかった。やっぱり、オーナーは間違っていなかったのだ。
 樹の強烈な怒りと殺意を感じながら、これで終わりであることを悟った。おそらくスーツの二人も刑事だ。確実に現行犯。けれどそれは冬馬たちも同じだ。
 当初の目的は果たせなくても道連れにはできる――そう、思った。
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